ニプロの出発点は硝子の販売ではなく、電球の再生にあった。創業者の佐野實氏は1947年、21歳で滋賀県大津市に電球再生の仕事を興し[1]、琵琶湖天然瓦斯の協力を得て操業した[2]。1950年には同じ大津市でびわこ電球製作所を営み、この時期に日本電気硝子との取引[3]が始まっている。硝子加工の技術は当時、欧米が先行しており、日本には電球や真空管の製造工程を通じて伝わった[4]。佐野氏はその工程から技術を身につけ、手作業が当たり前だった硝子加工を機械の側へ移した。のちに佐野氏は『当社は電球の製造によって、ガラスの加工技術を身につけることができた』[引用元]と講演で振り返っている。
1954年7月、日本電気硝子の西日本総代理店になったのを機に、佐野氏は京都市下京区に日本硝子商事を設立し、アンプル用硝子管と錠剤瓶用硝子管の販売を始めた[5]。有価証券報告書が創業年とするのはこの年にあたる。前身の電球事業で得た機械化の知見はただちに製品へ移された。同じ1954年、アンプル管の製造を機械化している。当時の大阪には300軒ほどのアンプル加工業者がいたが、この加工機械の普及によって15[6]社まで減った。硝子管を売る商いを始めた会社が、売り先の業界構造そのものを塗り替えたことになる。1959年11月に本店を大阪市大淀区へ移し、1960年3[7]月には滋賀県大津市に大津工場を設けて管瓶や小型電球用バルブの生産に入った。
1963年9月、魔法瓶用中瓶を加工する自動機械を開発し、魔法瓶用硝子の販売を始めた[8]。魔法瓶の中瓶製造機械はすべて自社製となり、大阪地区に2台しかない最新機で全需要[9]を賄うほどの生産性を実現している。原料を入れる者と製品を取り出す者、2人いれば動く機械だった。世界の主要企業から引き合いが来たが、魔法瓶は大阪の地場産業であり、この機械を輸出[10]すれば地元の産業を痛めるとして、佐野氏は輸出を断り続けた。目先の売上より取引先の産業基盤を優先した判断にあたる。1987年の講演でも、この方針を守り続けていると語っている。
この会社の業態は、単純な商社にも製造業にも収まらない。佐野氏自身が『本質的には商社であるが、やることは工業的であり、技術的である』[引用元]と述べ、経営の根幹を『商品を売るよりも、まず技術を売ること』[引用元]に置いていた。取引先が必要とする生産機械を自社で開発し、その機械が使う材料を買ってもらう。硝子管そのものの利幅ではなく、加工工程を握ることで取引を続ける構えである。アンプル管の自動機を納めた先は製薬会社であり、その製薬会社がのちに医療機器の顧客になる。取引の相手を替えずに扱う品目を替える動き方だった。この型が、のちに医療機器へ移るときの足場になった。
1963年11月、大阪府豊中市服部に食料品中心のニッショーストア服部店を開き、スーパーマーケット業界[11]に入った。硝子商が食品小売に出るのは唐突に映るが、佐野氏の説明は一貫している。新規参入にあたっては、その業界の発展に寄与できるかを検討[12]したうえで決める。スーパーについては生鮮三品の鮮度落ちを防ぎ、鮮度を上げることに技術で貢献できると考えた。安く買い叩いて安く売るのが当時の常識だったなかで、正当な値段で少し等級の高い品を仕入れさせ、品質[13]で差をつける方針を採った。『ニッショーの品物は高いけれども品質は良い』[引用元]という評判は、この方針の結果である。
医療への入口は1965年4月、製薬会社向けに輸液セットの販売を手掛[14]けたことにある。アンプル管の取引で製薬業界とつながりがあり、硝子の加工技術も持っていた。ただし佐野氏は、得意先である製薬会社と競合する医薬品ではなく、医療用具[15]を選んだ。1969年8月には富沢製作所を子会社として注射針の生産[16]に入り、販売するだけの立場から自ら作る立場へ移った。1972年4月には日本プラスチック・スペシャリティースを買収[17]して株式会社ニプロと改称し、医療機器の国内販売を担わせている。『ニプロ』の名はこのとき手に入れた社名に由来し、のちに本体の商号となる。
