ニプロ の歴史

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創業 1947年
創業者 佐野實
創業地 滋賀県大津市
創業
1947年、21歳の佐野實が滋賀県大津市で電球の再生を始めたのが出発点である。1950年には同じ大津市でびわこ電球製作所を営み、この時期に日本電気硝子との取引が始まった。1954年7月、日本電気硝子の西日本総代理店になったのを機に京都市下京区へ日本硝子商事を設立し、アンプル用硝子管と錠剤瓶用硝子管の販売に入っている。有価証券報告書が創業年とするのはこの年である。同じ1954年にアンプル管の製造を機械化したことで、大阪に300軒ほどあったアンプル加工業者は15社まで減った。硝子管を扱う商いを始めた会社が、売り先の業界構造そのものを変えている。
決断
新しい事業は、既存の得意先と競合しない場所から選んだ。アンプル管の取引で製薬会社とつながりながら、1965年4月に始めたのは医薬品ではなく製薬会社向けの輸液セット販売だった。佐野實氏は、得意先と競合する製薬事業ではなく医療用具をやると述べている。1969年8月に富沢製作所を子会社として注射針の生産へ入り、1972年4月には日本プラスチック・スペシャリティーズを買収して株式会社ニプロと改称した。魔法瓶用中瓶の自動機も、大阪の地場産業を痛めるとして輸出を断り続けている。ただし2000年2月にはアンプル用生地管の独占販売権で輸入品を排除したとして公正取引委員会の排除勧告を受け。得意先を守る構えは、原料を握る側に立ったところで独占の指弾へ変わっている。
現況
創業の事業である硝子容器だけが、現在も損失を出している。2026年3月期の売上高6,605億円のうち医療関連が5,236億円・営業利益523億円、医薬関連が811億円・120億円で、ファーマパッケージングは546億円の売上に対し15億円の営業損失だった。2011年に豪アムコールから医療用硝子事業を取得し、フランス・米国・ドイツの製造子会社を傘下に収めて世界規模にした部門である。全社の営業利益は376億円、営業利益率は5.7%で、売上が10倍になった1987年3月期の水準から動いていない。同部門の設備投資63億円は減価償却費54億円を上回り、撤退の判断は示されていない。
競合
不採算部門を捨てないことを統治力と呼んだ会社が、23年後に捨てる側へ回った。2002年、佐野實氏は小売をやめよというアナリストの求めを退け、安定収益の総量が赤字を承知の新事業への投資を支えると説明している。その4年後にスーパーマーケットとドラッグストアの子会社を譲渡し、43年続けた小売から退いた。同じ医療機器でも祖業のカメラ事業を日本産業パートナーズへ譲渡したオリンパスは祖業と長年の主力を手放して内視鏡へ絞り、営業利益をそこから得ている。ニプロは3部門を並べたまま利益率5.7%にとどまり、2025年6月に創業家以外から社長となった山崎剛司氏が2027年度の営業利益率7.0%以上を掲げた。小売が医療と医薬を育てたのと同じ役目を、硝子容器は果たしていない。
ニプロ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 電球の再生から硝子加工の機械化へ、技術を売る商社の型 (1947年〜)

電球を焼き直す仕事から硝子加工の技術を得るまで

ニプロの出発点は硝子の販売ではなく、電球の再生にあった。創業者の佐野實氏は1947年、21歳で滋賀県大津市に電球再生の仕事を興し[1]、琵琶湖天然瓦斯の協力を得て操業した[2]。1950年には同じ大津市でびわこ電球製作所を営み、この時期に日本電気硝子との取引[3]が始まっている。硝子加工の技術は当時、欧米が先行しており、日本には電球や真空管の製造工程を通じて伝わった[4]。佐野氏はその工程から技術を身につけ、手作業が当たり前だった硝子加工を機械の側へ移した。のちに佐野氏は『当社は電球の製造によって、ガラスの加工技術を身につけることができた』[引用元]と講演で振り返っている。

  • ニプロ 有価証券報告書 第58期(2011年3月期)【役員の状況】
    • [1]佐野實の生年月日は1926年6月10日で、1947年時点の年齢は21歳
    • [2]1947年に佐野實が滋賀県大津市で電球再生事業を興した
    • [3]1950年にびわこ電球製作所を経営し、日本電気硝子との取引が始まった
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [4]硝子加工技術は電球・真空管の製造工程を通じて日本に伝わったとの佐野實の説明

