1893年 家伝の婦人薬「中将湯」から始まり生薬研究の土台を築いた売薬の時代
- 1893年個人経営の中将湯本舗 津村順天堂を創立。
- 1936年東京都中央区に株式会社津村順天堂を設立、個人経営の業務を引継ぎ、婦人薬中将湯、浴用剤バスクリン等の製造販売を開始。
- 1962年防疫用農薬を製造販売する津村交易株式会社を吸収合併。
- 1964年静岡工場建設、目黒工場より移転。
ツムラの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
母の実家の家伝薬を売り出した日本橋の売薬商
ツムラの歴史は、1893年4月に初代津村重舎氏が東京・日本橋に開いた個人経営の「中将湯本舗 津村順天堂」から始まる。奈良県宇陀郡の旧家に生まれた重舎氏は、母の実家である藤村家に代々伝わる婦人薬「中将湯」を製品化するため故郷を出て上京し、「良薬は必ず売れる」という信念を掲げて創業と同時に中将湯を売り出した。奈良・当麻寺の中将姫伝説に由来を持つこの生薬製剤は、複数の生薬を煎じて飲む婦人病の妙薬として評判を集め、売薬が医薬の主流だった明治・大正期の業界で、津村順天堂は確固たる地歩を固めた。一つの家伝薬に会社の命運を懸けるという出発点が、後の漢方専業への回帰を貫く原型になった。 [1][2][3]
- 有価証券報告書
- [1]
- ツムラ公式サイト「ツムラの歴史 1893年~1945年」
- [2]
- 日本家庭薬協会「家庭薬ロングセラー物語 中将湯」
- [3]
重舎氏は宣伝にも長けた商人だった。創業からわずか2年後の1895年には日本初とされるガスイルミネーション看板を東京の街頭に掲げて話題を呼び、明治期の東洋経済新報などの経済誌にも、三共の胃腸薬「タカヂアスターゼ」と並んで中将湯の広告を出稿し続けた。事業の拡大にあわせて1919年には目黒工場の使用許可を得て自前の生産体制を整え、1920年には創業25周年の記念謝恩会を開くまでに商圏を広げた。売薬で得た利益を広告と設備に惜しみなく注ぎ込み、一つの家伝薬を全国区の商品に育てるという創業期の型が、この四半世紀でできあがった。 [4][5][6][7]
- ツムラ公式サイト「ツムラの歴史 1893年~1945年」
- [4]
- [6]
- [7]
- 週刊東洋経済 2004年8月21日号
- [5]
- 有価証券報告書
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- ツムラ公式サイト「ツムラの歴史 1893年~1945年」
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- [4]
- [6]
- [7]
- 日本家庭薬協会「家庭薬ロングセラー物語 中将湯」
- [3]
- 週刊東洋経済 2004年8月21日号
- [5]
研究所と薬草園、バスクリンが支えた生薬研究
津村順天堂は売薬商にとどまらず、生薬の学術研究に早くから投資した。1924年に津村研究所と津村薬草園を開設し、1926年には植物分類学の学術誌『植物研究雑誌』の刊行を始めるなど、一介の売薬商としては異例の研究基盤を築いた。1930年に発売した芳香浴剤「バスクリン」は、後に会社を長く支える看板商品となる。1936年4月には株式会社津村順天堂に改組し、個人経営の業務を引き継いで婦人薬中将湯と浴用剤バスクリンなどの製造販売を続けた。1941年に初代重舎氏が死去すると2代目重舎氏が襲名したが、1945年の空襲で本社を焼失し目黒工場も被害を受け、戦後は焼け跡からの再興を迫られた。 [8][9][10][11]
- ツムラ公式サイト「ツムラの歴史 1893年~1945年」
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- 有価証券報告書
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戦後の復興を率いた2代目津村重舎氏は、昭和30年代後半以降、高度経済成長の波に乗ってヒットしたバスクリンの利益を、漢方薬の研究所設立とその維持拡大に投じ続けた。「研究所は社長の道楽。なぜ今もうかっているバスクリンにもっと金を投じないのか」という社内の反対は相当なものだったと本人が後年振り返っているが、この投資が漢方薬を売上の8割以上を占める柱に育てる土壌になった。事業面では1962年12月に防疫用農薬の津村交易を吸収合併し、1964年4月には静岡工場を建設して目黒工場から生産を移した。もうかる入浴剤で、まだ売れない漢方の研究を支える。この収益構造が次の時代への助走になった。 [12][13][14][15]
- 日経ビジネス 1992年3月9日号
- [12]
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- 有価証券報告書
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- ツムラ公式サイト「ツムラの歴史 1893年~1945年」
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- 有価証券報告書
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- 日経ビジネス 1992年3月9日号
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