参天製薬 の歴史

創業

1890年

創業者

田口謙吉

創業地

大阪市東区北浜

直近売上高(2026/3)

2,916億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ大衆薬の売薬商だった参天製薬は1958年に眼科の処方薬へ資源を集めたのか
A 大衆薬はブランドと価格の競争に晒され、規模で劣る売薬商が全国大手と正面から張り合うのは難しい。医師が処方する眼科という狭くとも専門性で参入障壁が高い領域に絞れば、規模の不利を専門性で覆せると見込めた。1958年6月、医療用医薬品の発売を機に商号を参天製薬へ改め、1962年にはロシュ社から散瞳薬ミドリンPの国内販売権を得て眼科医療の現場に食い込んだ。処方薬と大衆薬の両輪で目の分野に資源を集めるこの路線が、国内医療用眼科薬市場でシェア約50%の首位を生んだ
Q なぜ国内眼科薬で首位を固めた参天製薬は2014年に米メルクの眼科製品を取得したのか
A 国内の医療用眼科薬でシェア約50%を固めた参天製薬にとって、次の成長は海外に求めるほかなかった。2010年に策定した長期ビジョン「Vision 2020」は売上高2000億円と世界での存在感を掲げ、当時約1100億円で日本中心だった事業を世界へ広げる構想である。2014年7月、米メルクが持つ眼科用医薬品と関連する権利の一式を譲り受け、同年スイス・英国・タイなど各国に法人を相次いで設立して欧州とアジアの事業を一気に広げた。売上高2000億円の目標は3年前倒しの2017年度に達成し、展開する国・地域は60以上へ増えた
Q なぜ2020年代に参天製薬は自前の米国事業から2度目の撤退をしたのか
A 買収を重ねて自前販売にこだわった米国事業が減損を繰り返し、全社の収益の足を引っ張ったためである。2020年度に開発品STN2000100に関連する403億円、2022年度にはEyevance関連の301億円を含む減損損失を計上し、2022年度は営業損失31億円の赤字決算に沈んだ。業績低迷のなか2022年9月に谷内樹生氏が社長を辞任し、後任の伊藤毅社長は構造改革を優先した。2023年7月に米州の一部製品を米Harrow Healthへ資産譲渡してコマーシャル事業から撤退し、自前の米国進出からの撤退は2度目となった

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1890年〜 大学目薬の田口参天堂から参天堂製薬へ──創業と戦災からの再建

  1. 1935年 淀川工場(大阪工場)を開設
  2. 1944年 本社(東区北浜)を淀川工場敷地内に移転
  3. 1945年 営業内容を明確に表示するため商号に製薬の名称を入れ参天堂製薬に変更

風邪薬ヘブリン丸と大学目薬による創業期の躍進

参天製薬の源流は、1890年に創業者の田口謙吉氏が大阪・北浜で開業した個人商店「田口参天堂」である。当初の主力商品は風邪薬「ヘブリン丸」で、目薬の専業ではなかった。転機は1899年発売の「大学目薬」である。眼病に悩む人が多かった明治期の日本で点眼薬への需要は高く、博士の肖像を掲げた広告も追い風となって、その名は日本全国に広まった。風邪薬から出発した大阪の売薬商は、この一品を足がかりに目薬を主力商品へ育てた。大学目薬の成功は、以後130年を超えて続く「目の専門企業」としての歩みの出発点となった。 [1][2][3]

    • [1]1890年に田口謙吉が大阪・北浜で田口参天堂を開業した
    • [2]当初の主力商品は風邪薬「ヘブリン丸」だった
    • [3]1899年に「大学目薬」を発売し日本全国に広まった

経営の担い手は比較的早い時期から創業家の外へ広がった。1914年に合資会社参天堂として法人化した際、三田忠幸氏が共同経営者として本格的に経営へ加わり、1925年の参天堂株式会社設立時には三田忠幸氏が初代社長に就いた。当時の主要製品はヘブリン丸と大学目薬のほか「参天セキ薬」「健通丸」などがそろい、特定の分野に偏らない家庭向け売薬の製造販売会社としての性格がなお濃い。以後は三田家から良蔵、彰久、周の各氏が社長を継ぎ、1990年に森田隆和氏へ引き継がれるまで三田姓の社長による経営が続いた。 [4][5][6]

