国産ジェット旅客機スペースジェット(MSJ/旧MRJ)の開発中止
1兆円を投じ半世紀ぶりの悲願をどこで断つか——型式証明の直前で撤退を選んだ判断
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- 概要
- 2023年2月7日、三菱重工業が、小型ジェット旅客機「三菱スペースジェット(MSJ、旧MRJ)」の開発を中止すると発表した経営判断。2020年秋に開発を凍結してから約2年半、事業を再開するに足る採算性を見いだせないとして、泉澤清次社長が撤退を決断した。開発子会社の三菱航空機はトヨタ自動車など出資者との協議を経て清算する方針が示された。
- 背景
- 三菱重工は2008年に事業化を決め、YS-11以来およそ半世紀ぶりの国産旅客機に挑んだ。ボーイング787の主翼を供給するなど航空機の有力サプライヤーであったが、機体全体を設計し量産する経験は乏しく、米国での型式証明取得に手間取って納入は6度延期され、開発費は当初の1500億円規模から1兆円超へ膨らんでいた。
- 内容
- 2020年10月に「立ち止まる」として開発を事実上凍結したうえで事業性を検討したが、再開しても販売開始まで毎年1000億円規模の開発費が数年かかる見通しで、量産開始が当初計画から10年遅れて投資回収の余地が細っていた。ビジネスとして成り立たないと判断し、型式証明取得の直前で開発を打ち切った。
- 含意
- 関連資産の減損は2020年3月期・2021年3月期に済ませており、中止が当期の三菱重工の経営に与える直接の影響はほとんどなかった。稼ぎ頭の火力発電が脱炭素の逆風にさらされるなか、次の柱を模索する過程で半世紀の悲願を断つ判断となり、投じた1兆円で得たものの多くは戦闘機など他分野への知見にとどまった。
挑戦の代償と、撤退という決断
この決断の中心にあるのは、埋没費用にどう向き合うかという問いである。1兆円と15年を注いだ事業が型式証明の直前まで到達していただけに、あと一歩で完成するという心理は撤退を難しくする。だが三菱重工は、再開後もなお毎年1000億円規模の開発費が数年続き、10年の遅れで回収の見込みが立たないという冷徹な計算のうえに撤退を選んだ。減損を先に済ませて損失を確定させていたことが、感情に流されずに幕を引く助けになったとみることができる。
一方で、これほどの国家的挑戦が形にならずに終わった重みは、財務の健全さだけでは測れない。半世紀ぶりの悲願を掲げながら、機体全体を設計・量産する経験の不足が最後まで制約となった点に、技術の一部で秀でることと、産業として旅客機を成立させることの隔たりがうかがえる。撤退が正しかったかは、培った知見が次期戦闘機など後続の事業でどこまで生きるかによって、なお問われ続けるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
半世紀ぶりの国産旅客機への挑戦
三菱重工業は2008年に三菱航空機を設立し、小型ジェット旅客機「三菱リージョナルジェット(MRJ)」の事業化を決めた。戦後の国産旅客機YS-11以来、およそ半世紀ぶりの挑戦であり、部品数が自動車の100倍にあたる約300万点に及ぶ航空機の量産は、東海地方を一大産業拠点へ育てるという国家的な期待も背負っていた。国も後に500億円の補助金を投じ、官民が並走する事業として立ち上がった[1]。
挑戦の下地には、機体づくりへの自負があった。三菱重工はボーイングの主力大型機「B787」の主翼を供給する有力サプライヤーであり、防衛では戦闘機の開発も手がけて航空分野の知見は広かった。米国製の最新鋭エンジンを積んだMRJは燃費で評価され、遅延を重ねてもなお427機の正式受注を保つほど市場の期待は厚かった。技術力への信頼が、この巨大プロジェクトを支える土台となっていた[2]。
度重なる延期と開発費の膨張
だが開発は初期からつまずいた。半世紀ぶりの国産旅客機ゆえに機体全体を設計・量産する経験が不足し、商業運航に欠かせない航空当局の型式証明の取得に手間取った。2013年に予定した初号機の納入は6度にわたって延期され、2016年ごろには設計に大きな問題が判明して900件を超える設計変更が生じた。当初1500億円程度と見込んだ開発費は、2018年には5000億円超へ膨らんだとみられていた[3]。
遅延の代償はやがて損失として表面化した。2019年に機体は「三菱スペースジェット(MSJ)」へ改称されたが、2020年2月には6度目の延期を発表し、泉澤清次社長は会見で「関係者にはたいへん申し訳ない」と述べた。三菱重工は2020年3月期に2633億円、翌2021年3月期に1162億円の関連損失を計上して資産を減損し、事業がすぐには利益をもたらさないことを実質的に認めた。この時点で、量産で投資を回収する道は険しくなっていた[4]。
