1988年からの十数年で、吉野家は社名にドーナツ会社の頭文字を加え、女性客向けの新業態を出し、持ち帰りずしの会社を傘下に収めた。それでも収益の大半は牛丼が稼ぎ続けた。ドーナツもカレーも撤退か縮小に終わり、京樽は二度目の機会をつかむまでに4年を要している。単品への集中で倒れた会社が幅を広げようとすると、往々にして本業の強さがそのまま基準になり、新しい業態の未熟さが目につく。この時期の多角化が長く実らなかった背景には、そうした比較の厳しさもあったと思われる。
一方で、この期間に整えた資本の形は残った。店頭登録から一部上場までの10年で、同社は更生会社という履歴を市場のうえで清算している。ただし上場の直後に始まった牛丼の価格競争は、多角化が果たせなかった役割を突きつけた。値下げをしないという方針が1年で覆ったことは、幅を広げただけでは一品への依存は解けないことを示している。看板商品を丸ごと失う事態に直面するのは、その3年後であった。