三井E&S三井物産造船部の分離独立と株式会社玉造船所の設立
二十年赤字を重ねた造船部を、三井物産はなぜ畳まず別会社として立てたか
- 概要
- 1937年7月31日、三井物産は1917年に設けた造船部を分離独立させ、株式会社玉造船所を設立した。登記は同年8月2日。岡山県児島郡の玉工場を拠点に、商社の一部門であった造船事業が独立の資本と決算を持つ会社になった。1942年1月に社名を三井造船へ改め、現在の三井E&Sにつながる。
- 背景
- 造船部は第一次世界大戦下の船舶不足を背景に発足したが、大戦終結後の不況で三井物産の首脳部に廃止論が出るほど収支が弱かった。営業利益を計上できたのは1921年度と1924年度のみで、昭和に入っても金融恐慌・世界恐慌が重なり、毎期赤字が続いていた。
- 内容
- 1937年7月、造船部を三井物産から切り離して株式会社玉造船所を設立した。独立後は船台を相次いで新設し、同年に艦艇課、翌1938年8月に化工課を設けて、商船・修繕船に艦艇と陸上プラントを加えた事業構成へ広げた。1940年3月には海軍管理工場の指定を受けた。
- 含意
- 商社の帳簿では赤字部門でしかなかった造船が、独立採算の会社として設備と人を抱える形に変わった。造船部時代に取得したB&W社のディーゼル機関製造販売実施権は、後年まで残る舶用エンジン事業の元手となった。
商社の帳簿では測れなかったもの
戦時体制に合わせた分社という説明では、この判断の芯を捉えきれない。造船部を廃止する案は1920年代の三井物産にすでにあり、創業から昭和初期にかけて営業利益を計上できたのが1921年度と1924年度のみという成績を前に、商社の一部門として抱え続ける理由は乏しかった。それでも三井物産が畳まずに独立会社として立てたのは、赤城山丸で確かめたディーゼル船の優位と、B&W社から得た製造販売実施権という、商社の帳簿には映りにくい資産が造船部にあったからだといえる。
もっとも、独立が業績の安定をもたらしたとみるのは、外の事情を軽く見すぎている。1937年前後の好転には、海運界の躍進と政府の助成策が重なっていた。独立から3年で海軍管理工場に指定され、やがて特殊潜航艇まで量産した以上、会社が自らの採算で事業を選べた時間は長くない。分離独立が効いたのは、むしろ戦後であった。五工場を閉じて玉野一本へ集約し、計画造船で立ち直れたのは、商社の一部門ではなく、独立した会社として設備と人を抱えていたからだとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
商社の一部門として始まった造船
三井物産が造船へ手を伸ばした背景には、第一次世界大戦下の船舶不足があった。船舶部長の川村貞浜郎氏は1916年6月に造船業の兼営を建議したが容れられず、その後も繰り返し幹部へ意見を述べ、1917年10月23日に社長へ陳情書を提出した。同年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、11月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に「造船業並之附帯事業」が加えられた。三井E&Sはこの総会決議の日を創業記念日としている[1][2]。
もっとも、事業としての立ち上がりは苦しかった。大戦の終結とともに不況が訪れ、三井物産の首脳部では造船部を廃止する意見が強まった。1923年の関東大震災で修繕船が殺到し、廃止論は沙汰やみとなったものの、収支の弱さは変わらなかった。創業から昭和初期にかけて営業利益を計上できたのは1921年度と1924年度のみで、1927年から1932年末までに商船27隻・修繕船847隻などを手がけながら、毎期赤字の連続であった[3][4]。
赤字のなかで積んだ技術と、変わり始めた環境