    • [4]1914年に合資会社参天堂として法人化し三田忠幸が共同経営者として経営に参加した
    • [5]1925年に参天堂株式会社を設立し三田忠幸が初代社長に就任した
    • [6]三田良蔵(1944年)・三田彰久(1969年)・三田周(1983年)が社長を継ぎ1990年に森田隆和が社長に就任した
    • [1]1890年に田口謙吉が大阪・北浜で田口参天堂を開業した
    • [2]当初の主力商品は風邪薬「ヘブリン丸」だった
    • [3]1899年に「大学目薬」を発売し日本全国に広まった
    • [4]1914年に合資会社参天堂として法人化し三田忠幸が共同経営者として経営に参加した
    • [5]1925年に参天堂株式会社を設立し三田忠幸が初代社長に就任した
    • [6]三田良蔵(1944年)・三田彰久(1969年)・三田周(1983年)が社長を継ぎ1990年に森田隆和が社長に就任した

淀川工場の開設と戦災、参天堂製薬への改称

生産面の画期は1935年、大阪市東淀川区下新庄町に開設した淀川工場である。目薬のほかメンソールクリームなど各種医薬品を製造し、売薬商から医薬品メーカーへ移る足場となった。しかし戦局の悪化が経営を直撃する。1944年には三田良蔵氏が社長に就任する一方、第二次世界大戦の空襲で複数の施設が焼失し、東区北浜にあった本社を淀川工場の敷地内へ移した。大阪の中心地に構えた本店を工場内へ引き揚げる決断は、戦時下の窮状を物語っている。創業から半世紀をかけて築いた販売と生産の基盤は、終戦の時点でいったん振り出しに近い状態まで戻っていた。 [7][8]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1935年に大阪市東淀川区下新庄町に淀川工場を開設した
    • [8]1944年に三田良蔵が社長に就任し空襲による施設焼失で本社を淀川工場に移転した

1945年3月、営業内容を明確に示すため商号に「製薬」の名称を加え、参天堂製薬株式会社へ改称した。戦後の再建を支えたのは、1952年発売の「大学ペニシリン目薬」である。抗生物質を配合した新しい目薬が事業の立て直しを引っ張り、看板商品の大学目薬とともに戦後の家庭薬市場で地歩を固め直した。参天堂の名で親しまれた大衆薬の看板は残しつつ、社名では「製薬会社」であることを前面に出す構えへ改まった。ただ、この時点の参天堂製薬はなお大衆向けの売薬が中心の会社であり、医師が処方する医療用医薬品への参入は1950年代末の決断を待つ。 [9][10]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1945年3月に商号へ製薬の名称を加え参天堂製薬株式会社に変更した
    • [10]1952年に「大学ペニシリン目薬」を発売し事業を再建した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1935年に大阪市東淀川区下新庄町に淀川工場を開設した
    • [9]1945年3月に商号へ製薬の名称を加え参天堂製薬株式会社に変更した
    • [8]1944年に三田良蔵が社長に就任し空襲による施設焼失で本社を淀川工場に移転した
    • [10]1952年に「大学ペニシリン目薬」を発売し事業を再建した

1958年〜 参天製薬への改称と医療用医薬品参入──上場と眼科特化路線の確立

  1. 1958年 新たに医療用医薬品発売を契機として商号を参天製薬と変更
  2. 1963年 大阪証券取引所市場第二部に上場
  3. 1964年 東京証券取引所市場第二部に上場
  4. 1970年 本社社屋を建設
  5. 1977年 東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部に上場
  6. 1985年 能登工場を新設

1958年の改称と医療用医薬品への参入

1958年6月、新たな医療用医薬品の発売を契機に、商号を参天製薬株式会社へ変更した。大衆薬の売薬商として出発した会社が、医師の処方する薬を軸とするメーカーへ転じた画期である。1962年にはスイスのロシュ社から散瞳薬「ミドリンP」の国内販売権を取得し、眼科医療の現場に食い込む足がかりを得た。同じ年には国内初のプラスチック容器入り目薬「スーパーサンテ」を発売し、ガラス瓶が主流だった目薬の容器を一新している。処方薬と大衆薬の両輪で目の分野に資源を集める、その後の参天製薬を貫く経営路線がここで定まった。 [11][12][13]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年6月に医療用医薬品発売を契機として商号を参天製薬株式会社に変更した
    • [12]1962年にロシュ社から散瞳薬ミドリンPの国内販売権を取得した
    • [13]1962年に国内初のプラスチック容器目薬「スーパーサンテ」を発売した

