{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"4581","company_name":"大正製薬ホールディングス","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/4581/","api_url":"/api/4581/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/4581/","title":"大正製薬の歴史概略","sections":[{"start_year":1912,"end_year":1945,"main_title":"薬局が生んだ一製品から始まり、小売店を株主に迎える直販の仕組みを作るまで","subsections":[{"title":"輸入品の国産化から出発した売薬製造","text":"石井絹治郎氏は1888年2月14日、香川県三野郡比地二村の農家に生まれた。小学校を卒業すると上京し、薬品卸の商店に勤めながら神田薬学校に学んで、1906年に18歳で卒業し薬剤師試験にも合格した。ただし法により開業免許は20歳に達するまで与えられず、宮内庁侍医寮薬局などに勤めて研鑽を積んでいる。免許を得た1908年2月、石井絹治郎氏は東京・牛込区市谷佐内坂町に個人経営の泰山堂薬局を開いた。ドイツなどの製薬業界と比べると、日本では薬局を起源とする製薬会社は数少ないといわれる。大正製薬は、近代薬学教育を受けた薬剤師の店から出発するという、業界では異例の出自を持つ会社だった。\n\n石井絹治郎氏は薬局の経営のかたわら、当時輸入に頼っていた滋養強壮剤のヘモグロビン末が牛の血液から製造できることに着目し、錠剤とシロップ剤を試作した。輸入品と比べても遜色がないとの評判を得たため、叔父の石井殷太郎氏ら3名の出資を仰いで、1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業した。創業の地は東京市牛込区市谷佐内町38番地であり、二つの剤形はそれぞれ「体素」と名づけて売り出したものの、ヘモグロビン製剤に特有の吸湿性への対策が足りず、発売早々に苦情と返品が相次いだ。出資者たちはいち早く出資金を回収して去り、ひとり残された石井絹治郎氏が容器の改良と乾燥剤の投入で吸湿を抑え、三共合資会社と貿易商ミクミヤへの販売委託をまとめて再び製品化にこぎつけた。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第1章 創業の時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第2章 挑戦と基盤構築","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）「大正製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第97期・2006年6月提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"卸に握られた販路を迂回するための特約株主制度","text":"事業が軌道に乗ると経理事務のできる者が要り、大正製薬所は縁故採用に頼らない一般公募を試みた。1916年春のこの公募で入社したのが上原正吉氏で、1897年12月26日に埼玉県北葛飾郡田宮村の農家に生まれ、錦城商業学校を出たばかりの青年は、初任給15円の経理担当として帳簿記入や計算にあたったが、1年後には外回りの営業を志願して認められた。当時の従業員は住込みの男子5名と通勤の女子工員2名にすぎない。上原正吉氏は後年、この時期を「私は着物に角帯をしめ、その上に前掛けを垂らした姿で自転車に乗り」（商売は戦い 1964年7月）回ったと記した。1923年9月の関東大震災では営業所も工場も被害を免れ、同業他社の被災もあって注文が殺到し、従業員は約80人まで増えた。\n\n震災後の販路拡張で地方を回った上原正吉氏が痛感したのは、販路網を卸商と問屋筋が握っており、そこを通さなければ商売が成り立たないという実態だった。卸に頼れば経費と手間は省けるが、不況が深まれば代金の回収が難しくなる。1925年ごろ、石井絹治郎氏は加盟金を預かって看板を付け割戻しをする「特約店連盟」を発案し、上原正吉氏はこれをさらに進めた案を提示した。会社を株式会社に改め、取引先の小売店に株を持ってもらうという構想である。小売店は株主として配当を受け、販売実績に応じた割戻金も得る。会社の側は安定した資本を確保しながら小売店と密接な関係を結べる。卸売制度の強固な薬品業界にあって、直販制度と株式会社化を結びつけたこの方策は大胆な挑戦として注目を集めた。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第1章 創業の時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第2章 挑戦と基盤構築","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）「大正製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第97期・2006年6月提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統制経済下での吸収合併と創業者の急死","text":"上原正吉氏の構想に基づく株式会社化は1928年5月に実現し、資本金100万円で株式会社大正製薬所が設立された。本社は文京区、工場は文京区と豊島区に置き、翌1929年11月には大阪支店を、1930年には朝鮮支店を開設した。特約株主を束ねる販売組織は共成会と呼ばれ、戦前の最盛期には全国で5,500店を擁する医薬品業界最大の販売・生産チェーンに育った。