浜岡の決断は、芦浜が止まったから別の場所を探したという代替の話にとどまらないだろう。芦浜では県の発表と町議会の誘致決議を先に積み上げてから漁業者と向き合い、反対が固まった。浜岡では用地の取得を先に済ませながら、国の計画への組み入れを地元の了解待ちとし、漁業者自身による影響調査と安全監視機構という条件を受け入れてから着工した。発表から着工までの3年半をかけた合意の順序の組み替えこそが、原子力を中部電力の電源に加えるための本当の選択だったのではないか。
もっとも、一つの地点で合意を丁寧に積み上げたことは、その地点に原子力を重ねていく流れも生んだ。1号機着工の翌年には2号機、6年後には3号機の増設を同じ浜岡に申し入れ、芦浜と熊野の立地が進まないまま、1991年時点で原子力の設備248万kWはすべて浜岡に集まっていた。原子力を一地点に集める電源構成は、この決断の時点で方向づけられていたとみられる。