常磐興産 の歴史

創業

1884年

創業者

浅野総一郎・渋沢栄一ほか

創業地

福島県いわき市

直近売上高(2024/3)

149億円

長期業績と転換点(1995/3〜2024/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1966年に、炭鉱会社が坑内に湧く湯でハワイを作ったのか
A 元手は、それまで費用でしかなかったものである。常磐炭礦は常磐炭田で最も深い海面下638メートルまで掘っており、深部ほど温泉が湧いて排水に金がかかる。週刊東洋経済はこの湯を炭鉱にとっての「負の財産」と呼んでいる。1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月に常磐ハワイアンセンターを開いた。1,000人余りの炭鉱労働者を受け入れ、合理化で減る雇用の受け皿にもなった。『日本産業史』が挙げるとおり、斜陽の石炭鉱業から観光へ出た会社はほかにもあった。常磐炭礦だけが進出先の資産を買わずに済んだ。
Q なぜ1970年に石炭を切り離したあとも、石炭の借りを返し続けたのか
A 分離は債務の免除ではなかった。1970年5月に新常磐炭礦株式会社を設立し、同年7月に石炭生産部門をそこへ営業譲渡した。新会社が常磐炭礦の名を継ぎ、譲渡側は常磐興産と名を改めた。社名の交換である。だが炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済は残り、その優先によってハワイアンセンターへの新規投資は開業後14年間凍結される。入場者数は1970年の155万人から1983年には約98万人まで落ちた。1985年3月に茨城地区で終掘すると、同年9月には常磐炭礦を合併し直した。切り離した祖業の後始末は、最後まで本体に残った。
Q なぜ2024年に、業績が計画を上回るまま上場をやめたのか
A 数字が悪かったからではない。最終年度の2024年3月期は売上高148億円・営業利益13億円で、「経営計画2023」の目標を上回った。制約は別のところにあった。1966年に開いた施設は50年を越えて更新期に入り、有価証券報告書は計画的な施設増強と改修、有利子負債の圧縮を課題に挙げている。一方で売上高は震災前のピークである2009年3月期の543億円に遠く届かない。2024年9月に公開買付けが発表され、2025年2月19日に東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止となった。直す資金の出どころが、市場の外へ移った。

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1884年〜 首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで

  1. 1884年磐城炭礦社設立。常磐炭田における近代的採炭事業の母体となる
  2. 1893年磐城炭礦株式会社に改称
  3. 1895年入山採炭株式会社創立
  4. 1944年磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社の両社が合併し、常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立。資本金3,150万円
  5. 1944年神の山炭礦株式会社及び中郷無煙炭礦株式会社を合併

常磐興産の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

常磐炭田の二大会社、磐城炭礦社と入山採炭

常磐炭田は福島県の浜通りから茨城県北部にかけて広がる炭田で、九州の筑豊や北海道の石狩と比べれば規模は小さい。ただ一点だけ、他のどの炭田も持たない条件があった。東京にいちばん近い。この立地が、明治期にこの土地へ資本を呼び込んだ。1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称する。1895年5月には入山採炭株式会社が創立された。『会社銀行八十年史』は前者を浅野総一郎氏が、後者を白井遠平氏が創立したものと記し、両社をそろって「常磐炭田の開拓者」であり「この炭田の二大会社」と位置づけている。 [1][2][3][4][5]

  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [1]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
    • [2]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [3]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった
    • [4]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
    • [5]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった

創立の年については資料が割れる。『会社銀行八十年史』は磐城炭礦の前身を「明治十六年一月」すなわち1883年1月の創立と書き、同社の公式沿革は1884年10月とする。1年の差は、発起の時点を取るか登記の時点を取るかの違いから生じたものであろう。どちらを取るにせよ、この二社が別々に坑を開き、別々に採炭の技術を蓄えた60年が先にある。首都に近いという地の利は、裏を返せば同じ市場を二社で奪い合う条件でもあった。競い合っていた両社が一つに合流するのは1944年であり、合流させたのは経営判断ではなく戦争だった。 [6][7][8]

  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [1]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
    • [2]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [3]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった
    • [6]会社銀行八十年史は「明治十六年一月浅野総一郎氏によつて創立された常磐炭砿」と記す(社名は磐城炭礦ではなく合併後の「常磐炭砿」と書かれている)。公式沿革は1884年10月の磐城炭礦社設立とする
    • [4]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
    • [8]渋沢栄一伝記資料系では磐城炭礦会社の設立を1884年8月とし、公式沿革の1884年10月とも1か月以上ずれる。すなわち1883年1月・1884年8月・1884年10月の三説が併存する
    • [5]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった
    • [7]浅野総一郎の伝記系資料も「明治16年(1883)磐城炭鉱会社を設立した」と1883年創立説を採る。1883年説は会社銀行八十年史の単独記述ではなく、浅野側の伝記に共通する系統である