資本市場との接点も広がった。1963年11月に大阪証券取引所市場第二部へ上場し、翌1964年4月には東京証券取引所市場第二部にも上場した。1969年には三田彰久氏が社長に就任する。1970年の「エコリシン点眼液」、1975年の「フルメトロン」と医療用眼科薬の品目を増やし、1977年10月には東京・大阪両取引所の市場第一部へ指定された。同じ1977年には点眼薬の「ボトルパック」製造システムを導入し、生産技術の面でも医療用医薬品への傾斜を強めた。二部上場から一部指定までの14年間は、大衆薬の老舗が処方薬メーカーとしての信用を積み上げる期間でもあった。 [14][15][16][17]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1963年11月に大阪証券取引所市場第二部に上場した
    • [15]1964年4月に東京証券取引所市場第二部に上場した
    • [16]1977年10月に東京・大阪証券取引所の市場第一部に上場した
    • [17]1969年に三田彰久が社長に就任し1970年エコリシン点眼液・1975年フルメトロン・1977年ボトルパック導入があった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年6月に医療用医薬品発売を契機として商号を参天製薬株式会社に変更した
    • [14]1963年11月に大阪証券取引所市場第二部に上場した
    • [15]1964年4月に東京証券取引所市場第二部に上場した
    • [16]1977年10月に東京・大阪証券取引所の市場第一部に上場した
    • [12]1962年にロシュ社から散瞳薬ミドリンPの国内販売権を取得した
    • [13]1962年に国内初のプラスチック容器目薬「スーパーサンテ」を発売した
    • [17]1969年に三田彰久が社長に就任し1970年エコリシン点眼液・1975年フルメトロン・1977年ボトルパック導入があった

眼科製品ラインの拡充とタリビッドの大ヒット

1980年代は眼科専門メーカーとしての骨格が整った時期である。1978年に医療用具の販売を始め、1981年に緑内障治療薬「チモプトール」を発売、1982年には中央研究所が竣工した。1983年に三田周氏が社長へ就くと、1985年1月には石川県志雄町に能登工場を開設し、同年に一般用目薬「サンテ40NE」を投入、1986年には眼内レンズの販売にも乗り出した。点眼薬にとどまらず検査機器や手術関連まで、のちに眼科医から「眼科に関する総合商社にでもなろうとしているような感じさえする」(日経ビジネス 1992/10/12)と語られる製品構成の原型が、この10年でできあがった。 [18][19][20][21]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1985年1月に石川県羽咋郡志雄町に能登工場を開設した
    • [19]1983年に三田周が社長に就任した
    • [20]1981年チモプトール発売・1982年中央研究所竣工・1986年眼内レンズ販売開始
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [21]井上眼科病院の井上治郎院長は参天製薬について「眼科に関する総合商社にでもなろうとしているような感じさえする」と語った

決定打は1987年発売の「タリビッド点眼液」である。第一製薬から導入した合成抗菌点眼薬は1991年度に年商120億円へ育ち、参天製薬の売上高は1987年度から1991年度までに約2倍、経常利益は約2.8倍に伸びた。その一方で、全身薬では手痛い失敗も経験している。1986年に自社開発の血圧降下剤の承認申請を臨床データの不足から取り下げ、損失は総額40億〜50億円とされた。眼科で稼いで全身薬でつまずいた1980年代の対照的な経験は、目に集中するその後の経営路線をいっそう鮮明にした。 [22][23][24]

