中部電力 芦浜原子力発電所の計画断念 36年保ち続けた初の原子力立地の、三重県知事の白紙表明を受けた断念

更新:

時期 2000年2月
当時の社長 太田宏次
論点 原子力電源の立地計画の撤回
何をなぜ決めたか
概要

2000年2月、三重県の北川正恭知事が芦浜原子力発電所の計画を白紙に戻す結論を示したのを受けて、中部電力の太田宏次社長は現計画を事実上断念する考えを表明した。芦浜は三重県度会郡の紀勢町と南島町にまたがる地点で、中部電力は1964年7月に初の原子力発電所の建設地点として内定を発表し、1965年に敷地約380万m²を買収していた。電力会社が地元首長の要請で原子力発電所の建設を撤回するのは、初めての例となった。

背景

1962年度の電力長期計画で原子力1号機25万kWを初めて組み入れ、1966年6月に原子力推進本部を置いた。芦浜では1964年に南島町の関係漁協と町議会が反対を、紀勢町議会が誘致を決議し、南島町の漁業者は温排水による真珠養殖への被害を理由に反対を続けた。1966年9月には衆議院科学技術振興対策特別委員会一行の現地視察が紀伊長島港で海上阻止され、1967年9月の三重県知事の談話で現地の反対闘争態勢は解除された。

内容

1971年10月に第3の候補地点として熊野市に立地調査を申し入れたが、市議会は1972年3月に原子力反対を決議した。1977年に芦浜は国の要対策重要電源地点に指定され、1985年4月に施設計画で地点名を公表すると、6月に三重県議会が立地調査推進を決議した。一方で南島町では反対運動が再燃し、誘致決議をした紀勢町にも反対グループが生まれた。

三重県議会は1997年から1999年末までを冷却期間とし、立地の是非を検討する請願を採択したが、事態は膠着したまま推移した。

含意

2000年2月に北川正恭知事は 『原子力発電の必要性は認めるが、足掛け37年間にわたり苦しんでいる地域の人たちの声を受けて判断し、白紙に戻すという結論に達した』 と決断し、中部電力は原子力立地計画の軌道修正を迫られた。原子力の設備は浜岡原子力発電所に集まっており、1999年3月には浜岡5号機を着工していた。2003年12月には、北陸電力関西電力と共同で進めていた石川県の珠洲原子力発電所の計画についても凍結を発表している。

いつ何が起きたか 9件
筆者の見解
筆者の見解

会社からは降ろせなかった候補地

芦浜の断念は、36年間続けてきた候補地点を手放さないという判断に、会社自身ではなく県知事が区切りをつけたものと読める。会社は1967年の知事談話で現地の動きが止まった後も敷地を保有したまま対話を重ね、1985年には施設計画に地点名を載せて立地の意思を改めて示していた。地元首長の白紙表明を受けてはじめて断念に踏み切った順序は、原子力の候補地を自ら降ろす判断が、会社の側からはきわめて下しにくかったことを示しているのではないか。

もっとも、断念で失ったものは芦浜という一地点にとどまらない。熊野も動かないまま、中部電力の原子力はすべて浜岡に集まり、2003年には共同で進めていた珠洲の計画も凍結された。芦浜の断念は、原子力を浜岡一地点に頼る電源構成を確定させた出来事でもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年9月

業績の推移
立地計画の経緯

立地計画の経緯

科目 概要 備考
所在地 三重県度会郡紀勢町・南島町
候補地点の発表 1963年11月 三重県当局が芦浜を含む3地点を発表
内定の発表 1964年7月 同月に紀勢町議会が誘致を決議。南島町議会は6月に反対を決議
敷地の買収 約380万m² 1965年
施設計画での地点名の公表 1985年4月 同年6月に三重県議会が立地調査推進を決議
三重県議会の冷却期間 1997年〜1999年末 冷却期間を設けて立地の是非を検討する請願を採択
計画の断念 2000年2月 三重県知事の白紙表明を受け、太田宏次社長が現計画の事実上の断念を表明

出所:中部電力20年史(1971年)・中部電力30年史(1981年)・中部電力40年史(1991年)・火力原子力発電 51巻3号(2000年3月)

同じ問いに直面した会社
参考文献
出典・参考
  • 中部電力20年史(1971年)
  • 中部電力30年史(1981年)
  • 中部電力40年史(1991年)
  • 中部電力70年史
  • 火力原子力発電 51巻3号(2000年3月)「展望 エネルギー問題に難題重なる」(火力原子力発電技術協会)
  • 中部電力「各号機建設経緯」(浜岡原子力発電所)
  • 中部電力 会社年鑑

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