1944年、戦時統合が常磐炭礦を生む

1944年3月、磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社が合併し、常磐炭礦株式会社が発足した。資本金3,150万円、本店は東京都中央区銀座に置いている。産炭地は福島県と茨城県にあるが、本店は東京から動かさなかった。同年9月には両社の子会社であった神ノ山炭礦株式会社と中郷無煙炭礦株式会社を吸収合併し、系列の炭礦もまとめて一社の下に入れている。『会社銀行八十年史』はこの一連の統合をもって、同社が「名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となつた」と記した。二社が60年かけて競った結果ではない。戦時下の増産要請が、同じ市場を奪い合ってきた両社を一社にまとめた。 [9][10]

  • 有価証券報告書
    • [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった

束ねたところで、出炭は増えなかった。同書は戦争末期の常磐炭礦について「極度の資材難と労務給源の枯渇に悩みながら、創設以来の懸案である排水計画と坑道の整備を行いつつ増産に努めた」と書き、終戦とともに出炭が著しく減ったと続ける。創設以来の懸案が排水だったという一行は、後の展開に効いてくる。掘り進むほど坑内に水が出て、その水を汲み上げる費用が採算を削る。しかも常磐炭田の湧水は温かった。地表へ汲み上げれば、それは温泉である。会社が半世紀にわたって費用として処理し続けたその湯が、のちに主力商品へ変わる。 [11]

  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した
  • 有価証券報告書
    • [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった
    • [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した

1945年〜 傾斜生産の主役として復興を支え、エネルギー革命によって主力を失うまで

  1. 1949年東京証券取引所に上場(有価証券報告書は「市場第一部に上場」と記すが、一部・二部の区分は1961年開始のため遡及表記にあたる)
  2. 1953年双葉貨物自動車株式会社を設立(現 常磐港運株式会社 連結子会社)
  3. 1961年小名浜港石炭荷役株式会社を設立(現 常磐港運株式会社 連結子会社)
  4. 1963年株式会社常磐製作所を設立(現 連結子会社)
  5. 1964年常磐湯本温泉観光株式会社を設立。坑内湧出温泉を利用する観光事業の母体となる
  6. 1966年常磐ハワイアンセンター(現 スパリゾートハワイアンズ)開業

常磐興産の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

戦後復興が石炭に与えた特権的な地位

敗戦直後の炭鉱は壊滅的だった。『日本産業史』によれば、1945年11月の全国出炭は55万4,000トンと戦時中の約1割に落ち込んでいる。これを引き上げるために採られたのが傾斜生産方式で、炭鉱向けの鋼材割当を増やし、その見返りに鉄鋼向けの配炭を増やすという相互増配の仕組みだった。復興金融金庫からは設備328億円・運転145億円の計473億円が炭鉱に流れ、これは1948年度末の復金融資残高の36%にあたる。復興に配る資材と資金は、まず石炭へ回された。常磐炭礦もその配分を受ける側にいた。 [12][13]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [12]1945年11月の全国出炭は55万4,000トンで戦時中の約1割の水準まで落ち込んだ
    • [13]傾斜生産期に復興金融金庫から炭鉱へ設備328億円・運転145億円の計473億円が融資され、1948年度末の復金融資残高の36%を占めた

常磐炭礦の回復は速かった。『会社銀行八十年史』は出炭を1945年度の67万トンから1949年度に140万トン、1952年度には180万トンへ引き上げたと記録する。1949年5月には東京証券取引所へ上場し、同年12月に資本金を1億円へ増額した。産出したのは国鉄・セメント・暖房用に広く売れる一般炭で、1953年末には茨城砿業所で払面250メートルから280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を行っている。1949年11月の鹿島坑を皮切りに選炭場を6か所築き、鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出すまでになった。技術の面でこの会社は先頭にいた。 [14][15][16][17]