    • [22]1987年に合成抗菌点眼薬タリビッド点眼液を発売した
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [23]タリビットは第一製薬からの導入品で1991年度に年商120億円となり売上高は1987年度から1991年度に約2倍・経常利益は約2.8倍になった
    • [24]1986年に自社開発の血圧降下剤の承認申請を臨床データ不足から取り下げ総額40億〜50億円の損失とされた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1985年1月に石川県羽咋郡志雄町に能登工場を開設した
    • [19]1983年に三田周が社長に就任した
    • [20]1981年チモプトール発売・1982年中央研究所竣工・1986年眼内レンズ販売開始
    • [22]1987年に合成抗菌点眼薬タリビッド点眼液を発売した
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [21]井上眼科病院の井上治郎院長は参天製薬について「眼科に関する総合商社にでもなろうとしているような感じさえする」と語った
    • [23]タリビットは第一製薬からの導入品で1991年度に年商120億円となり売上高は1987年度から1991年度に約2倍・経常利益は約2.8倍になった
    • [24]1986年に自社開発の血圧降下剤の承認申請を臨床データ不足から取り下げ総額40億〜50億円の損失とされた

1990年〜 創業100周年の長期ビジョンと海外進出──医家向け眼科薬の国内首位固め

参天製薬の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1993年 カリフォルニア州ナパにSanten Inc.を設立
  2. 1996年 奈良R&Dセンター眼科研究所を新設
  3. 1996年 滋賀工場を新設
  4. 1997年 フィンランド・タンペレに医薬品製造会社Santen Oyを設立
  5. 1997年 フィンランドの眼科薬メーカー、スターの買収による欧州拠点の確保 国内シェア4割の目薬メーカーが、なぜ北欧に製造会社を持つことを選んだのか
  6. 2000年 脅迫を受けた一般用目薬24品目の全品回収 混入の事実が確認できない段階で、店頭の全製品を引き上げるべきか
  7. 2001年 眼科医療機器会社Advanced Vision Science, Inc.を買収

森田体制の長期ビジョンと眼科医情報網

1990年、創業100周年の年に森田隆和氏が社長に就任した。同年7月には1991年度を初年度とする2000年までの長期ビジョンを策定し、売上高を1990年度の366億1800万円から1995年度に630億円、2000年度には1100億円へと3倍に増やす目標を掲げた。当時の参天製薬は医家向け眼科薬市場で43%(1991年度)のシェアを握り、2位の千寿製薬(17%)を大きく引き離す首位である。タリビッドの大ヒットで積み上がった資金を、営業力と研究開発体制の強化に振り向ける拡大策だった。 [25][26][27]

    • [25]1990年に森田隆和が社長に就任し同年が創業100周年だった
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [26]1990年7月に2000年までの長期ビジョンを策定し売上高を1990年度366億1800万円から2000年度1100億円へ3倍に増やす計画を立てた
    • [27]医家向け眼科薬市場のシェアは1991年度に参天製薬43%・2位千寿製薬17%だった

拡大策の中身は営業と研究の両輪である。営業面では眼科医だけを対象に360人のMRを擁し、全国に6200施設ある眼科を持つ病院・医院を網羅した。医師の関心事や診療の実態をデータベース化する取り組みも1990年に首都圏で始め、翌年から全国へ広げている。研究面では奈良県生駒市に基礎研究から取り組む新研究所の建設を決め、1996年4月に奈良R&Dセンター眼科研究所として開設、同年7月には滋賀県多賀町の滋賀工場も設けた。1991年には一般用目薬「サンテFX」も発売している。眼科医との細かな接点を営業と開発の両方に生かす手法が、この時期の競争力の源泉だった。 [28][29][30][31]

  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [28]眼科医対象のMRを360人そろえ全国6200施設の眼科を持つ病院・医院をカバーし1990年に首都圏で医療情報のデータベース化を始めた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1996年4月に奈良県生駒市に奈良R&Dセンター眼科研究所を開設した
    • [30]1996年7月に滋賀県犬上郡多賀町に滋賀工場を開設した
    • [31]1991年に一般用目薬サンテFXを発売した
    • [25]1990年に森田隆和が社長に就任し同年が創業100周年だった
    • [31]1991年に一般用目薬サンテFXを発売した
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「参天製薬。眼科医情報の収集に力営業・開発に生かす」
    • [26]1990年7月に2000年までの長期ビジョンを策定し売上高を1990年度366億1800万円から2000年度1100億円へ3倍に増やす計画を立てた
    • [27]医家向け眼科薬市場のシェアは1991年度に参天製薬43%・2位千寿製薬17%だった
    • [28]眼科医対象のMRを360人そろえ全国6200施設の眼科を持つ病院・医院をカバーし1990年に首都圏で医療情報のデータベース化を始めた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1996年4月に奈良県生駒市に奈良R&Dセンター眼科研究所を開設した
    • [30]1996年7月に滋賀県犬上郡多賀町に滋賀工場を開設した

