借入依存の全国多店舗化と地域一番店戦略——別会社方式が築いた百貨店帝国
店をすべて別会社にして拡げるか、本体で慎重に構えるか——地価上昇を前提にした拡張モデルはどこで限界を迎えたか
更新:
- 概要
- 水島廣雄社長が1980年代を通じて日本興業銀行からの巨額借入で全国に巨大店を出し続けた面的な拡張路線。上場するのは本体3店のみで、他店は1店1社の別会社とし、水島氏が株式の過半を握る千葉そごうを持株会社格に据えて連結対象を絞った。この設計のもとで1992年にはグループ売上高1.4兆円・国内外35店舗に達し、百貨店業界の売上高首位に立った。
- 背景
- 興銀で傍流にとどまった水島氏は1962年にそごう社長へ転じ、「在来の百貨店経営者はノレンを守る月給取り」との事業観のもと、銀行や株主の掣肘を避けて店を出し続けるため新店をすべて別会社にする手法を編み出した。一店が潰れても他店で稼ぐ危険分散の思想であった。
- 内容
- 開業で地価が上がって黒字化した店の含み益を洗い替え、次の出店の信用力に変える循環を回した。地域一番店になる巨大店を全国に展開し、グレーター・ダブル・トリプルそごうの構想を掲げた。本来のメインバンクは旧日本長期信用銀行ながら、興銀出身の水島氏が興銀の残高を意図して膨らませた。
- 含意
- 拡張は地価の上昇と販売の拡大という二つの前提に全体重を預け、別会社方式による連結外しで実態を水島氏一人が握る構造でもあった。前提が反転したとき誰も全体を止められず、後の負債1兆8700億円の破綻の根因となった。
拡大の設計が抱えた影
水島氏の設計は、銀行や株主の掣肘を避けて店を出し続けるための危険分散であり、同時に実態を一人が握るための装置でもあった。地価が上がり続ける限り、含み益が累積損失を消して信用力を生む循環は回った。だがその循環は地価上昇という一つの前提に全体重を預けており、前提が反転すると逆回転を始めた。金融マンとして旧来の百貨店経営の限界を見抜いた水島氏の関心は大きな店を作ることにあり、そこで何を売るかは二の次であったようにみえる。
連結決算や時価評価という時代の変化は、水島氏が築いた見えない構造をやがて可視化し、40年の長期政権が積み上げた前提を一度に清算させた。単一メインバンクへの依存と別会社方式による連結外しは、拡張を速める推進力であると同時に、危機が表面化したときに誰も全体を止められない構造でもあった。拡大のために編み出された設計が、そのまま破綻の設計でもあったのか。地域一番店として駅前に並んだ巨大店の行方は、百貨店という業態の後退と重なりながら、なお問いとして残るとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
興銀傍流から百貨店へ、別会社方式の発明
水島廣雄氏は1936年に中央大学法学部を最優秀の成績で卒業して日本興業銀行に入り、在職中の研究で企業担保法の基礎となる論文を著して法学博士号を得た。しかし私学出身の水島氏は興銀では傍流にとどまり、部長にもなれないまま40歳代半ばで昇進に見切りをつけた。1958年に縁戚の経営する中堅百貨店そごうへ副社長として転じ、1962年には大株主間の紛争を収める調停役として社長に就いた。当時のそごうは大阪・神戸・東京の3店しか持たない弱小企業であった[1][2]。
水島氏の事業観は在来の百貨店経営者への批判にあった。ノレンを守るだけの月給取りで事業を拡げる気概がないと見た水島氏は、口うるさい銀行や株主の掣肘を受けずに店を出し続けるため、新しい店をすべて別会社にする手法を編み出した。1967年の千葉出店では上場する(株)そごうとは別に千葉そごうを新設し、自らその株式の過半を握った。一店が潰れても他店で稼ぐ「保険の理論に基づく危険分散」であると水島氏は説き、新法人へ千葉そごうが出資する形で資本の面からもグループを掌握していった[3]。
含み益の循環と地域一番店戦略
百貨店の出店には1店あたり300億〜500億円がかかり、多店舗化には膨大な資金を要した。そごうは出店にあたりグループ他社が債務保証を負い、出店会社が銀行から資金を調達する形をとった。出店会社は百貨店用地の周辺も併せて取得し、開業で地価が上がって黒字化したところで合併などにより不動産を洗い替え、含み益の実現と累積損失の解消を同時に果たした。財務内容と信用力の高まった会社が、次の出店の資金調達を支える。地価の上昇を前提にしたこの循環が拡張の原動力であった[4]。
