吉野家ホールディングスディー・アンド・シー吸収合併による多角化と、京樽買収・東証一部上場

牛丼一品への集中をどこまで解くか——再建を終えた会社が選んだ幅の広げ方

時期 1988年3月
意思決定者(推定) 杉本惇(社長)・安部修仁 1992年以降の社長
論点 多角化と資本市場への復帰
概要
1988年3月、吉野家はセゾングループでダンキンドーナツを営む株式会社ディー・アンド・シーを吸収合併し、商号を吉野家ディー・アンド・シーへ改めた。牛丼一品への集中で一度つまずいた反省から業態の幅を広げ、1990年1月の株式店頭登録、1999年10月の京樽買収を経て、2000年11月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
背景
1987年に更生手続を終えた同社は、輸入バラ肉の調達力を武器に牛丼一品で稼いでいたが、1991年4月に迫る牛肉の輸入自由化で商社やハム・ソーセージメーカーの参入が見込まれていた。客層が都心の男性勤め人に偏る単品では、地方への出店にも限りがあった。
内容
合併では両社の管理部門を共通化して経費を削り、組織の再編を先に済ませた。1989年11月には米国子会社の人気商品を逆輸入した女性客向けの新業態を原宿へ出し、1990年1月に日本証券業協会へ店頭登録した。1999年10月には更生会社の京樽を傘下に収めている。
含意
ドーナツもカレーも根づかず、多角化そのものは長く成果に乏しかった。それでも会社更生法申請から20年での一部上場に到達した一方、上場の直後に価格競争が始まり、値下げをしないという方針は1年で覆ることになる。
筆者の見解

幅を広げても、稼ぎ手は変わらなかった

1988年からの十数年で、吉野家は社名にドーナツ会社の頭文字を加え、女性客向けの新業態を出し、持ち帰りずしの会社を傘下に収めた。それでも収益の大半は牛丼が稼ぎ続けた。ドーナツもカレーも撤退か縮小に終わり、京樽は二度目の機会をつかむまでに4年を要している。単品への集中で倒れた会社が幅を広げようとすると、往々にして本業の強さがそのまま基準になり、新しい業態の未熟さが目につく。この時期の多角化が長く実らなかった背景には、そうした比較の厳しさもあったとみられる。

一方で、この期間に整えた資本の形は残った。店頭登録から一部上場までの10年で、同社は更生会社という履歴を市場のうえで清算している。ただし上場の直後に始まった牛丼の価格競争は、多角化が果たせなかった役割を突きつけた。値下げをしないという方針が1年で覆ったことは、幅を広げただけでは一品への依存は解けないことを示している。看板商品を丸ごと失う事態に直面するのは、その3年後であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

再建の完了と、輸入自由化で薄れる調達の優位

吉野家は1987年に約100億円の債務を完済し、同年3月に会社更生手続を終えた。倒産から6年8カ月での再建であり、店舗数も売上高も倒産前の水準を上回るところまで戻っていた。もっとも、この復調を支えていたのは牛丼一品を安く早く出す型そのものというより、その型を成り立たせる牛肉の調達力であった。輸入枠が国によって決められていた当時、畜産振興事業団が放出する輸入牛肉のうちバラ肉は年1万トン強で、その半分近くにあたる約6000トンを吉野家が使っていた[1][2]

その優位に期限が見えていた。牛肉の輸入自由化が1991年4月に迫っていたためである。輸入枠が撤廃されれば、他の外食企業だけでなく、それまで食肉流通を担ってきた商社やハム・ソーセージメーカーまでが独自にバラ肉を輸入し、牛丼チェーンを営むことも可能になる。客層が都心の男性勤め人に偏る単品では量的な成長にも限りがあり、首都圏を離れて地方へ出るなら、勤め人以外の客を取り込まなければ食数が伸びない。倒産前の地方進出が裏目に出た理由も、そこにあった[3][4]

業態の実験と、フランチャイズをつなぎ留める必要

新しい業態への試みは1986年から始まっていた。カレー専門店、うどん店、牛丼とカレーの複合店などを実験したものの、成果はいずれも乏しかった。一方で出店の速度を上げるには、直営中心からフランチャイズ重視へ切り替えるほかない。地方の有力企業や駅弁販売業者を加盟店として引き入れ、その地域の出店を任せるほうが効率がよいためである。牛丼一品しか差し出せない本部では、複数の外食チェーンと契約して条件を比べる地方企業をつなぎ留められなかった[5][6]

加盟店の側も、牛丼だけを扱う相手として本部を見ていたわけではない。東海地区の加盟企業タニザワフーズは、ロッテリアやケンタッキーフライドチキンを含む6社のファストフードと契約し、どの仕組みが最も儲かるかを競わせていた。北陸地区の加盟企業も牛丼にこだわらず、立地の条件に応じてダンキンドーナツを出すという。加盟店に選ばれ続けるには、本部が複数の業態を持ち、そのシステムを示せることが条件になりつつあった[7]