  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [14]常磐炭礦の出炭は1945年度67万トンから1949年度140万トン、1952年度180万トンへ増加した
    • [17]1953年末に茨城砿業所で払面250〜280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を実施し、選炭場6か所の建設で鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出した。1949年12月に資本金を1億円へ増額した
  • 有価証券報告書
    • [15]1949年5月に東京証券取引所へ上場した
    • [16]有報【沿革】は「1949年5月 東京証券取引所市場第一部に上場」と記すが、東証の市場第二部開設(=第一部・第二部の区分開始)は1961年であり、1949年時点に「市場第一部」は存在しない。会社の公式沿革は「1949年 東京証券取引所に上場」「1970年5月 東京証券取引所 一部に上場(当時社名「常磐炭礦株式会社」)」と2件に分けて記載しており、有報表記は遡及的な圧縮である。本文が「東京証券取引所へ上場」とのみ書くのは有報・公式沿革の双方と矛盾せず適切
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [12]1945年11月の全国出炭は55万4,000トンで戦時中の約1割の水準まで落ち込んだ
    • [13]傾斜生産期に復興金融金庫から炭鉱へ設備328億円・運転145億円の計473億円が融資され、1948年度末の復金融資残高の36%を占めた
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [14]常磐炭礦の出炭は1945年度67万トンから1949年度140万トン、1952年度180万トンへ増加した
    • [17]1953年末に茨城砿業所で払面250〜280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を実施し、選炭場6か所の建設で鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出した。1949年12月に資本金を1億円へ増額した
  • 有価証券報告書
    • [15]1949年5月に東京証券取引所へ上場した
    • [16]有報【沿革】は「1949年5月 東京証券取引所市場第一部に上場」と記すが、東証の市場第二部開設(=第一部・第二部の区分開始)は1961年であり、1949年時点に「市場第一部」は存在しない。会社の公式沿革は「1949年 東京証券取引所に上場」「1970年5月 東京証券取引所 一部に上場(当時社名「常磐炭礦株式会社」)」と2件に分けて記載しており、有報表記は遡及的な圧縮である。本文が「東京証券取引所へ上場」とのみ書くのは有報・公式沿革の双方と矛盾せず適切

深部採掘が生んだ湧出温泉という負債

常磐炭礦は常磐炭田で最も深いところを掘った。最深部は海面下638メートルに達し、炭質は深部へ行くほど良くなる一方で、揚炭と排水に使う電力の需要が増えた。同社は1954年6月に既設の平発電所へ5,000キロワットの火力発電機を1基増設して合計出力1万6,000キロワットとし、その燃料に3,500カロリー級の裾物炭を使った。低品位燃料を使う発電装置としては国内で最初のものだったという。深く掘るための電気を、深く掘って出た売り物にならない石炭で起こす。坑から出たものを坑の次の工程へ回すこの段取りは、以後もこの会社に繰り返し現れる。 [18]

  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [18]常磐炭田で最深度海面下638メートルを採掘し、1954年6月に平発電所へ5,000キロワットを増設して合計出力1万6,000キロワットとした。3,500カロリー級の裾物炭を使う低品位燃料装置としては最初のものとされた

深部採掘には代償があった。坑内に大量の温泉が湧き、その排水に費用がかかる。石炭を掘るための会社にとって、温水は処理すべき厄介物にすぎない。週刊東洋経済は2002年の記事で、この温泉を炭鉱にとっての「負の財産」と表現している。1960年代に入ると石炭そのものの立場が変わった。エネルギー政策は石炭中心から石油と電力へ比重を移し、高い炭価への批判のなかで業界は本格的な合理化を迫られる。掘るほど水が出る深い坑は、斜陽産業のなかでも条件の悪い部類に入った。閉山は時間の問題であり、残るのはそこで働く1,000人余りの行き先だった。 [19][20]

  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [19]坑内に湧く温泉は炭鉱にとって「負の財産」であった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [20]戦後のエネルギー政策は石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価批判のなかで石炭は本格的な合理化の時代に入った
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [18]常磐炭田で最深度海面下638メートルを採掘し、1954年6月に平発電所へ5,000キロワットを増設して合計出力1万6,000キロワットとした。3,500カロリー級の裾物炭を使う低品位燃料装置としては最初のものとされた
  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [19]坑内に湧く温泉は炭鉱にとって「負の財産」であった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [20]戦後のエネルギー政策は石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価批判のなかで石炭は本格的な合理化の時代に入った