欧米への進出とフィンランド・スター買収

海外進出は1990年代に本格化した。1992年に台湾で大明参天を設立し、1993年1月には米国カリフォルニア州ナパにSanten Inc.を、1994年にはドイツ法人を設けた。1995年発売のドライアイ治療薬「ヒアレイン」は、のちに国内の主力品へ育つ。画期は1997年である。2月にフィンランド・タンペレに医薬品製造会社Santen Oyを設立し、3月には同国の眼科薬メーカー、スターを買収して、欧州に生産と販売の拠点を確保した。1998年には中期構想「ひとみ21」を策定し、次の10年へ向けた布陣を整えた。 [32][33][34][35]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1993年1月に米国カリフォルニア州ナパにSanten Inc.を設立した
    • [33]1997年2月にフィンランド・タンペレに医薬品製造会社Santen Oyを設立した
    • [34]1997年3月にフィンランドの眼科薬メーカー、スターを買収した
    • [35]1992年台湾に大明参天設立・1995年ヒアレイン発売・1998年中期構想ひとみ21策定

2000年には基本理念を体系化し、抗菌点眼薬「クラビット点眼液」を発売した。同じ年、参天製薬は点眼薬への異物混入を予告する脅迫を受け、対象製品の回収に踏み切っている。直後に起きた雪印乳業の集団食中毒事件と対比され、外部から持ち込まれた危機への明確な対応として引き合いに出される一方、全品回収が前例になることを疑問視する論者もあった。いずれにせよ消費者の安全を優先した初動は、食品・医薬品の危機管理をめぐる当時の議論で繰り返し参照され、参天製薬の名は医薬品業界の外の危機管理論議にも登場する存在になった。 [36][37][38]

    • [36]2000年に基本理念を体系化しクラビット点眼液を発売した
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [37]2000年の雪印事件の直前に参天製薬が脅迫を受け全品回収の対策をとり危機管理の事例として論じられた
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「「使命感」の欠如が雪印の致命的欠陥」
    • [38]雪印乳業と対比され外部から持ち込まれた危機に対応する姿勢の明確な例として参照された
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1993年1月に米国カリフォルニア州ナパにSanten Inc.を設立した
    • [33]1997年2月にフィンランド・タンペレに医薬品製造会社Santen Oyを設立した
    • [34]1997年3月にフィンランドの眼科薬メーカー、スターを買収した
    • [35]1992年台湾に大明参天設立・1995年ヒアレイン発売・1998年中期構想ひとみ21策定
    • [36]2000年に基本理念を体系化しクラビット点眼液を発売した
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [37]2000年の雪印事件の直前に参天製薬が脅迫を受け全品回収の対策をとり危機管理の事例として論じられた
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「「使命感」の欠如が雪印の致命的欠陥」
    • [38]雪印乳業と対比され外部から持ち込まれた危機に対応する姿勢の明確な例として参照された

米国での試行錯誤と中国市場への布石

米国では試行錯誤が続いた。2001年11月に眼科医療機器のAdvanced Vision Science, Inc.を買収し、2002年1月には持株会社Santen Holdings U.S. Inc.を設立、2004年には米国でジョンソン・エンド・ジョンソンと組んで医療用眼科薬の提携販売を始めた。ただ米国市場の壁は厚く、自販体制の確立には至らない。国内では2006年に森田隆和氏が会長へ退き、黒川明氏が社長に就任した。2008年には緑内障治療剤「タプロス」を発売し、日本・米欧・アジアでのグローバル開発を初めて実現した製品となった。 [39][40][41][42]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [39]2001年11月に米国の眼科医療機器会社Advanced Vision Science, Inc.を買収した
    • [40]2002年1月に米国に持株会社Santen Holdings U.S. Inc.を設立した
    • [41]2006年に森田隆和が会長に黒川明が社長に就任した
    • [42]2008年に発売したタプロスは日米欧アジアでのグローバル開発初の製品だった

