足立を閉じる決定の重さは、跡地の売却代金が移転投資135億円の主な財源になった点に表れている。2期続けて経常損失を計上した会社に、新しい一貫工場を自力で建てる余力はなく、東京の土地を売却して茨城に設備を積み直すという入れ替えでしか、生産体制の作り替えは成り立たなかったと思われる。首都圏の工業等制限法が増産投資さえ塞いでいた以上、足立に残るという選択肢は初めから細かった。
ただ、集約が会社を安定させたわけではなかった。石油危機後の需要冷え込みで操業度が落ち、1976年3月期と1977年3月期には再び経常損失を計上しており、単一工場に寄せた体制は需要の波をそのまま受ける体制でもあった。それでも、掘削機械に絞った品揃えと土浦の一貫生産は、1981年3月期の売上1,219億円と油圧ショベルのトップシェアという足場を残した。捨てる判断と集める判断を数年のうちに同時に下したことが、この会社の輪郭を決めたのだろう。