1897年5月、大阪市道修町の有力薬業家21名が資本金10万円を出し合って大阪製薬を設立した。当時のわが国の製薬事業は幼稚なもので、国内で消費される医薬品の大部分は輸入品に依存し、たまたま国内で製造されるものも技術の低さと価格競争から粗悪品が横行して、国民衛生上寒心にたえないと言われていた。製薬事業の独立と医薬品の品質改善を掲げての創業である。江戸期から薬種問屋が集まっていた道修町では、単独では引き受けきれない規模の製造投資を寄り合いで担う必要があった。特定の創業家を持たず、21人の共同出資で出発したことが、この会社の性格をその後106年にわたって規定する。 [1][2][3][4]
翌1898年、大阪市外の鷺洲村大字海老江(のちの大阪工場所在地)に製薬工場を新設して製造を開始した。同じ年、明治16年に国庫の補助でわが国製薬会社の嚆矢として営業を開始していた東京の大日本製薬合資会社を買収し、社名を大日本製薬株式会社へ改めている。創業からわずか1年で、自社より14年古い国策系の製薬会社を買収し、その名を引き受けた。社名は買収した側ではなく買収された側のものが残り、大阪製薬という当初の商号は1年半で消えた。 [5][6][7]
創立当時の主力製品はチンキ剤・精剤・シロップ剤・膏剤・水液剤といったガレヌス製剤だったが、1903年に酒精の製造販売を加え、わが国初の無水アルコールの製造に成功した。その品質は高い評価を受け、日露戦争後の反動的な不況期をゆうゆうと乗り切れたのも、このアルコールの生産販売が順調に伸びたためだったとされる。品質・生産量ともに業界に君臨し続けたという評価が残っている。医薬品ではなく工業用のアルコールが、創業期の会社を不況から支えた。 [8][9]
1908年7月、明治21年創立の大阪薬品試験を吸収合併した。以後、各種薬品および衛生材料の試験依頼に応じて試験と小分封緘の業務を開始し、1945年1月まで民間における唯一の権威ある検査機関として社会の信用を高めた。製造業者が同時に第三者検査を引き受けるという建て付けは現在の目には奇異に映るが、公的な試験機関が整わない時代に品質を保証する仕組みがほかになく、創業の趣意である品質改善をそのまま事業にしていた。1915年頃からはミドリアチン、アロカインなどの新薬とタンニン酸などの工業薬品の販売、ジアスターゼや酒精焼酎・酒精含有飲料の製造にも手を広げ、1917年には阿片法の一部改正で製薬用阿片売下げの指定会社となって麻薬の製造を開始し、業績を拡大させた。 [10][11][12][13]
1927年、長井長義博士が発見した塩酸エフェドリンを喘息治療剤として発売し、大きな反響を呼んだ。当時の評価では、日本の薬業水準の高さを全世界に認めさせる成果とされている。以後もミレバール、イスウルクスなど、1960年代末の時点でなお治療界に貢献しているとされた新薬を世に出した。国内では東京・吹田の工場を増強し、流通面の合理化も進めた。輸入品の模倣から始まった製薬会社が、国内で発見された化合物を自社の製剤として世界に問う段階へ移った時期にあたる。 [14][15][16]
海外では大陸方面への進出方針を固め、奉天に支店、新京に工場を設置して力を注いだ。しかし直接・間接に多くの被害を受けて終戦を迎え、大陸に築いた拠点は失われた。1897年の創業から半世紀で積み上げた製造と販売の網のうち、外地にあたる部分がまとめて消えたことになる。 [17][18]
1947年10月に五協産業(のちのDSP五協フード&ケミカル)を設立し、1949年5月には大阪・東京の両証券取引所へ株式を上場した。そして1950年、経営陣一新による自主独立経営の確立のため、人員整理と一部工場の閉鎖を含む徹底的な企業合理化を断行している。上場の翌年に人員を整理し工場を閉鎖したことになる。この時期に固めた自主独立という方針が、以後半世紀にわたって単独経営を続ける前提になる。 [19][20][21]
1952年以降、GDサール社などの外国製薬企業と提携し、潰瘍治療薬バンサインや血圧降下剤エガリンを発売して技術・営業の両面で成果を得た。並行して、戦争で世界的水準から立ち遅れた製薬技術を引き上げるため、施設と研究スタッフを思い切って拡充している。自前の創薬が育つまでのあいだ、他社の品目を導入して製品の空白を埋めるというやり方は、以後この会社の常道になる。2005年に住友化学グループへ入る判断も、外と組んで足りない力を補うという意味では同じ系譜の上にある。 [22][23]
1955年以降、医薬品業界は大量生産販売の時代に入り、同社もこの10年で多くの新薬を送り出した。伝統的に強かった医家向け製品に加え、大衆向けの分野でもアスパラギン酸製剤ヘルタスを発売している。海外技術の吸収にも積極的で、アボット社との共同出資でダイナボット・ラジオアイソトープ研究所を新設して放射性医薬品の製造販売を始め、販売面でもセールスプロモーションを目的とする合弁会社として日本アボット、マルピーライカー、マルピーサールを設立した。1962年時点の資本金は24億7,500万円、従業員は2,050名、社長は宮武徳次郎で、本社は大阪市東区道修町に置かれていた。 [24][25][26][27][28]
