日立建機土浦一貫生産への集約:製販統合による新生日立建機の発足と、足立工場の閉鎖

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時期 1972年8月
意思決定者(推定) 取締役会
論点 組織再編と生産拠点の集約
概要

日立製作所の建設機械製造部門として1969年に分離独立した日立建機が、1970年10月に販売会社と合併して製販を一体化し、後発だったトラクター類の生産を捨て、1974年3月までに東京の足立工場を閉じて茨城の土浦工場へ生産を全面集約した一連の経営判断。

背景

分離独立の直後にニクソン・ショックで建設投資が縮み、後発分野だったブルドーザー類の売れ行きも振るわずに2期連続の経常赤字を出した。製造と販売が別法人に分かれた体制では、設備投資も意思決定も回らなかった。

内容

首都圏の既成市街地にある足立工場は法規制で増改築も増産投資も難しく、油圧ショベルから機械式ショベル、トラッククレーンまでを土浦へ寄せ、製缶・機械加工から組立までを一貫して行う工場に建て替えた。投資額は部品センタを含め135億円で、財源の多くは足立工場の跡地売却代金であった。

含意

掘削機械に品揃えを絞り、単一工場に生産を寄せた体制が、1981年3月期の売上高1,219億円と油圧ショベルのトップシェアにつながった。捨てる判断と集める判断を数年のうちに同時に下した点に特徴がある。

筆者の見解

東京の土地と、茨城の工場

足立を閉じる決定の重さは、跡地の売却代金が移転投資135億円の主な財源になった点に表れている。2期続けて経常損失を出した会社に、新しい一貫工場を自力で建てる余力はなく、東京の土地を手放して茨城に設備を積み直すという入れ替えでしか、生産体制の作り替えは成り立たなかったとみられる。首都圏の工業等制限法が増産投資さえ塞いでいた以上、足立に残るという選択肢は初めから細かった。

ただ、集約が会社を安定させたわけではなかった。石油危機後の需要冷え込みで操業度が落ち、1976年3月期と1977年3月期には再び経常損失を出しており、単一工場に寄せた体制は需要の波をそのまま受ける構えでもあった。それでも、掘削機械に絞った品揃えと土浦の一貫生産は、1981年3月期の売上1,219億円と油圧ショベルのトップシェアという足場を残した。捨てる判断と集める判断を数年のうちに同時に下したことが、この会社の輪郭を決めたとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

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出典・参考
  • 日立建機10年史(日立建機, 1981年)
  • 証券 1982年34巻1号
  • 日立建機 有価証券報告書【沿革】

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