厄介物を商品に変えた1966年のハワイアンセンター

1964年9月、同社は常磐湯本温泉観光株式会社を設立した。1966年1月、その事業として常磐ハワイアンセンターが開業する。使ったのは坑内から湧く温泉であり、迎え入れたのは職を失う炭鉱労働者だった。週刊東洋経済によれば、開業にあたって1,000人余りの炭鉱労働者を受け入れた。ただしこの時点で山が閉じたわけではない。常磐炭礦の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所であり、1966年はまだ合理化による人員整理の途上だった。従業員数は1955年の1万3,428人から1966年には6,878人まで減っており、ハワイアンセンターはその受け皿として開いた施設だった。当時のハワイは庶民に手の届かない旅行先で、そこへ行った気分を味わえる場として人気を集め、1970年には入場者数が155万人を突破する。厄介物だった湯と、行き場を失う人手が、そのまま新しい事業の原資になった。 [21][22][23][24][25][26]

  • 有価証券報告書
    • [21]1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月に常磐ハワイアンセンターを開業した
    • [22]常磐炭礦株式会社の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所閉山(いわゆる大閉山)であり、1966年の常磐ハワイアンセンター開業時点で同社は閉山していない。常磐炭田では1971年に磐城砿業所に続いて茨城砿業所の中郷砿・神の山砿が閉山し、坑内掘は茨城県側が1973年の櫛形礦業所、福島県側が1976年の西部砿の閉山で終焉、同社の茨城地区の終掘(露天掘)は1985年3月である
    • [23]常磐炭砿の人員削減は1960年8月の希望退職募集に始まり、1963年2月には勇退者・希望退職者1,235人(同年だけで従業員2,767人減)、大規模削減は1966年までつづき、従業員数は1955年の13,428人から1966年に6,878人(48.8%減)へ半減した。会社は1964年に温泉観光会社を設立、1966年にハワイアンセンターを開業し「炭砿閉山後の重要な活路」と位置づけた
    • [24]常磐炭砿茨城砿業所(中郷砿・神の山砿)は1971年に閉山し、1971年8月の中郷砿出水事故により閉山が前倒しされた。1966年まで常磐炭田の炭鉱数は小康状態で、閉山が加速したのは第3次石炭政策の1967年以降である
  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [25]1,000人余りの炭鉱労働者を受け入れて営業を開始し、1970年に入場者数155万人を突破した
    • [26]1970年に入場者数155万人を突破した

この転換は同社だけの思いつきではない。『日本産業史』のレジャー産業の章は、1950年代後半からのレジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海といった私鉄資本や観光資本が相次いで進出したことを記したうえで、「このほか『北海道炭砿』のように斜陽化した石炭鉱業への支柱を求めて観光事業に乗り出したり」と書いている。炭鉱会社が観光へ向かうのは、当時の産業地図では一つの型だった。常磐興産の特異な点は、進出先を選ぶときに自社の坑から出るものを使ったことにある。私鉄が沿線の土地と輸送力を持ち込み、他の炭鉱会社が資本と人員を持ち込んだのに対し、この会社は排水そのものを商品に変えた。 [27]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」
    • [27]日本産業史は、レジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海などの私鉄資本が進出し、北海道炭砿のように斜陽化した石炭鉱業の支柱を求めて観光事業へ乗り出す動きがあったと記している
  • 有価証券報告書
    • [21]1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月に常磐ハワイアンセンターを開業した
    • [22]常磐炭礦株式会社の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所閉山(いわゆる大閉山)であり、1966年の常磐ハワイアンセンター開業時点で同社は閉山していない。常磐炭田では1971年に磐城砿業所に続いて茨城砿業所の中郷砿・神の山砿が閉山し、坑内掘は茨城県側が1973年の櫛形礦業所、福島県側が1976年の西部砿の閉山で終焉、同社の茨城地区の終掘(露天掘)は1985年3月である
    • [23]常磐炭砿の人員削減は1960年8月の希望退職募集に始まり、1963年2月には勇退者・希望退職者1,235人(同年だけで従業員2,767人減)、大規模削減は1966年までつづき、従業員数は1955年の13,428人から1966年に6,878人(48.8%減)へ半減した。会社は1964年に温泉観光会社を設立、1966年にハワイアンセンターを開業し「炭砿閉山後の重要な活路」と位置づけた
    • [24]常磐炭砿茨城砿業所(中郷砿・神の山砿)は1971年に閉山し、1971年8月の中郷砿出水事故により閉山が前倒しされた。1966年まで常磐炭田の炭鉱数は小康状態で、閉山が加速したのは第3次石炭政策の1967年以降である
  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [25]1,000人余りの炭鉱労働者を受け入れて営業を開始し、1970年に入場者数155万人を突破した
    • [26]1970年に入場者数155万人を突破した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」
    • [27]日本産業史は、レジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海などの私鉄資本が進出し、北海道炭砿のように斜陽化した石炭鉱業の支柱を求めて観光事業へ乗り出す動きがあったと記している