1954年7月、日本電気硝子の西日本総代理店になったのを機に、佐野氏は京都市下京区に日本硝子商事を設立し、アンプル用硝子管と錠剤瓶用硝子管の販売を始めた[5]。有価証券報告書が創業年とするのはこの年にあたる。前身の電球事業で得た機械化の知見はただちに製品へ移された。同じ1954年、アンプル管の製造を機械化している。当時の大阪には300軒ほどのアンプル加工業者がいたが、この加工機械の普及によって15[6]社まで減った。硝子管を売る商いを始めた会社が、売り先の業界構造そのものを塗り替えたことになる。1959年11月に本店を大阪市大淀区へ移し、1960年3[7]月には滋賀県大津市に大津工場を設けて管瓶や小型電球用バルブの生産に入った。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [5]1954年7月に京都市下京区で日本硝子商事を設立しアンプル用硝子管・錠剤瓶用硝子管の販売を開始
    • [7]1959年11月に本店を大阪市大淀区へ移転、1960年3月に大津工場を設置
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [6]大阪に300軒ほどいたアンプル加工業者が加工機械の普及で15社に減った
  • ニプロ 有価証券報告書 第58期(2011年3月期)【役員の状況】
    • [1]佐野實の生年月日は1926年6月10日で、1947年時点の年齢は21歳
    • [2]1947年に佐野實が滋賀県大津市で電球再生事業を興した
    • [3]1950年にびわこ電球製作所を経営し、日本電気硝子との取引が始まった
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [4]硝子加工技術は電球・真空管の製造工程を通じて日本に伝わったとの佐野實の説明
    • [6]大阪に300軒ほどいたアンプル加工業者が加工機械の普及で15社に減った
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [5]1954年7月に京都市下京区で日本硝子商事を設立しアンプル用硝子管・錠剤瓶用硝子管の販売を開始
    • [7]1959年11月に本店を大阪市大淀区へ移転、1960年3月に大津工場を設置

商社でありながら機械を作る、独特の業態が生まれた事情

1963年9月、魔法瓶用中瓶を加工する自動機械を開発し、魔法瓶用硝子の販売を始めた[8]。魔法瓶の中瓶製造機械はすべて自社製となり、大阪地区に2台しかない最新機で全需要[9]を賄うほどの生産性を実現している。原料を入れる者と製品を取り出す者、2人いれば動く機械だった。世界の主要企業から引き合いが来たが、魔法瓶は大阪の地場産業であり、この機械を輸出[10]すれば地元の産業を痛めるとして、佐野氏は輸出を断り続けた。目先の売上より取引先の産業基盤を優先した判断にあたる。1987年の講演でも、この方針を守り続けていると語っている。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [8]1963年9月に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [9]最新の魔法瓶中瓶製造機械は大阪地区に2台しかなく全需要を賄い、必要人員は投入と取出の2人
    • [10]魔法瓶製造機械の輸出は大阪の地場産業を損なうとして拒んだ

この会社の業態は、単純な商社にも製造業にも収まらない。佐野氏自身が『本質的には商社であるが、やることは工業的であり、技術的である』[引用元]と述べ、経営の根幹を『商品を売るよりも、まず技術を売ること』[引用元]に置いていた。取引先が必要とする生産機械を自社で開発し、その機械が使う材料を買ってもらう。硝子管そのものの利幅ではなく、加工工程を握ることで取引を続ける構えである。アンプル管の自動機を納めた先は製薬会社であり、その製薬会社がのちに医療機器の顧客になる。取引の相手を替えずに扱う品目を替える動き方だった。この型が、のちに医療機器へ移るときの足場になった。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [8]1963年9月に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [9]最新の魔法瓶中瓶製造機械は大阪地区に2台しかなく全需要を賄い、必要人員は投入と取出の2人
    • [10]魔法瓶製造機械の輸出は大阪の地場産業を損なうとして拒んだ