決断

管理部門の統合を先に済ませた吸収合併

1988年3月、吉野家はセゾングループでドーナツ専門店ダンキンドーナツを営む株式会社ディー・アンド・シーを吸収合併し、商号を株式会社吉野家ディー・アンド・シーへ改めた。新しい業態を一から育てるのではなく、同じグループ内で既に店を持つ会社を取り込む形である。合併では両社の管理部門を共通化して経費を削り、組織の再編による体質の強化を先に済ませた。牛丼とドーナツという商品の重なりのない組み合わせで、多角化の入り口を作った[8][9]

商号に「ディー・アンド・シー」を残した点にも、この合併の位置づけが表れている。牛丼の会社という看板は保ちつつ、社名の上では単品専業から離れる。合併の翌年から、吉野家は米国子会社ヨシノヤウエストの社長を務めた幸島武氏を本社常務へ迎え、新しい業態の開発を任せた。同氏は現地で鶏の照り焼き丼や野菜サラダなど日本にない商品を投入して当てており、日本の牛丼単品主義をあえて取らない経験を積んでいた[10][11]

女性客向けの新業態と、株式公開

1989年11月、東京・原宿に開いた新業態「トゥイナーズ」には、吉野家の「よ」の字も掲げなかった。224平方メートル・70席と社内では超大型で、主力は鶏の照り焼きとブロッコリーなどの温野菜をご飯に載せたチキンボウル480円。米国で当たった商品の逆輸入である。客の約7割が女性で、客単価は約700円と吉野家の平均を260円上回り、月商は1000万円と通常店に並んだ。1991年からは年間の出店計画の3分の1にあたる年30店をこの業態にあてる構想であった[12][13]

合併と新業態を並べたうえで、1990年1月、吉野家ディー・アンド・シーは日本証券業協会に店頭登録銘柄として登録した。会社更生法の申請から10年での株式公開である。更生手続の終結から3年足らずで市場に戻れたのは、債務の完済とセゾングループ傘下での資本増強を早い時期に済ませていたためであった。以後の10年は、この店頭登録を足がかりに、業態を増やしながら市場第一部を目指す期間となる[14][15]

結果

実らなかったドーナツと、二度目で手に入れた京樽

多角化の成果は長く出なかった。合併で引き継いだダンキンドーナツ事業は伸びず、1998年9月に撤退している。カレー店の多店舗化も振るわない。牛丼以外の柱を求める同社が次に狙ったのが、持ち帰りずしの京樽であった。1995年10月から提携交渉を始めたものの、1000億円を超える債務の処理をめぐって折り合わず、1996年9月に交渉は途切れる。京樽が会社更生法の適用を申請すると、吉野家は支援企業として名乗りを上げたが、1997年3月、京樽は加ト吉の支援を受けて再建する道を選んだ[16][17]

出遅れの理由を、同社の幹部は自らの経験に求めている。更生会社になった経験からすると、あまり積極的に動くと京樽の社員の反感を買うと考え、中立的な立場を守るほうが更生法申請後の交渉を進めやすいと判断したという。吉野家が保全管理人を訪ねたのは、加ト吉が動いてからおよそ1週間後であった。もっとも、この時点で京樽との縁が切れたわけではない。1999年10月、吉野家ディー・アンド・シーは更生会社である株式会社京樽の株式を取得し、持ち帰りずしという別業態を傘下に加えている[18][19]

一部上場と、その直後に始まった価格競争

2000年11月、吉野家ディー・アンド・シーは東京証券取引所市場第一部へ上場した。会社更生法の申請から20年での一部上場は奇跡の復活として扱われたものの、社内の受け止めは祝賀一色ではなかった。マクドナルドやコンビニエンスストアの弁当との競合で、同年2月から8月までの既存店売上高は4.5%減。9月末には牛丼2位の松屋フーズが牛めし並盛を290円へ3割値下げし、吉野家との間に110円の差をつけた。10月には全店ベースの売上高も前年を1%下回っている[20][21]

上場の場で安部修仁社長は値下げをしないと明言し、他社への追随は効き目が弱いこと、経済が縮むときこそ底を想定した費用構造を作るのが先であること、それが1980年のつまずきで社内に残った免疫であることを理由に挙げた。ところが1年もたたないうちに方針は変わる。2001年7月26日に愛知以西の365店、8月1日に静岡以東の424店で、並盛を400円から280円へ3割引き下げた。仕入れや店内作業、本部費用の削減を先に4割方進め、パート・アルバイト2500人の増員まで手配したうえでの値下げであった。多角化で薄めきれなかった牛丼一品への依存が、価格の勝負となって表に出た[22][23]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号「5年で立ち直った吉野家の"奇跡"」
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号「吉野家ディー・アンド・シー 女性客狙い、人気商品を米国から逆輸入」
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号「京樽争奪戦、加ト吉勝利の舞台裏」
  • 週刊東洋経済 2000年11月25日号「上場で"奇跡の復活"でも浮かれ気分になれないワケ」
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「牛丼戦争に吉野家が王手!? 松屋を10円抜き去る新価格」
  • 週刊東洋経済 2014年8月9日号「安部修仁と吉野家の時代」
  • 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】

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