成長の次の舞台は中国だった。2005年9月に蘇州で参天製薬(中国)有限公司を設立し、2007年7月には蘇州市内の開発区に生産拠点を開設した。当時すでに中国の高級医療用点眼薬でトップクラスのシェアを持ち、現地の幹部候補となる中国人社員を日本で正社員として育ててから送り出す人材策も講じている。2009年には中国での自社販売を始めた。この間、連結売上高は2006年3月期の984億円から2010年3月期の1106億円へ伸び、経常利益率2割前後の高い収益力を保った。国内首位の眼科薬事業が生む資金が、次のグローバル化への投資余力となった。 [43][44][45]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [43]2005年9月に中国・蘇州に参天製薬(中国)有限公司を設立した
  • 週刊東洋経済 2007年3月17日号「急募! 中国人幹部候補生」
    • [44]参天製薬は2007年7月に蘇州市内の開発区に生産拠点を開設し中国の高級医療用点眼薬でトップクラスのシェアを持っていた
    • [45]2009年に中国での自社販売を開始した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [39]2001年11月に米国の眼科医療機器会社Advanced Vision Science, Inc.を買収した
    • [40]2002年1月に米国に持株会社Santen Holdings U.S. Inc.を設立した
    • [43]2005年9月に中国・蘇州に参天製薬(中国)有限公司を設立した
    • [41]2006年に森田隆和が会長に黒川明が社長に就任した
    • [42]2008年に発売したタプロスは日米欧アジアでのグローバル開発初の製品だった
    • [45]2009年に中国での自社販売を開始した
  • 週刊東洋経済 2007年3月17日号「急募! 中国人幹部候補生」
    • [44]参天製薬は2007年7月に蘇州市内の開発区に生産拠点を開設し中国の高級医療用点眼薬でトップクラスのシェアを持っていた

2010年〜 Vision 2020のグローバル化から構造改革へ──眼科専業の世界企業への道

参天製薬の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2011年 眼科医薬品会社Novagali Pharma S.A.を買収
  2. 2013年 本社機能を大阪市東淀川区から大阪市北区へ移転
  3. 2014年 米メルクの眼科用医薬品事業の譲受と、抗リウマチ薬事業の承継 眼科だけで世界と戦うために、何を買い、何を手放すか
  4. 2015年 抗リウマチ薬事業をあゆみ製薬へ承継
  5. 2016年 医療用デバイス開発会社InnFocus, Inc.を買収
  6. 2020年 Eyevance Pharmaceuticals Holdings Inc.と事業会社を買収
  7. 2023年 米州における医療用医薬品事業に係る一部製品をHarrow Health, Inc.へ資産譲渡

Vision 2020とメルク製品取得による世界展開

2010年、参天製薬は2011年度から2020年度を対象とする長期ビジョン「Vision 2020」を策定した。当時の売上高は約1100億円で事業の中心は日本にあり、海外基盤は限られていた。ビジョンは「世界で存在感のあるスペシャリティ・カンパニー」の実現を掲げ、売上高2000億円を目標に据える。2010年にはドライアイ治療剤「ジクアス点眼液」を発売し、2011年10月には仏眼科医薬品会社Novagali Pharmaを買収、2012年には加齢黄斑変性治療剤「アイリーア」の国内販売を始めた。2013年には本社機能を大阪市東淀川区から北区へ移している。 [46][47][48][49]

転機は2014年7月、米メルク(Merck & Co., Inc.)が持つ眼科用医薬品と関連する権利の一式を譲り受けたことである。緑内障治療薬の品揃えと売上を厚くしただけでなく、欧州とアジアでの事業を一気に広げ、同じ2014年にはスイス、イタリア、英国、スペイン、タイ、フィリピン、マレーシアなどへ相次いで法人を設立した。2015年8月には抗リウマチ薬事業をあゆみ製薬へ承継して完全な眼科専業企業となり、2016年8月には緑内障治療デバイスを開発する米InnFocusを買収した。谷内樹生氏がのちに「長らくの悲願」と語る米国参入の鍵を握る買収である。 [50][51][52][53]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [50]2014年7月にMerck & Co., Inc.の眼科用医薬品と関連する権利等一式を譲り受けた
    • [51]2015年8月に抗リウマチ薬事業をあゆみ製薬へ承継した
    • [52]2016年8月に米国の医療用デバイス開発会社InnFocus, Inc.を買収した
    • [53]メルク製品取得は欧州とアジアの展開を加速しリウマチ事業売却で完全な眼科専業企業となりInnFocusは悲願の米国参入の鍵とされた