決断
「立ち止まる」から中止へ
三菱重工は2020年10月、新型コロナウイルスの影響もあって開発を「立ち止まる」として事実上凍結した。それから約2年半、事業として再開できるかを見極めたうえで、2023年2月7日、同社は2022年度第3四半期決算の会見でスペースジェットの開発中止を正式に発表した。量産前の最後の関門である米連邦航空局の型式証明を取得する直前まで来ながらの撤退であり、日本発のジェット旅客機構想はここで途絶えた[5]。
撤退の理由は採算性に尽きた。泉澤清次社長は会見で「事業性を検討してきたが、開発を再開するに足るものを見いだせなかった」と説明した。航空機は多額の初期投資を長い販売・運用で回収する事業だが、MSJは当初計画から量産開始が10年遅れ、回収できる「賞味期限」が短くなっていた。型式証明の作業を再開しても販売まで毎年1000億円規模の開発費が数年かかる状況では、事業として成り立たないと判断した[6]。
三菱航空機の清算という後始末
中止にともない、開発を担ってきた子会社の三菱航空機は清算する方針が示された。同社にはトヨタ自動車や三菱商事も出資しており、他の出資者との協議を経て手続きを進めるとした。会社は同年3月末に旧三菱航空機(MSJ資産管理)として解散が決議され、資産を三菱重工へ移す準備を経て清算に向かった。事業化から15年をかけた国家プロジェクトが、法人としても幕を下ろした[7][8]。
中止の判断そのものに時間がかかったのは、巻き込んだ利害関係者が多かったためであった。航空機のサプライヤーの裾野は広く、量産が始まれば拠点のある東海地方は航空機産業の集積地になるとの期待があった。凍結から結論まで2年半を要した背景には、こうした波及の広さと、半世紀ぶりの悲願をどこで断つかという重みがあった。撤退を決めるまでの逡巡そのものが、この事業の大きさを映していた[9]。
結果
軽い財務影響と、失われた1兆円
1兆円を投じた事業の撤退でありながら、中止が三菱重工の経営に与えた直接の打撃はほとんどなかった。関連損失の大半を2020年3月期・2021年3月期に減損として処理し終えていたためである。2023年3月期の連結売上高は4兆2027億円、営業利益は1911億円と復調し、2022年末時点のD/Eレシオは0.58倍と健全性の目安とされる1倍を下回っていた。製造拠点ごとに分かれていた調達の一本化など経営効率化が、巨額投資を吸収する余力を生んでいた[10][11]。
数字の上で揺るがなかった一方、事業として残ったものは乏しかった。三菱重工は反省点として「型式認証プロセスへの理解不足」や、長期の開発を継続するリソースの不足を挙げた。1兆円の開発費で得たのは、戦闘機や次世代技術に向けた知見の活用といった、輪郭の定まらないものであった。約3900時間にわたる試験飛行を重ねながら商用化には届かず、半世紀ぶりの国産旅客機は形にならないまま終わった[12]。
稼ぎ頭の行方と、次への布石
撤退がむしろ照らし出したのは、次の柱をどう据えるかという課題であった。当時の稼ぎ頭は火力発電用のガスタービンなどだが、急激な脱炭素の潮流のなかで長期の先行きは明るいとは言えなかった。三菱重工は2040年に自社製品の使用まで含めたカーボンニュートラルの達成を掲げ、水素発電や二酸化炭素の回収・貯留といった新しいエネルギー事業に力を入れたが、いずれも世界で事業化の前例が乏しく、収益の柱に育つかは見通せなかった[13]。
泉澤清次社長は撤退した事業について「私としては挑戦してよかったプロジェクト。チャレンジしていかないと物事は変わらない」と語った。旅客機で培った設計や認証の経験は、次期戦闘機の開発など防衛・航空分野へ引き継ぐ構えである。もっとも、同じ規模の失敗をもう一度繰り返せば、会社の収益基盤を揺るがしかねない。半世紀の悲願に区切りをつけた三菱重工は、挑戦の成果を次にどう生かすかという課題を残した[14]。
- 週刊東洋経済 2023年3月4日号「国産ジェットの開発失敗 三菱重工を襲う本当の危機」
- 週刊東洋経済 2020年3月21日号「三菱重工業 スペースジェット大苦戦 泥沼にはまる次の稼ぎ頭」
- 週刊東洋経済 2018年2月17日号「多難の国産旅客機 MRJ、業界再編で増す不安」
- 日本経済新聞(2023年2月6日)「三菱重工、国産ジェット旅客機撤退へ 開発会社も清算」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC023ED0S3A200C2000000/
- 三菱重工業「当社SpaceJet開発活動の中止に関するお知らせ」(2023年2月7日)
- 三菱重工業 有価証券報告書(2023年3月期・連結)