硝子から遠い二つの川、スーパーマーケットと医療機器

1963年11月、大阪府豊中市服部に食料品中心のニッショーストア服部店を開き、スーパーマーケット業界[11]に入った。硝子商が食品小売に出るのは唐突に映るが、佐野氏の説明は一貫している。新規参入にあたっては、その業界の発展に寄与できるかを検討[12]したうえで決める。スーパーについては生鮮三品の鮮度落ちを防ぎ、鮮度を上げることに技術で貢献できると考えた。安く買い叩いて安く売るのが当時の常識だったなかで、正当な値段で少し等級の高い品を仕入れさせ、品質[13]で差をつける方針を採った。『ニッショーの品物は高いけれども品質は良い』[引用元]という評判は、この方針の結果である。

  • ニプロ 有価証券報告書 第53期(2006年3月期)【沿革】
    • [11]1963年11月に大阪府豊中市服部でニッショーストア服部店を開設しスーパーマーケット業界に進出
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [12]新規参入は当該業界の発展に寄与できるかを検討して決めるという佐野實の説明
    • [13]高い等級の品を正当な値段で仕入れ、品質で差別化する方針を採った

医療への入口は1965年4月、製薬会社向けに輸液セットの販売を手掛[14]けたことにある。アンプル管の取引で製薬業界とつながりがあり、硝子の加工技術も持っていた。ただし佐野氏は、得意先である製薬会社と競合する医薬品ではなく、医療用具[15]を選んだ。1969年8月には富沢製作所を子会社として注射針の生産[16]に入り、販売するだけの立場から自ら作る立場へ移った。1972年4月には日本プラスチック・スペシャリティースを買収[17]して株式会社ニプロと改称し、医療機器の国内販売を担わせている。『ニプロ』の名はこのとき手に入れた社名に由来し、のちに本体の商号となる。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [14]1965年4月に製薬会社向けに医療機器(輸液セット)の販売を手掛けた
    • [16]1969年8月に富沢製作所を子会社とし医療機器の生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [15]得意先の製薬会社と競合しない医療用具を事業領域に選んだ
    • [17]1972年4月に日本プラスチック・スペシャリティースを買収して株式会社ニプロへ商号変更し医療機器の国内販売を担当させた
  • ニプロ 有価証券報告書 第53期(2006年3月期)【沿革】
    • [11]1963年11月に大阪府豊中市服部でニッショーストア服部店を開設しスーパーマーケット業界に進出
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [12]新規参入は当該業界の発展に寄与できるかを検討して決めるという佐野實の説明
    • [13]高い等級の品を正当な値段で仕入れ、品質で差別化する方針を採った
    • [15]得意先の製薬会社と競合しない医療用具を事業領域に選んだ
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [14]1965年4月に製薬会社向けに医療機器(輸液セット)の販売を手掛けた
    • [16]1969年8月に富沢製作所を子会社とし医療機器の生産を開始
    • [17]1972年4月に日本プラスチック・スペシャリティースを買収して株式会社ニプロへ商号変更し医療機器の国内販売を担当させた

器材・ストア・医療、性格の違う三事業を並べた理由

1977年5月、商号を株式会社ニッショーへ変更し、同月[18]に滋賀県草津市へ技術開発センターを開設した。センターはのちに総合研究所となる。1974年からはニプロ医工でディスポーザブル・シリンジとコイル型ダイアライザの製造を始め[19]、1981年4月には秋田県大館市に大館工場を設けて医療機器の生産を広げた。[20]使い捨て医療用具の本質は感染を防ぐことにある。注射針はかつて煮沸消毒して何人にも使ったが、B型肝炎のウイルスは煮沸では死なない[21]。安全のためには使い捨てが要る。一方で看護の手間を代替する製品でもあるため、安くなければ普及しない。ここに、大量生産の機械を自前で作れる会社の強みが効いた。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [18]1977年5月に商号を株式会社ニッショーへ変更し、同月に草津市へ技術開発センターを開設
    • [20]1981年4月に秋田県大館市へ大館工場を設置し医療機器の生産を開始
    • [19]1974年にニプロ医工でディスポーザブル・シリンジとコイル型ダイアライザの製造を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [21]使い捨て医療用具は感染防止のために必要で、煮沸ではB型肝炎ウイルスが死なないとの説明