Vision 2020が掲げた売上高2000億円の目標は、3年前倒しの2017年度に達成した。展開する国・地域は35から60以上へ増え、海外売上高比率は3割を超え、国内の医療用眼科薬市場ではシェア約50%と首位を固めた。企業統治の評価も高まる。2014年時点で取締役5人のうち3人を社外取締役が占め、外国人持株比率は45%に達し、外資系傘下を除けば医薬品業界でトップクラスの水準とされた。2010年に日本中心の点眼薬メーカーだった参天製薬は、この10年で世界の眼科市場に基盤を持つ専業企業へと姿を変えた。 [54][55][56]

    • [54]売上2000億円の目標を3年前倒しの2017年度に突破し展開国・地域は35から60以上へ増え海外売上比率は30%を超えた
    • [56]国内の医療用眼科薬市場でシェア約50%だった
  • 週刊東洋経済 2014年6月20日号「海外投資家を取り込め! 日本企業のIR戦略」
    • [55]2014年に取締役5人のうち3人が社外取締役で外国人持株比率は45%だった
    • [46]Vision 2020は2011年度から2020年度が対象で発表当時の売上は約1100億円・目標は2000億円だった
    • [53]メルク製品取得は欧州とアジアの展開を加速しリウマチ事業売却で完全な眼科専業企業となりInnFocusは悲願の米国参入の鍵とされた
    • [54]売上2000億円の目標を3年前倒しの2017年度に突破し展開国・地域は35から60以上へ増え海外売上比率は30%を超えた
    • [56]国内の医療用眼科薬市場でシェア約50%だった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [47]2011年10月にフランスの眼科医薬品会社Novagali Pharma S.A.を買収した
    • [48]2013年6月に本社機能を大阪市東淀川区から大阪市北区へ移転した
    • [50]2014年7月にMerck & Co., Inc.の眼科用医薬品と関連する権利等一式を譲り受けた
    • [51]2015年8月に抗リウマチ薬事業をあゆみ製薬へ承継した
    • [52]2016年8月に米国の医療用デバイス開発会社InnFocus, Inc.を買収した
    • [49]2010年ジクアス点眼液発売・2012年アイリーア硝子体内注射液発売
  • 週刊東洋経済 2014年6月20日号「海外投資家を取り込め! 日本企業のIR戦略」
    • [55]2014年に取締役5人のうち3人が社外取締役で外国人持株比率は45%だった

Santen 2030の始動と米国事業の減損

2018年、黒川明氏が会長に、谷内樹生氏が社長に就いた。中国事業の立ち上げを担った谷内樹生氏(社長)のもと、創業130周年にあたる2020年の7月、新しい長期ビジョン「Santen 2030」を発表する。基本理念「天機に参与する」に基づき、目指す世界観を「Happiness with Vision」と定め、視覚障がいなど目をめぐる社会課題の解決と事業の成長を重ねて描いた。米国では2020年度の緑内障手術デバイスPRESERFLO MicroShuntの発売に向けて準備を進め、2020年8月に米Verilyと合弁会社を設立、9月には点眼薬のEyevance Pharmaceuticalsを買収して布石を重ねた。 [57][58][59]

だが米国への投資は裏目に出る。2020年度は開発品STN2000100に関連する403億円の減損損失を計上し、営業利益は122億円へ落ち込んだ。業績と株価の低迷が続くなか、2022年9月に谷内樹生氏(社長)が一身上の都合により辞任し、伊藤毅氏が社長兼CEOに就任する。指名委員会を務める社外取締役は、体制を立て直して業績を改善することを重視してきたと説明した。2022年度はEyevance関連の301億円を含む減損損失を計上し、営業損失31億円、親会社株主に帰属する当期損失149億円の赤字決算に沈んだ。 [60][61][62]