1977年5月、商号を株式会社ニッショーへ変更し、同月[18]に滋賀県草津市へ技術開発センターを開設した。センターはのちに総合研究所となる。1974年からはニプロ医工でディスポーザブル・シリンジとコイル型ダイアライザの製造を始め[19]、1981年4月には秋田県大館市に大館工場を設けて医療機器の生産を広げた。[20]使い捨て医療用具の本質は感染を防ぐことにある。注射針はかつて煮沸消毒して何人にも使ったが、B型肝炎のウイルスは煮沸では死なない[21]。安全のためには使い捨てが要る。一方で看護の手間を代替する製品でもあるため、安くなければ普及しない。ここに、大量生産の機械を自前で作れる会社の強みが効いた。
1980年代のニッショーは、器材・ストア・医療という毛色の異なる三部門を並べていた。佐野氏はこれを場当たりの拡張ではなく方針として説明している。企業は世の中の変化に対応しながら拡大を続けねばならず、そのために多角化を選んだ。しかも業績が好調で余力のある時期に新しい分野へ挑む[22]。器材事業はすでに成熟し、大きく伸びる部門ではないが、安定勢力として扱われた[23]。『ハイテクを駆使して業績を上げていくのと同時に、これまで長年にわたって培ってきた低いテクノロジーによる事業も根幹にしっかりもっていることが、企業にとっては非常に重要だ』[引用元]という言葉が、その位置づけを示している。
1987年2月9日、大阪証券取引所市場第二部[24]に上場[25]した。上場時点の主力を医療と見るのは後知恵にあたる。三部門を並べていたことが、株式公開の要件を満たす売上規模を用意したことになる。1986年3月期の経常利益の構成比は医療事業部門35.0%、器材事業部門33.6%、ストア[26]事業部門31.4%で、三つがほぼ拮抗していた。
上場時の規模は、1987年3月期で売上高645億円、経常利益24[27]億円だった。翌1988年3月期は売上高685億円、営業利益36億円、経常利益28[28]億円で着地している。注射針の生産は月2億数千万本に達し[29]、使い捨て医療用具の分野で国内第2位を占めた。商標『ニプロ』の知名度は国内よりも海外で高い、と当の社長が語るほど輸出が先行していた。連結では1987年3月期に売上高716億円・経常利益30億円を見込み、医療用具の生産はニプロ医工[30]、国内販売は株式会社ニプロが担う分業になっていた。硝子加工の機械化から始まった会社が、20年ほどで医療用具の量産企業になっている。
1988年4月、タイにニッショーニプロコーポレーションを設立して海外生産に入った。同年9月には菱山製薬に資本参加し、医薬品分野へ進んでいる。[31]医療機器に医薬品を並べる二本柱の形はここから始まった。1991年5月にベルギー、1994年12月に中国上海、1995年8月にブラジル、1996年3[32]月に米国と、販売と製造の拠点を相次いで置いた。使い捨て医療用具は単価が低く輸送費の比重が重いため、市場の近くで作る必要がある。海外展開の速さは、製品の性質に沿った選択にあたる。1997年4月にはシンガポールにも販売会社を置いている。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1976年電球の再生から硝子加工の機械化へ、技術を売る商社の型 | 佐野實 | 日本硝子商事を設立 | ★ | |
| 佐野實 | アンプル用・錠剤瓶用硝子管の販売を開始 | ★ | ||
| 佐野實 | 本店を移転 | ★ | ||
| 佐野實 | 大津工場を新設 | ★ | ||
| 佐野實 | 管瓶・小型電球用バルブの生産を開始 | ★★ | ||
| 佐野實 | 魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始 | ★ | ||
| 佐野實 | 製薬会社向けに医療機器(輸液セット)の販売を手掛ける | ★★ | ||
| 佐野實 | 富沢製作所を子会社とし医療機器の生産を開始 | ★★ | ||
