パナソニック森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する
意思決定はなぜ遅れたか——巨大組織の二重構造を、幸之助氏以来の事業部制で断てるか
- 概要
- 1993年12月、松下電器産業の森下洋一社長は、1984年に復活させた事業本部制を廃止し、担当役員は置きつつ実質的に社長直轄で事業部をみる組織へ改めた。3期連続減益と炊飯器リコールでの意思決定の遅れを背景に、組織の二重構造を断って迅速な意思決定を取り戻そうとした。幸之助氏が1933年に生んだ事業部制への回帰でもあった経営判断。
- 背景
- 家電不況・天候不順・産業機器の低迷が重なり、AAA格付けの優良企業だった松下は3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字さえ見込まれていた。1984年に復活した事業本部制は組織の二重構造を生み、委員会と会議が膨れ上がって意思決定を鈍らせていた。1993年11月には約25万台のIHジャー炊飯器リコールで、社長決裁から公表まで2週間を要する意思伝達の悪さが露呈した。
- 内容
- 森下洋一氏(社長)は1993年12月8日、事業本部を廃止し、実質的に社長が事業部を直接みる組織改革を発表した。前年の炊飯器事故で証明された「迅速な意思決定」の欠如を断つのが狙いで、社内では、1977年就任直後に3総括事業本部を廃して事業部を直結させた山下俊彦氏の型を踏襲するものとも受け止められた。だが生産部門の強化に踏み込む一方、営業部門のリストラは手つかずで残った。
- 含意
- 事業部と販売部門をどうつなぐかという肝心な部分に手が及ばず、崩れつつあった系列店流通の立て直しは先送りされた。1933年に幸之助氏が生んだ事業部制は、松下の組織原理でありながら、危機のたびに導入と回帰を繰り返す振り子となった。森下氏改革もその揺れの一つにすぎず、事業部制をめぐる迷いは2000年代の中村氏改革へと持ち越された。
揺れ続ける組織のかたち
1933年に幸之助氏が生んだ事業部制は、松下の組織原理でありながら、危機のたびに導入と回帰を繰り返す振り子となっていた。1950年の再導入、1972年の廃止、1978年の山下俊彦氏による社長直結、1984年の事業本部制復活、そして1993年の森下洋一氏による回帰。組織のかたちそのものが、その時々の経営の悩みを映す鏡であった。森下氏改革もまた、その長い揺れの一つにすぎなかったとみることができる。
森下洋一氏(社長)の回帰は、山下俊彦氏の成功体験を丁寧になぞりながら、時代が突きつけた課題——系列店流通の崩壊——には届かなかった。事業部制という発明が、いつしか「そこへ戻れば何とかなる」という物語へと変わっていた点に、この判断の限界がうかがえる。揺れはそこで止まらず、2000年に就いた中村邦夫社長は今度は事業部制そのものを解体してドメイン制へ振り、その揺れは2022年の事業会社制まで続いた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
減益に沈む優良企業と二重構造の弊害
1993年の松下は、四方をふさがれていた。家電不況に天候不順が重なり、民間設備投資の落ち込みが産業機器を冷やして、AAA格付けを誇った優良企業の収益基盤が揺らいでいた。業績は3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字さえ見込まれる事態であった。新製品が続かず、間接部門の膨張で高コスト体質が定着しつつあった生産部門に、早く手を打たねば組織そのものが崩れかねないという危機感が社内を覆っていた[1]。
業績以上に深刻だったのが、意思決定の遅さであった。1984年に復活した事業本部制は、事業部の上に事業本部を重ねる二重構造を生んでいた。本社の委員会がいくつあるか誰も知らないと言われるほど会議は増え、事業部長は「何かを決めるのではなく、報告だけの会議がほとんど」とこぼした。会議のたびに書類の提出を求められ、間接要員は膨らむ一方で、決めるべきことが決まらない組織へと肥大していた[2]。
決断
社長直轄の事業部制へ
改革の引き金は、直前に起きた不祥事であった。1993年11月に発覚したIHジャー炊飯器の欠陥事故は、約25万台に及ぶ大量リコールとなった。問題はリコールの規模ではなく、事故への対応の鈍さにあった。原因が判明して森下洋一氏(社長)に報告があったのが11月7日、緊急記者発表が11月20日と、この間に2週間を要した。社長決裁がどこかで滞る意思伝達の悪さを断つ——それが、事業部を社長に直結させる改革の根にあった[4]。
山下氏の型を踏襲する権力固め
結果
肝心の営業部門は手つかず
改革は、生産部門の事業部強化と権限集中には踏み込んだ。だが最も手を入れるべき営業部門のリストラは、手つかずのまま残された。リエンジニアリングに詳しい梅沢・東京大学教授は「迅速な意思決定という面では一定の評価はできるが、事業部と販売部門の接続方法など肝心なところに手をつけていない」と分析した。事業部を社長に直結させても、その事業部が作った製品を売る流通の仕組みが変わらなければ、改革は半ばで止まってしまう[7]。
かつて「販売の松下」と呼ばれ、最強の販売網を誇った全国2万5000店の系列店は、すでにお荷物へと転じつつあった。ディスカウンターの攻勢に家電不況が重なり、経営不振に陥る家電店が相次いで、その支援で本社の流通コストは膨らむ一方であった。家電流通を軸とする営業体制の立て直しは、生産部門の事業部再建以上の急務でありながら、森下氏改革はそこへ踏み込むことができなかった[8]。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- 松下電器産業 会社年鑑(連結業績)