日油企業再建整備法に基づく第二会社としての分離独立と、日本油脂の再設立
肥料と分かれた戦後再編で、技術も顧客も異なる四つの事業がなぜ一社に残ったか
- 概要
- 1949年7月、日産化学工業は集中排除法と企業再建整備法の適用を受け、油脂・塗料・火薬・溶接棒に関する事業を継承する第二会社を分離独立させた。社名は1937年から1945年まで使っていた日本油脂を踏襲し、本社は日本橋の白木屋に置かれた。存続会社には肥料を中心とする化学部門が残り、現在の日油はこの第二会社を法人上の設立としている。
- 背景
- 母体は1921年設立のスタンダード油脂で、1937年に石鹸・塗料の各社を合併して日本油脂となり、1943年までに帝国火薬工業などを吸収して総合化学会社の形を整えた。1945年4月には日本鉱業から化学部門の営業譲渡を受けて日産化学工業へ改称し、肥料までを一社で抱えていた。
- 内容
- 切り分けの線は肥料とそれ以外のあいだに引かれた。肥料を軸とする化学部門は存続会社に残り、油脂・塗料・火薬・溶接棒の四事業はまとめて第二会社へ移った。四つは日産財閥のもとで別々に買い集めた会社を源流とし、相互の技術的な関連は薄かった。
- 含意
- 四事業を一社で抱える構成はその後も残り、1965年の独立採算制6事業部として組織の形になった。1991年3月期の売上高1374億円のうち、1949年に継いだ四つの系統があわせて86%を占める一方、事業部間の壁という課題も生んだ。
どこで切り、何を一つに残したか
この再編を、戦後改革に押し切られた手続きとしてだけ読むと、後の日油の形が見えなくなる。効いたのは、線をどこに引いたかであった。肥料は存続会社に残り、油脂・塗料・火薬・溶接棒という技術も顧客も異なる四つが、まとめて第二会社へ渡された。1965年の独立採算制6事業部は、この出自を組織の形に置き換えたものといえる。1991年3月期でも、四つの系統だけで売上高1374億円の86%を占めていた。
もっとも、四事業を一社に残した構成は代償も伴った。事業部が独立した会社のように動く形は、40年後には壁として表れ、情報や技術を出し渋る実態を招いた。日本油脂は1990年から1年をかけ、顧客や代理店を含む210人に延べ290時間の聞き取りを行って、その弊害を洗い出さなければならなかった。会社をどこで切り、何を一つに残すか。1949年の線引きは、半世紀後の組織の課題まで決めていたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
日産財閥のもとで束ねられた四つの事業
日油の法人としての来歴は、1921年に設立されたスタンダード油脂までさかのぼる。硬化油の工業化を国内で最初に手がけた会社で、1931年に合同油脂と改称し、その拠点は後の王子工場となった。この会社を母体に、ベルベット石鹸や国産工業不二塗料製造所などを合併して、1937年に日本油脂株式会社が発足した。本社は日産館に置かれ、油脂・石鹸・塗料を一体で運営する化学会社の形が整った[1][2]。
合併はそこで止まらなかった。1943年までに、1919年設立の帝国火薬工業をはじめ、化学工業で古い歴史と技術を持つ各社を次々に吸収し、あわせて三国工場(塗料)と神明工場(溶接棒)を開設した。原料も顧客も異なる油脂・塗料・火薬・溶接棒の四つが、日産財閥の一社のもとに並んだ。資材統制と軍需が事業の前提を支えていた戦時下では、この構成でも一社として無理なく動いていたとみられる[3][4]。
母体の改称と、戦後改革の適用
1945年4月、日本油脂は日本鉱業から化学部門の営業譲渡を受け、同時に社名を日産化学工業へ改めた。譲り受けた化学部門は、高峰譲吉氏らが明治期に興した東京人造肥料を源流とし、1943年に日本鉱業へ吸収されていた肥料会社である。これで油脂・塗料・火薬・溶接棒に肥料が加わり、社名は受け入れた側ではなく、受け入れられた側のものを採った。終戦の四カ月前であった[5][6]。