1961年10月、大阪・東京の両証券取引所で市場第一部に指定された。1968年10月に三重県の鈴鹿工場を設置し、1971年2月には総合研究所を設置して、合成医薬の生産と研究の二拠点体制を構築した。1967年に創立70年を迎えたのを契機に新しい五ヵ年計画を始めており、資本自由化を控えて工場増強による生産合理化、各地区への営業所開設と卸・小売・開業医の組織化、安全性研究の増強と総合研究への体制整備を全社的に進めるという設計が当時語られている。ここで置いた鈴鹿工場と研究所が、以後30年あまりこの会社の背骨になる。 [29][30][31][32]
1993年1月、米国カリフォルニア州にDainippon Pharmaceutical U.S.A. Corporationを設立した。当時の海外売上比率はまだ一桁にとどまり、主戦場は依然として国内向けの合成医薬と診断薬だったが、米国市場における製品ライセンスや臨床開発の窓口を自前で持つこと自体が布石だった。同じころ国内では、新薬研究開発費の負担が中堅各社の収益に重くのしかかり、上位グループとのあいだで開発の体力差が開いた。単独路線の限界が見えはじめた時期にあたる。この現地法人はのちにDainippon Sumitomo Pharma Americaへ引き継がれ、2009年のセプラコール買収の受け皿となった。 [33]
2003年4月、創業の地である大阪工場を閉鎖し、生産拠点を鈴鹿工場へ統合した。製造拠点の集約そのものは中堅メーカーにとって定石の合理化だが、1898年に鷺洲村大字海老江へ建てて以来105年使ってきた工場が消えたことは、独立中堅としての会社の形がそのままでは続かないと内外に示す出来事でもあった。2004年3月期の連結売上高は1,708億円、経常利益は101億円。上位メーカーが年間1,000億円規模の研究開発費を投じる時代に、この規模では新薬パイプラインを単独で回し続けられないという結論が、合併交渉の前提になる。 [34][35][36]
2004年11月25日、住友化学グループの住友製薬と合併の基本合意書を締結し、2005年4月28日に合併契約書を締結、10月1日に合併して大日本住友製薬が発足した。大日本製薬を存続会社とし、住友製薬の株式1株に対して大日本製薬の株式1,290株を割り当てる吸収合併で、新会社の株式の過半は住友化学が握った。社長には大日本製薬生え抜きの宮武健次郎が就任している。法人としては大日本製薬が残り、証券コードも1949年の上場以来のものを引き継いだが、大日本製薬という商号はこの日で消えた。21名の薬業家が10万円を出し合って始めた会社が、106年後に選んだのは、新薬候補を買い足すことではなく親会社を持つことだった。 [37][38][39][40][41]
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|---|---|---|---|---|
| 1897〜1926年道修町21名が出し合った10万円と、無水アルコールで得た足場 | 道修町の薬業家21名が大阪製薬を設立 | ★★★ | ||
| 鷺洲村大字海老江に大阪工場を新設 | ★ | |||
| 大日本製薬を買収し商号変更 | ★★ | |||
| わが国初の無水アルコールの製造に成功 | ★★ | |||
| 大阪薬品試験を吸収合併 | ★ | |||
| 阿片法改正で製薬用阿片売下げの指定会社となり麻薬製造を開始 | ★ | |||
| 1927〜1949年塩酸エフェドリンの成功と、大陸進出から焼け跡までの20年 | 塩酸エフェドリンを喘息治療剤として発売 | ★★ | ||
| 五協産業を設立 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所に株式上場 | ★★ | |||
| 1950〜1992年外資提携で埋めた新薬の空白と、鈴鹿・総合研究所の二拠点 | 人員整理と一部工場閉鎖を含む企業合理化を断行 | ★★ | ||
| GDサール社など外国製薬企業との提携を開始 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所の市場第一部に指定 | ★ | |||
| 鈴鹿工場を新設 | ★ | |||
| 総合研究所を新設 | ★ | |||
| 1993〜2005年単独では回らない——106年の独立経営を畳むまで | Dainippon Pharmaceutical U.S.A.を設立 | ★ | ||
| 宮武健次郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 大阪工場閉鎖・鈴鹿工場へ生産統合 | ★★ | |||
| 住友製薬との合併の基本合意書を締結 | ★★ | |||
| 住友製薬と合併し大日本住友製薬に商号変更 | ★★★ |
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