加盟する薬局・薬店には多品種の優良品を安く供給するだけでなく、割戻し・支部交付金・特売といったサービスで会員店の利益を守る仕組みだった。1937年4月に本社を東京都中央区へ移した。しかし1939年、日中戦争の進展にともなう物資統制の強化で民需品の製造販売が困難になり、朝鮮支店は廃止された。\n\n1943年、創業者の石井絹治郎氏が死去し、石井輝司氏が取締役社長に就いた。同じ年の7月に本社を豊島区へ移した。翌1944年には陸軍および海軍の協力工場となり、公用医薬品を製造した。戦争末期の1945年6月、医薬品製造業整備要項の趣旨に従って明治製薬を吸収合併し、資本金は119万円となった。国が医薬品メーカーの整理統合を進めるなかでの合併である。終戦を挟んで大正製薬所が置かれた立場は同業他社に比べて有利で、戦争による施設の被害が少なかったため、会社経理応急措置法に基づく特別経理会社の指定を免れた。同業他社の多くが1948年夏ごろまで同法の制約下で新しい施設の施工を規制されたのに対し、大正製薬所はこの期間にも自由に工場を拡張できた。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第1章 創業の時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第2章 挑戦と基盤構築","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）「大正製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第97期・2006年6月提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1965,"main_title":"特約株主に推された三代目が、電波広告とリポビタンDで大衆薬の首位を取るまで","subsections":[{"title":"特約株主の支持で決まった三代目社長の交代","text":"1946年6月、石井輝司社長の辞任にともない、事実上の経営責任者だった上原正吉氏が第3代社長に選任された。この交代を支えたのは株主の大部分を占める特約株主で、第35回株主総会の直前にあたる同年3月31日現在の株主名簿では、株主総数4,005名に対し、筆頭の上原正吉氏の持株は1,787株で全2万3,800株の1割にも満たなかった。一方、特約株主とみられる50株未満の株主は3,953名を数え、その持株合計1万1,654株は株式総数の5割に近い。制度の生みの親に寄せる小売店の期待が、社長就任の原動力となった。株主総会の数日前には進駐軍の兵士と警官が工場に乗り込み、貯蔵していたカフェインを麻薬として押収して上原正吉氏を連行する事件も起きたが、悪質な密告と判明して3日で釈放された。\n\n戦時中に機能を止めていた共成会の再建は、戦前の特約株主制度をそのまま復元する形では行われなかった。上原正吉社長は、加入者の総意で運営される協同組合主義によって再建すべきだと決断し、1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会を開いて自ら理事長に就いた。従来のチェーンがメーカーに従属していたのに対し、新しい共成会はメーカーから人格的にも経済的にも独立した薬局・薬店と製造業者とで組織される。加盟メーカーの製品を共同仕入れし、会員だけに販売する専売品を指定する仕組みである。創立総会での加入会員は都内199店、都外を合わせて204店にすぎなかった。1948年5月29日、会社は商号を大正製薬株式会社に改めた。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第3章 戦後の新スタート","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第4章 事業基盤の強化を目指して","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第5章 大衆薬の覇者に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1963年10月号「新規上場会社紹介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」（柳田邦夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"民放の電波に投じた広告費と大量販売の体制","text":"1950年6月4日の第2回参議院議員選挙で、上原正吉社長は埼玉地方区から立候補して初当選した。政界に進んだ理由について、上原正吉氏は戦争末期から戦後にかけて政治の力を借りなければ原料も材料も電気もガスも来ない状態だったと自著で説明した。翌1951年12月には物価政務次官に就任し、以後は経済調査政務次官、首都建設政務次官、郵政委員長を歴任した。社長の政界進出にともない、1951年1月6日付で養子の上原昭二氏が代表取締役に就任して社長代理を務めた。上原昭二氏は後に第6代社長に就く人物である。従業員数も増え、1951年度の営業報告書は1,000名に達しようとしていると記した。\n\nこの時期の大正製薬は電波媒体へ集中的に投資し、1955年秋に売り出した総合保健剤サモンの広告は、論語の一節を下敷きに「40才にして惑わず、惑わずサモンをのむ」と謳い、テレビで繰り返し流された。広告宣伝費は1952年度の4,438万円から1961年度には13億6,593万円へと、9年間で約30倍に増えた。1955年度と1960年度の広告量上位10社を見ると、大正製薬は1955年度は新聞とラジオ、1960年度はテレビでも上位に入っていた。