1980年代のニッショーは、器材・ストア・医療という毛色の異なる三部門を並べていた。佐野氏はこれを場当たりの拡張ではなく方針として説明している。企業は世の中の変化に対応しながら拡大を続けねばならず、そのために多角化を選んだ。しかも業績が好調で余力のある時期に新しい分野へ挑む[22]。器材事業はすでに成熟し、大きく伸びる部門ではないが、安定勢力として扱われた[23]『ハイテクを駆使して業績を上げていくのと同時に、これまで長年にわたって培ってきた低いテクノロジーによる事業も根幹にしっかりもっていることが、企業にとっては非常に重要だ』[引用元]という言葉が、その位置づけを示している。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [22]業績が好調で余力のある時期に新分野へ挑戦する方針を佐野實が説明した
    • [23]器材事業は成熟部門だが安定勢力として維持する位置づけだった
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [18]1977年5月に商号を株式会社ニッショーへ変更し、同月に草津市へ技術開発センターを開設
    • [20]1981年4月に秋田県大館市へ大館工場を設置し医療機器の生産を開始
    • [19]1974年にニプロ医工でディスポーザブル・シリンジとコイル型ダイアライザの製造を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [21]使い捨て医療用具は感染防止のために必要で、煮沸ではB型肝炎ウイルスが死なないとの説明
    • [22]業績が好調で余力のある時期に新分野へ挑戦する方針を佐野實が説明した
    • [23]器材事業は成熟部門だが安定勢力として維持する位置づけだった

上場を可能にしたのは医療ではなく小売だった

1987年2月9日、大阪証券取引所市場第二部[24]に上場[25]した。上場時点の主力を医療と見るのは後知恵にあたる。三部門を並べていたことが、株式公開の要件を満たす売上規模を用意したことになる。1986年3月期の経常利益の構成比は医療事業部門35.0%、器材事業部門33.6%、ストア[26]事業部門31.4%で、三つがほぼ拮抗していた。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [24]上場日は1987年2月9日
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [25]1987年2月に大阪証券取引所市場第二部へ上場
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [26]1986年3月期の経常利益構成比は医療35.0%・器材33.6%・ストア31.4%

上場時の規模は、1987年3月期で売上高645億円、経常利益24[27]億円だった。翌1988年3月期は売上高685億円、営業利益36億円、経常利益28[28]億円で着地している。注射針の生産は月2億数千万本に達し[29]、使い捨て医療用具の分野で国内第2位を占めた。商標『ニプロ』の知名度は国内よりも海外で高い、と当の社長が語るほど輸出が先行していた。連結では1987年3月期に売上高716億円・経常利益30億円を見込み、医療用具の生産はニプロ医工[30]、国内販売は株式会社ニプロが担う分業になっていた。硝子加工の機械化から始まった会社が、20年ほどで医療用具の量産企業になっている。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [27]1987年3月期の売上高645億円、経常利益24億円
    • [30]連結の1987年3月期見込みは売上高716億円・経常利益30億円で、生産はニプロ医工、国内販売は株式会社ニプロが担当
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [28]1988年3月期は売上高685億円、営業利益36億円、経常利益28億円
    • [29]注射針の生産は月2億数千万本で使い捨て医療用具分野の国内第2位
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
    • [24]上場日は1987年2月9日
    • [28]1988年3月期は売上高685億円、営業利益36億円、経常利益28億円
    • [29]注射針の生産は月2億数千万本で使い捨て医療用具分野の国内第2位
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [25]1987年2月に大阪証券取引所市場第二部へ上場
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
    • [26]1986年3月期の経常利益構成比は医療35.0%・器材33.6%・ストア31.4%
    • [27]1987年3月期の売上高645億円、経常利益24億円
    • [30]連結の1987年3月期見込みは売上高716億円・経常利益30億円で、生産はニプロ医工、国内販売は株式会社ニプロが担当

医薬品への参入と、独占をめぐる代償

1988年4月、タイにニッショーニプロコーポレーションを設立して海外生産に入った。同年9月には菱山製薬に資本参加し、医薬品分野へ進んでいる。[31]医療機器に医薬品を並べる二本柱の形はここから始まった。1991年5月にベルギー、1994年12月に中国上海、1995年8月にブラジル、1996年3[32]月に米国と、販売と製造の拠点を相次いで置いた。使い捨て医療用具は単価が低く輸送費の比重が重いため、市場の近くで作る必要がある。海外展開の速さは、製品の性質に沿った選択にあたる。1997年4月にはシンガポールにも販売会社を置いている。

