戦時体制に合わせた分社という説明では、この判断の芯を捉えきれない。造船部を廃止する案は1920年代の三井物産にすでにあり、創業から昭和初期にかけて営業利益を計上できたのが1921年度と1924年度のみという成績を前に、商社の一部門として抱え続ける理由は乏しかった。それでも三井物産が畳まずに独立会社として立てたのは、赤城山丸で確かめたディーゼル船の優位と、B&W社から得た製造販売実施権という、商社の帳簿には映りにくい資産が造船部にあったからだといえる。
もっとも、独立が業績の安定をもたらしたとみるのは、外の事情を軽く見すぎている。1937年前後の好転には、海運界の躍進と政府の助成策が重なっていた。独立から3年で海軍管理工場に指定され、やがて特殊潜航艇まで量産した以上、会社が自らの採算で事業を選べた時間は長くない。分離独立が効いたのは、むしろ戦後であった。五工場を閉鎖して玉野一本へ集約し、計画造船で立ち直れたのは、商社の一部門ではなく、独立した会社として設備と人を抱えていたからだとみられる。