出店にあたって水島氏がこだわったのは地域一番店になることであった。商圏内の一番店と二番店では付加価値率がケタ違いに違うとの信念のもと、できる限り大きな店を作ることが奨励され、場所が悪くても大きな建物が建つほうを選ぶという発想が貫かれた。そごうはグレーターそごう10店、ダブルそごう20店、トリプルそごう30店といった構想を掲げて出店の速度を速め、1980年代に拡大へ弾みをつけた。地価の上昇を前提に借入で不動産を買い進める姿は、同時期のダイエーと通じるものであった[5][6]。
決断
興銀を実質メインバンクにした借入依存
拡張路線を資金面で支えたのは日本興業銀行であった。本来のメインバンクは旧日本長期信用銀行であったが、興銀出身の水島氏は興銀の融資残高を意図して拡大させた。重厚長大産業に偏っていた融資の転換を図りたい興銀にとっても、そごうへの貸し込みは好機と映った。水島氏は融資交渉で興銀と長銀をてんびんにかけ、両行から資金を引き出した。経営が破綻した時点で興銀がそごうグループに貸し込んでいた残高は、約3600億円に達していた[7]。
上場するのは本体3店を持つ(株)そごうだけで、他の店舗は基本的に1店1社の体制をとり、国内の百貨店会社だけでピーク時には30社近くに達した。全体を支配したのは水島氏が株式の過半を握る千葉そごうで、持株会社の役割を果たした。千葉そごうや横浜そごう、そごう本体を中心に各社の出資・貸付金・債務保証が網の目のように交錯し、グループ各社は(株)そごうの連結対象から外れていた。1990年代後半に取引行の要求でグループ全体の財務内容が提出されるまで、全容を知るのは水島氏一人であったといわれる[8]。
売上高首位という拡張の頂点
この設計のもとで多店舗化は1980年代を通じて加速した。1987年には横浜駅西口に当時日本最大級の売場面積を持つ横浜そごうを開き、豊田・多摩・西神・福山と出店を重ねた。1992年にはグループ売上高が1.4兆円、国内外35店舗に達して百貨店業界の売上高首位に立った。上場する(株)そごう本体の単体でも同じころ売上高は3000億円を超え、1992年2月期には当期純利益55億円と過去最高の水準を記録した。借入と出店で規模を膨らませた拡張路線が、数字のうえで頂点に達していた[9][10]。
もっとも、この売上高は借入による大量出店で積み上げたもので、各店舗の採算やグループ全体の利益率は規模に見合っていなかった。西武百貨店がリゾート開発に、ダイエーが球場や球団に巨費を投じたのと違い、そごうは本業以外への過剰な投資を行ったわけではない。それでも1970年代後半からの多店舗化はあまりに性急であった。ブランド力や商品力の弱さをテナント任せの広い売り場で覆う構図は、地価の上昇と販売の拡大という二つの前提の上に全体が乗る危うさをはらんでいた[11]。
結果
地価下落で逆回転した拡張モデル
バブル崩壊後の地価下落は、そごうの成長メカニズムを逆回転させた。地価の上昇と販売の拡大を前提にした拡大路線は、担保余力と信用力の低下から急停止を迫られた。メインバンクの興銀は1994年にグループが債務超過にあると把握して副社長を派遣し、1990年代前半から融資を絞った。国内の出店は、水島氏が200億円もの個人保証をつけてまで1997年に開いた錦糸町そごうが最後となった。含み益を生んできた地価という土台が崩れ、循環の一角が外れただけでモデル全体が回らなくなっていた[12]。
対応が遅れた背景には拡張モデルそのものがあった。取引銀行が国内140行に及び、店舗ごとの別会社方式のために本体や基幹会社がリストラを渋って、融資団の足並みは揃わなかった。40年近くトップの座にあった水島氏にとって事業の縮小は受け入れがたく、不採算店の閉鎖は先送りされた。1995年2月、営業赤字への転落を受けて水島氏は代表権を返上して退いたが、店舗ごとに積み上げた負債を本体へ集約して圧縮する手立ては乏しかった。新会計基準による連結範囲の拡大を前に、2000年、拡張の代償は1兆8700億円の負債として一度に表面へ出た[13][14]。
- 週刊東洋経済 2014年9月13日号「怪物・水島廣雄の102年 『異色銀行員』から『財界の黒幕』へ」
- 週刊東洋経済 2014年9月13日号「王国はこうして作られた 土地神話を過信したそごう転落の歴史」
- 週刊東洋経済 1999年6月19日号「そごう 存続へ最後の賭け リストラ最終案、猶予期間は6月中」
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- そごう 会社四季報(1992年2月期・単体)