販売の現場では、1963年5月に薬局・薬店向けの販促ツールとしてスライド「サウンド・リポート」が導入され、担当外商員がプロジェクターとテープレコーダーを持参して陳列やPOP照明の方法を説明して回った。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第3章 戦後の新スタート","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第4章 事業基盤の強化を目指して","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第5章 大衆薬の覇者に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1963年10月号「新規上場会社紹介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」（柳田邦夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"リポビタンDの発売と、上場の年に起きた薬害","text":"1950年代の後半、大正製薬は医療用医薬品の研究開発に本格的に取り組み始めた。健康保険制度の普及を踏まえ、この分野への進出が欠かせないと判断したためである。社内の大勢は未知の分野への進出を危ぶみ、一部には反対の声もあったが、上原昭二副社長が製薬業界の状況と将来の見通しを説いて役員会を説得した。医家向け医薬品の製造は1958年8月に始まった。一方、大衆薬では剤形を変えた商品が生まれた。1962年3月に発売したリポビタンDは、従来20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に改めたもので、発想は上原正吉社長自身によるものである。容量100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、アンプルに代えて瓶とポンキャップを採用し、味付けにはパインの風味を加えた。\n\n1963年9月16日、大正製薬は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。額面50円の株の公開価格は2,000円で、当時としては史上最高だと連日話題になった。上原正吉社長は記者団に「実力からいって高いとは思わない」（現代の眼 1965年）と答えた。上場時点の資本金は4億円、従業員は3,536名、取引店は約28,000店を数えた。1963年3月期の売上構成は品目別にパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%、ワイパア7.2%と続き、上位5〜6品目で売上高のおよそ半分を占めた。販売はチェーンシステムによる直売方式で、全国の取引店にパトロールセールスマンを派遣し、新製品の発売や業界状況に応じた販売方法を徹底させる体制だった。\n\n上場の2年後、アンプル入りの風邪薬を飲んだ人が急性薬物中毒で死亡する事例が続き、1965年に社会問題となった。メーカーの損失総額は62億8,228万円、薬局の売上げは平均で3割減ったと報じられた。当事者の一社であった大正製薬の上原正吉氏は「もし本当に毒だったらあの程度の事故では済まなかったはず」（現代の眼 1965年）と述べ、死者への責任にはふれなかった。同じ1965年、上原正吉氏は年間所得5億4,872万円で個人所得の日本一となり、6月に科学技術庁長官へ就任して社長を一時退いた。後任には妻の上原小枝氏が第4代社長として就いている。1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉氏が社長へ復帰した。","references":[{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第3章 戦後の新スタート","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第4章 事業基盤の強化を目指して","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬80年史（大正製薬、1993年）第5章 大衆薬の覇者に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1963年10月号「新規上場会社紹介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 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2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界　大正製薬　巨鷲のかくも長き沈黙」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/10/6「製薬再編の第一幕　大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/12/15「主導権争いで溝深め　大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」（柳田邦夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第12期・2023年6月提出）【沿革】【役員の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"田辺製薬との経営統合と、二か月半での白紙撤回","text":"2001年9月、大正製薬と田辺製薬は翌年4月に共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を設立して経営統合すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55で、統合後の連結売上高は4,600億円となり、国内の医薬品メーカーとして武田薬品工業、三共に次ぎ、3位の山之内製薬と並ぶ規模になる計算だった。