米州撤退の構造改革と2025年からの再成長

伊藤体制は2023年4月に2023年度から2025年度の中期経営計画を発表し、構造改革による収益改善、地域事業の成長、パイプラインの強化を三本柱に据えた。焦点の米州では最大限の合理化を決め、2023年7月に米州の医療用医薬品事業に係る一部製品を米Harrow Healthへ資産譲渡して、コマーシャル事業から撤退した。参天製薬が自前の米国進出から撤退するのは2度目とされる。米州の合理化を含む構造改革は前倒しで完了し、買収と自前販売にこだわった米国戦略の重荷が外れて、全社の収益性は改善へ向かった。 [63][64][65]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [63]2023年7月に米州における医療用医薬品事業に係る一部製品をHarrow Health, Inc.へ資産譲渡した
  • 週刊東洋経済 2024年4月13日号「トップに直撃 小野薬品工業 社長COO 滝野十一」
    • [64]参天製薬は2度自前での米国進出を試みたが撤退した
    • [65]2023年度開始の中期経営計画は構造改革による収益改善・地域事業の成長・パイプライン強化を柱とし米州コマーシャル事業からの撤退と組織最適化を前倒しで完了した

2024年1月の能登半島地震では能登工場の建物や設備が被災し、操業を一時停止した。工場の操業損失と減損を計上しながらも、2023年度の売上収益は3020億円と初めて3000億円台に乗り、中期経営計画の数値目標は2023年度、2024年度と2期連続で前倒し達成となった。2025年3月期は売上収益3000億円、純利益363億円で回復を確かなものにしている。構造改革で立て直した資金力は株主への還元にも回り、利益成長に応じた累進配当を方針に掲げ、2022年度以降の自己株式取得は累計で発行済株式の約20%の取得・消却に及んだ。 [66][67][68]

2025年5月には2025年度から2029年度の新しい中期経営計画を発表した。眼科医療を熟知した製品創製と製品価値の最大化を結ぶ組織能力「Santen Commercial Excellence」を軸に、日本、欧州、アジア、中国の販売基盤を生かし、近視や眼瞼下垂といった新しい疾患領域の市場創造に取り組む構想である。2025年度(2026年3月期)の売上収益は2916億円、営業利益は478億円、純利益は374億円。風邪薬の売薬商として始まった参天製薬は、世界60カ国以上で事業を営む眼科専業のグローバル企業として、創業135年を超えた今も目の分野だけで成長を続けている。 [69][70]

参天製薬の沿革1935〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
淀川工場(大阪工場)を開設
本社(東区北浜)を淀川工場敷地内に移転
営業内容を明確に表示するため商号に製薬の名称を入れ参天堂製薬に変更
新たに医療用医薬品発売を契機として商号を参天製薬と変更★★
大阪証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第二部に上場
本社社屋を建設
東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部に上場
能登工場を新設
カリフォルニア州ナパにSanten Inc.を設立
奈良R&Dセンター眼科研究所を新設
滋賀工場を新設
フィンランド・タンペレに医薬品製造会社Santen Oyを設立
フィンランドの眼科薬メーカー、スターの買収による欧州拠点の確保国内シェア4割の目薬メーカーが、なぜ北欧に製造会社を持つことを選んだのか 詳細を読む★★★
脅迫を受けた一般用目薬24品目の全品回収混入の事実が確認できない段階で、店頭の全製品を引き上げるべきか 詳細を読む★★★
眼科医療機器会社Advanced Vision Science, Inc.を買収★★
滋賀工場第2棟が操業開始
中国・蘇州に参天製薬有限公司を設立
森田隆和奈良研究開発センターに製剤開発棟・新付属棟を増設
森田隆和眼科医薬品会社Novagali Pharma S.A.を買収★★
森田隆和本社機能を大阪市東淀川区から大阪市北区へ移転
森田隆和米メルクの眼科用医薬品事業の譲受と、抗リウマチ薬事業の承継眼科だけで世界と戦うために、何を買い、何を手放すか 詳細を読む★★★
森田隆和抗リウマチ薬事業をあゆみ製薬へ承継★★
森田隆和医療用デバイス開発会社InnFocus, Inc.を買収
谷内樹生Santen Oyのタンペレ工場をNextPharma Oyへ譲渡
谷内樹生Verily Life Sciences LLCと合弁会社Twenty Twenty Therapeutics LLCを設立
谷内樹生Eyevance Pharmaceuticals Holdings Inc.と事業会社を買収★★
伊藤毅米州における医療用医薬品事業に係る一部製品をHarrow Health, Inc.へ資産譲渡★★
伊藤毅Twenty Twenty Therapeutics LLCを清算配当の受領により持分法適用関連会社から除外
出典・参考

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