日立建機製販統合による新生日立建機の発足と、足立工場の閉鎖・土浦一貫生産への集約
分離独立の直後に2期連続の経常赤字——製造と販売が分かれた体制のまま立て直せるか
- 概要
- 日立製作所の建設機械製造部門として1969年に分離独立した日立建機が、1970年10月に販売会社と合併して製販を一体化し、後発だったトラクター類の生産を捨て、1974年3月までに東京の足立工場を閉じて茨城の土浦工場へ生産を全面集約した一連の経営判断。
- 背景
- 分離独立の直後にニクソン・ショックで建設投資が縮み、後発分野だったブルドーザー類の売れ行きも振るわずに2期連続の経常赤字を出した。製造と販売が別法人に分かれた体制では、設備投資も意思決定も回らなかった。
- 内容
- 首都圏の既成市街地にある足立工場は法規制で増改築も増産投資も難しく、油圧ショベルから機械式ショベル、トラッククレーンまでを土浦へ寄せ、製缶・機械加工から組立までを一貫して行う工場に建て替えた。投資額は部品センタを含め135億円で、財源の多くは足立工場の跡地売却代金であった。
- 含意
- 掘削機械に品揃えを絞り、単一工場に生産を寄せた体制が、1981年3月期の売上高1,219億円と油圧ショベルのトップシェアにつながった。捨てる判断と集める判断を数年のうちに同時に下した点に特徴がある。
東京の土地と、茨城の工場
足立を閉じる決定の重さは、跡地の売却代金が移転投資135億円の主な財源になった点に表れている。2期続けて経常損失を出した会社に、新しい一貫工場を自力で建てる余力はなく、東京の土地を手放して茨城に設備を積み直すという入れ替えでしか、生産体制の作り替えは成り立たなかったとみられる。首都圏の工業等制限法が増産投資さえ塞いでいた以上、足立に残るという選択肢は初めから細かった。
ただ、集約が会社を安定させたわけではなかった。石油危機後の需要冷え込みで操業度が落ち、1976年3月期と1977年3月期には再び経常損失を出しており、単一工場に寄せた体制は需要の波をそのまま受ける構えでもあった。それでも、掘削機械に絞った品揃えと土浦の一貫生産は、1981年3月期の売上1,219億円と油圧ショベルのトップシェアという足場を残した。捨てる判断と集める判断を数年のうちに同時に下したことが、この会社の輪郭を決めたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
分離独立と、二つに分かれた会社
日立製作所は1969年、建設機械の需要が伸びるなかで、総合電機・機械産業として生産と販売を抱え続けるより、専業メーカーとして足立・土浦の両工場を分離独立させるほうが飛躍できると判断した。ただし承継資産を低廉な簿価で譲り受けることが競争力を保つ条件であり、それには法的な制約があった。両工場と既存の販売会社である旧日立建機を当初から一体で発足させることはできず、次善の策として、同年11月にまず製造会社の日立建設機械製造が設立された[1][2]。
1970年10月、日立建設機械製造が旧日立建機を吸収合併して商号を日立建機に変え、日立製作所から建設機械輸出部門の移管も受けて、製造・販売・サービスの一貫体制ができた。ところが統合直後の業績は沈んだ。1971年3月期の売上高は184億円で8億円の当期損失、翌期は売上354億円に対して18億円の損失であった。ニクソン・ショックで建設投資が縮んだうえ、後発分野だったブルドーザーの売れ行きが振るわず、2期続けて経常損失を計上した[3][4][5]。
決断
後発機種を捨て、掘削機械に絞る
立て直しの一手は、品揃えを増やす方向ではなく削る方向にあった。1971年3月期の売上構成をみると、トラクタその他が141億円で39%を占め、油圧ショベルの105億円・29%を上回っていた。会社はこの最大分類の生産を1971年10月に中止し、ブルドーザー類など不採算機種から順に退いた。総合建機として2大巨人を追う道を早い段階で捨て、掘削機械の専業として立つ選択であった[6][7]。
残したのは、油圧ショベル、機械式ショベル、トラッククレーン、トンネル掘進機という掘削と揚重の系列であった。ブルドーザー等の不採算機種から退いたのち、1972年9月期以降は政府の景気浮揚策と民間設備投資の活発化で建設機械需要が活況に転じ、売上も伸びた。撤退で空いた生産の枠を回復した主力機種へ振り向けられたことが、次の集約投資を支える資金の裏づけになったとみられる[8]。
足立では増やせないという制約
もう一つの制約は、工場の立地にあった。東京都足立区の足立工場は「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」により、増改築はもとより増産合理化のための投資さえ難しく、近い将来に工場運営へ重大な支障が出ると予測されていた。1971年度から検討していた足立・土浦両工場の総合生産合理化計画は1971年10月に決まり、翌年4月には油圧ショベルの生産が足立から土浦へ移された[9][10]。
当初の計画は足立を部品加工と部品組立の工場として残すものであったが、1972年7月に成立した田中内閣が工業再配置促進法などで過密地域の工場を地方へ分散させようとしたことを受け、日立製作所と日立建機は他社に先駆けて首都圏工場の地方移転を決め、8月に新聞へ発表した。足立工場と部品センタを土浦へ全面集約する計画については、同年9月にSTGプロジェクトが「統合化計画目論見書」をまとめ、10月には社長直属の臨時職制として移転本部が置かれた[11][12]。
結果
一貫生産の工場と、その後の浮沈
土浦工場は、大型機械組立工場、油圧ショベル組立のコンベアシステム、実験棟、研究棟、油圧機器工場、オンラインで入出庫を管理する高層自動倉庫を備える工場に建て替えられ、製缶・機械加工から組立までを一貫して行う体制ができた。投資額は工場関係で124億円、部品センタを含めた総額では135億円に達し、その財源は主に足立工場の跡地売却代金で賄われた。製造部門の土浦への統合は1974年3月までに完了した[13][14]。
集約後の生産管理では、トヨタのかんばん方式にならった「JUST IN TIME方式」を採り、仕掛品に取り付ける部品を投入時に納入させて在庫を圧縮した。売上高は1981年3月期に1,219億9,500万円へ伸び、建設機械業界6位につけながら油圧ショベルではトップシェアを保ち、同年12月に東京証券取引所市場第2部へ上場した。もっとも道は平坦ではなく、石油危機後の需要の冷え込みで操業度が落ち、1976年3月期と1977年3月期には再び経常損失を出していた[15][16][17]。
- 日立建機10年史(日立建機, 1981年)
- 証券 1982年34巻1号「新規上場会社紹介 日立建機株式会社」
- 日立建機 有価証券報告書【沿革】