終戦後、化学肥料は重要産業に指定され、工場の復旧が急がれた。戦争中は原料の燐鉱石の輸入が途絶えて生産に支障が出ており、肥料の立て直しは急務であった。しかし会社そのものは、集中排除法と企業再建整備法の適用を受けた。日産財閥は解体され、戦時下に合併を重ねて膨らんだ事業を、そのままの形で持ち続けることはできなくなった。どの事業を存続会社に残し、どれを切り出すか。線引きは避けられなくなった[7][8]。
決断
四事業を束ねた第二会社の設立
1949年7月、企業再建整備法に基づき、日産化学工業から油脂・塗料・火薬および溶接棒に関する事業を継承する第二会社が分離独立した。社名は1937年から1945年まで使っていた日本油脂を踏襲し、本社は日本橋の白木屋に置かれた。日油の会社沿革は、1937年の会社を第一次、この会社を第二次日本油脂と呼び分けている。有価証券報告書が設立以降の変遷を1970年から書き起こすのも、この会社を法人上の設立とみているためである[9][10]。
切り分けの線は、肥料とそれ以外のあいだに引かれた。存続会社の日産化学工業には肥料を軸とする化学部門が残り、油脂・塗料・火薬・溶接棒の四事業はまとめて第二会社へ移った。四つはいずれも日産財閥のもとで別々に買い集めた会社を源流とし、技術も販売先も重なりが薄い。それでも一社に束ねられたのは、戦時中の合併で工場や人員が入り組み、事業ごとには切り分けにくかったためとみられる[11][12]。
結果
継承した四事業のその後
再出発した日本油脂は、継承した四つの事業をそれぞれ伸ばした。1951年10月に本社を丸の内東京ビルへ移し、1954年10月にはロケット用推進薬の製造を始めている。帝国火薬工業から受け継いだ火薬の技術が、戦後の新しい用途へ向かった一例といえる。1957年2月には有機過酸化物の製造にも入り、1961年11月には川崎市に千鳥工場を開いて石油化学へ進んだ[13][14]。
四事業を一社で抱える構成は、そのまま同社の骨格として残った。1965年には独立採算制の6事業部を設け、油化・塗料・化薬・食品・石化・溶接という分野別の組織に改めている。業態の違う事業を並べて持つ会社にとって、各事業部が独立した会社のように動く形は効率がよかった。1991年3月期の売上高1374億円のうち、1949年に継いだ四つの系統だけであわせて86%を占めた[15][16]。
事業部の壁と、40年後の手直し
同じ形が、40年を経て弊害として表れた。日本油脂は1990年11月に神島一郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設け、社員だけでなく顧客や代理店まで合計210人から、延べ290時間に及ぶ聞き取り調査を1年かけて行った。そこで明らかになったのは、事業部間に高い壁ができ、自分の事業部さえ儲かればよいという考えから情報や技術を出し渋る実態であった。事業部をまたぐ人事異動もほとんどなかった[17]。
岡本甲子男社長の号令で、同社は1991年11月に六つの事業部を指揮する経営企画室を新設し、全社の立場から事業部の計画を修正する権限を与えた。翌年4月には油化・石化・化薬の各事業部を統合して化学品事業部とし、総売上高の半分・全従業員の3分の1を占める組織にまとめている。若手を入社3年で別の事業部へ移す人事制度も同時に入れた。四つの事業を一社で持つことの重さが、ここで改めて表に出た[18][19]。
- 日油 有価証券報告書 第99期(2022年3月期)【沿革】
- 日油 会社沿革(公式サイト)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日経ビジネス 1992年3月2日号「日本油脂 整理統合、人事交流…硬直した事業部制にカツ」