両社が組む理由ははっきりしており、田辺製薬は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいとみられて、外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた。一方の大正製薬は売上高2,700億円のうち7割をドリンク剤と大衆薬が占め、医療用医薬品は700億円強の中堅規模にとどまり、その拡大が課題だった。ただし株式市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった。\n\n同年12月3日、合意から二か月半で両社は統合の白紙撤回を発表した。会見に立った大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は、持株会社の位置づけと機能について考え方の違いがあり、人事や年金を含む企業風土の違いも早期には詰められなかったと説明したが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった。実務を進める部会で田辺製薬は自社の制度にこだわり、大正製薬側が戸惑う場面もあったと伝えられた。株式移転比率が事実上の買収を意味する一方、医療用では主導権を握るという田辺製薬側の意識があった。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、研究開発費のかさむ医療用へ回る設計であり、その配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界　大正製薬　巨鷲のかくも長き沈黙」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/10/6「製薬再編の第一幕　大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/12/15「主導権争いで溝深め　大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」（柳田邦夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第12期・2023年6月提出）【沿革】【役員の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"主力品の停滞と、持株会社体制への移行","text":"統合が流れた後、大正製薬は単独で医療用の拡大を図り、2002年9月に富山化学工業の新株を引き受けて持分法適用関連会社とし、翌10月には合弁で大正富山医薬品を設立した。2006年4月には養命酒製造を持分法適用関連会社とし、2008年3月にはビオフェルミン製薬を子会社化した。それでも売上の構成は変わらず、リポビタンシリーズはセルフメディケーション事業の半分以上、総売上高でも3割を占め、粗利益への貢献度は4割超と推定されていた。そのリポビタンシリーズが2006年3月期に4%減ると、会社は同年7月末の第1四半期決算発表と同時に2007年3月期の業績予想を下方修正した。続く4月から9月は天候不順もあって8%減とさらに落ち込んだ。\n\n主力の停滞に対して打った手も実らず、1999年に発売した発毛剤リアップは初年度こそ300億円を売り上げたが、女性用のリアップレディを含めても120億円程度に落ちた。2003年から売り出した生活習慣病対策の食品シリーズであるリビタも、狙う機能性食品市場が1.5兆円と大衆薬の1.2兆円を上回るにもかかわらず、年商は30億円程度にとどまった。2000年前後に取り組んだ海外バイオベンチャーとの共同開発は、ピーク時で案件数が10を超えたものの一つも実を結ばず、2004年3月期に8.7億円の特別投資損失を計上してほぼ清算した。2011年10月3日、大正製薬は単独株式移転により大正製薬ホールディングスを設立し、持株会社体制へ移行した。大正製薬の株式は同年9月に上場廃止となった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界　大正製薬　巨鷲のかくも長き沈黙」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/10/6「製薬再編の第一幕　大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001/12/15「主導権争いで溝深め　大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」（柳田邦夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第12期・2023年6月提出）【沿革】【役員の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2012,"end_year":2024,"main_title":"創業家出身の社長が人員を削って構造を変えようとし、最後は上場廃止に至るまで","subsections":[{"title":"創業以来初の早期退職募集と、海外大衆薬会社の買収","text":"2012年、上原明氏の長男である上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬株式会社の社長に就任した。