赤字が続くあいだも、造船部は技術への支出を止めなかった。1923年5月起工の赤城山丸には船舶部と協議のうえB&W社から輸入した1,600馬力のディーゼル機関を積み、姉妹船の秋葉山丸にはレシプロ機関を装備して、北米太平洋航路で両船の航海成績を比べた。燃料費・修繕費・人件費のいずれでもディーゼル船が優れると確かめたうえで、1926年8月13日に同社と製造販売実施権契約を結んだ。舶用エンジンという後年の柱は、この時期に仕込まれていた[5]。
事業環境が動き始めたのは1930年代半ばであった。国際情勢の緊迫化、海運界の躍進、政府の助成策が重なり、造船の受注環境は好転へ向かう。しかし商社の一部門という形のままでは、船台の増設ひとつにも本店の承認が要り、投資の速度は物産全体の都合に左右される。造船を独立の企業として立て、自らの採算で設備と人を抱える形に改めるかどうかが、三井物産にとっての論点になっていたとみられる[6]。
決断
分離独立と株式会社玉造船所の設立
1937年7月31日、三井物産は造船部を分離独立させ、株式会社玉造船所を設立した。登記は8月2日で、1917年の創業から数えて20年目にあたる。社名は工場の所在地に由来する。用地は1917年に岡山県児島郡日比町大字玉および和田の海岸で買収した塩田・田畑・山林など合計18万6,000坪で、地主は145名にのぼった。商社の一部門として始まった造船事業は、ここで独立の資本と決算を持つ会社になった[7][8]。
独立の効き目は成績に表れた。造船部の時代に毎期の赤字が続いた営業成績は、分離独立した1937年7月前後から安定へ向かい、会社は船台を相次いで新設して第一次大戦以来の受注ブームに応じた。三井物産の勘定のなかで判断されていた設備投資が、造船を専業とする会社の判断に移ったことが、この転換を後押ししたとみられる。設立初年度にあたる1938年3月期の売上高は0.20億円にすぎず、規模はまだ小さかった[9][10]。
独立直後に広がった事業の中身
独立と同じ月に日中戦争が始まり、事業の中身も変わっていった。玉造船所は1937年に艦艇課を設け、1940年には艦艇部へ昇格させて工場とドックを拡張し、同年3月に海軍管理工場の指定を受けた。商船と修繕船を主体としてきた造船部の事業は、独立から3年ほどで軍需を大きく抱える構成へ変わった。独立した会社として設備を増やせる立場になったことが、この拡張の速さを支えていた[11]。
もう一つの変化は陸上部門にあった。1938年、三井鉱山の人造石油工業化に関連して諸装置を受注したことを受け、同年8月に化工課を新設し、1940年に化工機部へ昇格させた。船と並ぶ製品群をこの時期に抱えたことが、戦後の化学プラントや産業機械へつながっていく。同じころには大阪商船の高速ディーゼル貨客船である報国丸・愛国丸・護国丸と、三井物産船舶部の高速貨物船淡路丸の建造も決まっていた[12]。
結果
三井造船への改称と戦後の再建
会社の形が整うにつれて事業は膨らんだ。1942年1月6日には社名を三井造船へ改め、同年6月に資本金を3,000万円へ増やして、艦船の量産に応じる態勢をつくった。戦時下では戦標船・潜水艦・特殊潜航艇を量産し、化工機部もプラント建設に当たっている。1937年に0.20億円だった売上高は、1945年3月期には0.97億円へ増えた。造船部の20年とは異なる速さで、会社の規模が変わっていった[13][14]。
敗戦により事業は一度縮んだ。三井造船は1945年9月に続行船の建造と修繕船工事の許可を得て生産を再開し、内外地の五工場を閉鎖して、戦災を免れた玉野造船所一本へ規模を集約する。1947年に始まった計画造船で再建の糸口をつかみ、同年6月には播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を各1隻受注した。戦後の日本で最初の鋼製輸出船であり、日本の造船業が世界市場へ出ていく端緒となった[15]。
- 三井造船株式会社50年史(三井造船, 1968)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 三井E&S 有価証券報告書【沿革】