1884年〜 首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで
- 1884年磐城炭礦社設立。常磐炭田における近代的採炭事業の母体となる
- 1893年磐城炭礦株式会社に改称
- 1895年入山採炭株式会社創立
- 1944年磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社の両社が合併し、常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立。資本金3,150万円
- 1944年神の山炭礦株式会社及び中郷無煙炭礦株式会社を合併
常磐興産の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
常磐炭田の二大会社、磐城炭礦社と入山採炭
常磐炭田は福島県の浜通りから茨城県北部にかけて広がる炭田で、九州の筑豊や北海道の石狩と比べれば規模は小さい。ただ一点だけ、他のどの炭田も持たない条件があった。東京にいちばん近い。この立地が、明治期にこの土地へ資本を呼び込んだ。1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称する。1895年5月には入山採炭株式会社が創立された。『会社銀行八十年史』は前者を浅野総一郎氏が、後者を白井遠平氏が創立したものと記し、両社をそろって「常磐炭田の開拓者」であり「この炭田の二大会社」と位置づけている。 [1][2][3][4][5]
- 常磐興産 公式サイト「沿革」
- [1]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
- [2]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [3]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった
- [4]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
- [5]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった
創立の年については資料が割れる。『会社銀行八十年史』は磐城炭礦の前身を「明治十六年一月」すなわち1883年1月の創立と書き、同社の公式沿革は1884年10月とする。1年の差は、発起の時点を取るか登記の時点を取るかの違いから生じたものであろう。どちらを取るにせよ、この二社が別々に坑を開き、別々に採炭の技術を蓄えた60年が先にある。首都に近いという地の利は、裏を返せば同じ市場を二社で奪い合う条件でもあった。競い合っていた両社が一つに合流するのは1944年であり、合流させたのは経営判断ではなく戦争だった。 [6][7][8]
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [6]会社銀行八十年史は「明治十六年一月浅野総一郎氏によつて創立された常磐炭砿」と記す(社名は磐城炭礦ではなく合併後の「常磐炭砿」と書かれている)。公式沿革は1884年10月の磐城炭礦社設立とする
- [7]浅野総一郎の伝記系資料も「明治16年(1883)磐城炭鉱会社を設立した」と1883年創立説を採る。1883年説は会社銀行八十年史の単独記述ではなく、浅野側の伝記に共通する系統である
- [8]渋沢栄一伝記資料系では磐城炭礦会社の設立を1884年8月とし、公式沿革の1884年10月とも1か月以上ずれる。すなわち1883年1月・1884年8月・1884年10月の三説が併存する
- 常磐興産 公式サイト「沿革」
- [1]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
- [2]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [3]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった
- [6]会社銀行八十年史は「明治十六年一月浅野総一郎氏によつて創立された常磐炭砿」と記す(社名は磐城炭礦ではなく合併後の「常磐炭砿」と書かれている)。公式沿革は1884年10月の磐城炭礦社設立とする
- [4]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
- [8]渋沢栄一伝記資料系では磐城炭礦会社の設立を1884年8月とし、公式沿革の1884年10月とも1か月以上ずれる。すなわち1883年1月・1884年8月・1884年10月の三説が併存する
- [5]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった
- [7]浅野総一郎の伝記系資料も「明治16年(1883)磐城炭鉱会社を設立した」と1883年創立説を採る。1883年説は会社銀行八十年史の単独記述ではなく、浅野側の伝記に共通する系統である
1944年、戦時統合が常磐炭礦を生む
1944年3月、磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社が合併し、常磐炭礦株式会社が発足した。資本金3,150万円、本店は東京都中央区銀座に置いている。産炭地は福島県と茨城県にあるが、本店は東京から動かさなかった。同年9月には両社の子会社であった神ノ山炭礦株式会社と中郷無煙炭礦株式会社を吸収合併し、系列の炭礦もまとめて一社の下に入れている。『会社銀行八十年史』はこの一連の統合をもって、同社が「名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となつた」と記した。二社が60年かけて競った結果ではない。戦時下の増産要請が、同じ市場を奪い合ってきた両社を一社にまとめた。 [9][10]
- 有価証券報告書
- [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった
束ねたところで、出炭は増えなかった。同書は戦争末期の常磐炭礦について「極度の資材難と労務給源の枯渇に悩みながら、創設以来の懸案である排水計画と坑道の整備を行いつつ増産に努めた」と書き、終戦とともに出炭が著しく減ったと続ける。創設以来の懸案が排水だったという一行は、後の展開に効いてくる。掘り進むほど坑内に水が出て、その水を汲み上げる費用が採算を削る。しかも常磐炭田の湧水は温かった。地表へ汲み上げれば、それは温泉である。会社が半世紀にわたって費用として処理し続けたその湯が、のちに主力商品へ変わる。 [11]
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した
- 有価証券報告書
- [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった
- [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した