持株会社の大正製薬ホールディングス社長は引き続き上原明氏が務めた。慶応義塾大学を出て米国のケロッグ経営大学院で学んだ人物で、次のグループ総帥となることがほぼ確実視されていた。就任後は研究開発から営業担当への異動といった大胆な配置転換を役員・幹部級で実施した。2018年5月、大正製薬ホールディングスは早期退職優遇制度の実施を発表した。10年以上勤務し40歳以上の従業員約3,000名が対象で、8月末に公表された応募者は943名、対象のおよそ3割にあたる。退職の呼びかけは1912年の創業以来はじめてのことで、割り増し退職金と再就職支援費用として特別損失122億円を計上したが、1人当たりでは約1,290万円にとどまる。\n\nこの人員削減は業績の急変を受けたものではなく、2018年3月期の営業利益は前期比16%増の369億円だった。ただし長い目で見れば、利益のピークは18年も前にあり、その間も従業員は増え続けて1人当たり利益は半分以下になった。弱点は医療用医薬品にあり、2000年代から進めたM&Aや提携は実を結ばず、2018年7月には保有していた富山化学工業株34%の全部を富士フイルムホールディングスへ売却した。翌2019年7月、大正製薬はフランスの大衆薬会社UPSAの株式を取得して子会社とした。2021年7月には株式交換でビオフェルミン製薬を完全子会社とした。2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しに際して、大正製薬ホールディングスはプライム市場の条件を満たしながらスタンダード市場を選んだ。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2018/9/15「早期退職に3割応募　大正製薬で人員大削減の波紋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO　買収価格が不興を買う必然」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2024/3/30「大正製薬にローランドDG　MBOに横やりが相次ぐ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 有価証券報告書（第12期・2023年6月提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"PBR1倍割れのまま選んだ非公開化と、少数株主の異議","text":"2023年11月24日、大正製薬ホールディングスはMBOを実施すると発表した。創業家出身の上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社が、11月27日から翌年1月15日までTOBを行う。買付価格は発表前日の終値を約5割上回る1株8,620円、買収総額は約7,100億円に達する見込みだった。株式の約4割を保有する創業家一族はTOBへの応募契約を結んだ。同年11月上旬に発表されたベネッセの総額最大2,079億円を上回り、国内のMBOでは過去最大規模とみられた。背景には業績の変化があり、医薬事業はジェネリック薬の参入と薬価引き下げで直近2期が赤字となり、市販薬事業も2018年度以前は安定して300億円以上の利益を上げていたのに、2019年度からの3年間はその4〜5割減に落ち込んでいた。\n\n2023年9月末時点のPBRは0.60倍で、5割超のプレミアムを乗せた買付価格でもPBRは0.85倍にとどまり、買付価格には異論が出た。12月1日、マネックスグループのカタリスト投資顧問はこのMBOを少数株主を軽視した判断であると表明した。マネックスグループの松本大会長は「少数株主に純資産価格以下でのエグジットを半ば強制する」（週刊東洋経済 2023/12/16）ことは合理的でないと述べた。会社側は中長期の成長にはネット販売への対応や海外事業の拡大といった事業構造の転換が必要で、その投資を迅速に行うために非公開化を決断したと説明した。TOB後に創業家側は発行済み株式の約73%を握り、2024年3月18日の臨時株主総会で株式併合などの議案はすべて可決され、4月9日に上場廃止となった。\n\n上場廃止で決着がついたわけではなく、複数のファンド株主が法的手段を検討し、米投資ファンドのキュリRMBはすでに準備を進めていた。念頭にあったのは2020年の伊藤忠商事によるファミリーマートへのTOBで、価格が安すぎるとして株主が裁判所へ価格決定を申し立てた事例である。東京地方裁判所は株主側の主張を認め、TOB価格から300円増やした2,600円が適正だと判断し、伊藤忠側の抗告により東京高等裁判所で議論が続いている。大正製薬ホールディングス株を保有するオアシス・マネジメントのセス・フィッシャー最高投資責任者は「プロセスに大きな問題がある」（週刊東洋経済 2024/3/30）として、価格を議論した特別委員会の独立性を疑問視した。会社側は多くの株主が応募し臨時株主総会でも多数の賛同を得たことからMBOは適正であるとコメントした。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2018/9/15「早期退職に3割応募　大正製薬で人員大削減の波紋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO　買収価格が不興を買う必然」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2024/3/30「大正製薬にローランドDG　MBOに横やりが相次ぐ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"大正製薬 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