| 佐野實 | ニプロに医療機器の国内販売を担当させる | ★ | ||
| 佐野實 | 株式の額面金額を変更するため日本硝子商事に吸収合併 | ★ | ||
| 1977〜2000年三本柱のニッショーと、多角化が可能にした1987年の上場 | 佐野實 | 商号をニッショーに変更 | ★ | |
| 佐野實 | 技術開発センターを開設 | ★ | ||
| 佐野實 | 大館工場を新設し医療機器の生産を開始 | ★ | ||
| 佐野實 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 佐野實 | ニッショーニプロコーポレーションを設立 | ★ | ||
| 佐野實 | 菱山製薬に資本参加 | ★ | ||
| 佐野實 | 医薬品事業に参入 | ★★ | ||
| 佐野實 | ベルギーにおいて医療機器の販売を目的としたニッショーニプロヨーロッパN.V.を設立 | ★ | ||
| 佐野實 | 医療機器の製造・販売を目的とした尼普洛(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 佐野實 | 医療機器の製造・販売を目的としたニプロメディカル Ltdaを設立 | ★ | ||
| 佐野實 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 佐野實 | ニッショーニプロアジアPTE LTDを設立 | ★ | ||
| 佐野實 | アンプル用生地管の独占販売権を用いた輸入品排除と、公正取引委員会の排除勧告 ニプロが日本電気硝子製アンプル用生地管の西日本地区独占販売権を背景に、韓国からの輸入に踏み切ったアンプル製造業者ナイガイに対し、値上げの通告と実質的な供給停止で応じた行為。1999年6月に公正取引委員会が立入検査に入り、2000年2月に排除勧告が出された。2006年6月5日の審判審決で独占禁止法第3条違反が認定されている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2001〜2012年ニプロへの改称、多角化の放棄、そして硝子の世界展開 | 佐野實 | ニプロに商号変更 | ★ | |
| 佐野實 | 固形剤事業に参入 | ★ | ||
| 佐野實 | スーパーマーケット・ドラッグストア子会社の譲渡と小売事業からの撤退 2006年、ニプロがスーパーマーケットを営む株式会社ニッショーの全株式を阪急百貨店へ、ドラッグストアを営む株式会社ニッショードラッグの保有株式をキリン堂へ譲渡し、1963年から43年続けた小売事業から撤退した経営判断。譲渡理由を有価証券報告書は、経営資源の投入を医療機器および医薬品部門へ重点的に行うためと記している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐野實 | 経皮吸収剤事業に参入 | ★ | ||
| 佐野實 | アムコールから医療用硝子事業を取得 | ★★ | ||
| 2013〜2026年佐野嘉彦体制の規模拡大と、13年ぶり交代で始まった収益重視 | 佐野嘉彦 | グッドマンを子会社とし循環器関連事業を強化 | ★★ | |
| 佐野嘉彦 | ユニチカのメディカル事業を譲受 | ★ | ||
| 佐野嘉彦 | 田辺製薬販売(のちニプロESファーマ)を子会社化 | ★★ | ||
| 佐野嘉彦 | 内視鏡関連事業に参入 | ★ | ||
| 佐野嘉彦 | ニプロESファーマの医薬品製造販売承認をニプロが承継 | ★ | ||
| 山崎剛司 | ニプロファーマがニプロESファーマを吸収合併 | ★ | ||
| 山崎剛司 | ニプロアジアパシフィックグループ Pte Ltdを設立 | ★ | ||
| 山崎剛司 | バスキュラー事業部の営業組織をニプロバスキュラーに移管 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ニプロ)