  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [31]1988年4月にタイでニッショーニプロコーポレーションを設立、同年9月に菱山製薬へ資本参加し医薬品分野へ進出
    • [32]1991年5月ベルギー、1994年12月中国上海、1995年8月ブラジル、1996年3月米国に拠点を設立
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
    • [31]1988年4月にタイでニッショーニプロコーポレーションを設立、同年9月に菱山製薬へ資本参加し医薬品分野へ進出
    • [32]1991年5月ベルギー、1994年12月中国上海、1995年8月ブラジル、1996年3月米国に拠点を設立

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ニプロの沿革1954〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1976年電球の再生から硝子加工の機械化へ、技術を売る商社の型佐野實日本硝子商事を設立
佐野實アンプル用・錠剤瓶用硝子管の販売を開始
佐野實本店を移転
佐野實大津工場を新設
佐野實管瓶・小型電球用バルブの生産を開始★★
佐野實魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始
佐野實製薬会社向けに医療機器(輸液セット)の販売を手掛ける★★
佐野實富沢製作所を子会社とし医療機器の生産を開始★★
佐野實ニプロに医療機器の国内販売を担当させる
佐野實株式の額面金額を変更するため日本硝子商事に吸収合併
1977〜2000年三本柱のニッショーと、多角化が可能にした1987年の上場佐野實商号をニッショーに変更
佐野實技術開発センターを開設
佐野實大館工場を新設し医療機器の生産を開始
佐野實大阪証券取引所市場第二部に上場
佐野實ニッショーニプロコーポレーションを設立
佐野實菱山製薬に資本参加
佐野實医薬品事業に参入★★
佐野實ベルギーにおいて医療機器の販売を目的としたニッショーニプロヨーロッパN.V.を設立
佐野實医療機器の製造・販売を目的とした尼普洛(上海)有限公司を設立
佐野實医療機器の製造・販売を目的としたニプロメディカル Ltdaを設立
佐野實東京証券取引所市場第一部に上場
佐野實ニッショーニプロアジアPTE LTDを設立
佐野實アンプル用生地管の独占販売権を用いた輸入品排除と、公正取引委員会の排除勧告

ニプロが日本電気硝子製アンプル用生地管の西日本地区独占販売権を背景に、韓国からの輸入に踏み切ったアンプル製造業者ナイガイに対し、値上げの通告と実質的な供給停止で応じた行為。1999年6月に公正取引委員会が立入検査に入り、2000年2月に排除勧告が出された。2006年6月5日の審判審決で独占禁止法第3条違反が認定されている。

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★★★
2001〜2012年ニプロへの改称、多角化の放棄、そして硝子の世界展開佐野實ニプロに商号変更
佐野實固形剤事業に参入
佐野實スーパーマーケット・ドラッグストア子会社の譲渡と小売事業からの撤退

2006年、ニプロがスーパーマーケットを営む株式会社ニッショーの全株式を阪急百貨店へ、ドラッグストアを営む株式会社ニッショードラッグの保有株式をキリン堂へ譲渡し、1963年から43年続けた小売事業から撤退した経営判断。譲渡理由を有価証券報告書は、経営資源の投入を医療機器および医薬品部門へ重点的に行うためと記している。

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★★★
佐野實経皮吸収剤事業に参入
佐野實アムコールから医療用硝子事業を取得★★
2013〜2026年佐野嘉彦体制の規模拡大と、13年ぶり交代で始まった収益重視佐野嘉彦グッドマンを子会社とし循環器関連事業を強化★★
佐野嘉彦ユニチカのメディカル事業を譲受
佐野嘉彦田辺製薬販売(のちニプロESファーマ)を子会社化★★
佐野嘉彦内視鏡関連事業に参入
佐野嘉彦ニプロESファーマの医薬品製造販売承認をニプロが承継
山崎剛司ニプロファーマがニプロESファーマを吸収合併
山崎剛司ニプロアジアパシフィックグループ Pte Ltdを設立
山崎剛司バスキュラー事業部の営業組織をニプロバスキュラーに移管
出典・参考
  • ニプロ 有価証券報告書 第53期(2006年3月期)【沿革】
  • ニプロ 有価証券報告書 第58期(2011年3月期)【役員の状況】
  • ニプロ 有価証券報告書 第73期(2026年3月期)【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号
  • ニプロ「あゆみ(事業の変遷)1947〜1993」

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