1970年〜 石炭生産部門を切り離し、レジャー会社として自らを定義し直した40年

  1. 1970年常磐湯本温泉観光株式会社を合併するとともに石炭生産部門を1970年5月設立の新常磐炭礦株式会社(1970年7月常磐炭礦株式会社と商号変更)に営業譲渡し、商号を常磐興産株式会社と改め再発足
  2. 1985年常磐炭礦株式会社を合併し、石炭生産事業に区切りをつける
  3. 1985年常磐炭礦株式会社が茨城地区で終掘
  4. 1990年「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」へ名称変更し、屋外施設「スプリングパーク」を開業
  5. 1991年株式会社ホテルクレスト札幌を設立
  6. 2002年PC事業部門を常磐興産ピーシー株式会社に吸収分割し、非中核事業の切り出しに着手
  7. 2008年常磐パッケージ株式会社の全株式を譲渡し、これに伴い同社子会社3社(いわき紙器株式会社、株式会社ジェイ・アイ・ピー、常磐プラスチック工業株式会社)とも異動し、連結対象から除外

常磐興産の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

1970年、社名から「炭礦」の二文字が消える

1970年5月に新常磐炭礦株式会社を設立し、同年7月、常磐炭礦は石炭生産部門をこの新会社へ営業譲渡した。新会社は同月に常磐炭礦株式会社と商号を変え、譲渡した側は常磐興産株式会社と名を改めて再発足する。同時に常磐湯本温泉観光株式会社を合併し、ハワイアンセンターを本体の事業として取り込んだ。社名を交換した結果、石炭を掘る常磐炭礦と、それ以外を営む常磐興産が並び立った。祖業を続ける会社に元の社名を渡し、自らは別の名で残るという整理の仕方に、事業の主従がすでに入れ替わっていたことが表れている。 [28]

  • 有価証券報告書
    • [28]1970年5月設立の新常磐炭礦株式会社へ石炭生産部門を営業譲渡し、同社は同年7月に常磐炭礦株式会社へ商号変更、譲渡側は常磐湯本温泉観光を合併したうえで常磐興産株式会社へ商号を改め再発足した

石炭との縁が完全に切れるまでには、さらに15年かかった。1985年3月に常磐炭礦が茨城地区で終掘し、同年9月、常磐興産は常磐炭礦を合併している。1883年あるいは1884年に始まった採炭は、ここで100年あまりの歴史を終えた。分離から合併までの15年は、閉山にともなう債務と鉱害の処理を進める期間にあたる。切り離した事業を最後に引き取るという順序を踏んだ以上、1970年の分離は責任から逃げるための仕組みではなかった。祖業を畳む費用は、レジャーで稼いだ側が引き受けている。石炭を掘った100年に区切りがつくまで、分離からさらに15年を要した。 [29]

  • 有価証券報告書
    • [29]1985年3月に常磐炭礦が茨城地区で終掘し、同年9月に常磐興産が常磐炭礦を合併した
  • 有価証券報告書
    • [28]1970年5月設立の新常磐炭礦株式会社へ石炭生産部門を営業譲渡し、同社は同年7月に常磐炭礦株式会社へ商号変更、譲渡側は常磐湯本温泉観光を合併したうえで常磐興産株式会社へ商号を改め再発足した
    • [29]1985年3月に常磐炭礦が茨城地区で終掘し、同年9月に常磐興産が常磐炭礦を合併した

14年の投資凍結と、ハワイという看板の返上

主力に据えた施設は、その直後に長い停滞へ入った。週刊東洋経済によれば、開業後の14年間にわたって新規の投資が凍結されている。炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済を優先せざるをえなかったためで、これが響いて入場者数は低迷し、1983年には約98万人まで落ち込んだ。1970年の155万人から、13年で4割近く減った。石炭から離れる決断をしても、その借りを返し終えるまで新しい事業は資金を回してもらえない。祖業の処理と新規事業の育成が同じ時期に重なったところに、この会社の転換の難しさがあった。 [30]

  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [30]開業後14年間は炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済を優先したため新規投資が凍結され、入場者数は1983年に約98万人まで落ち込んだ

凍結が明けると、同社はハワイという当初のテーマを捨てにかかる。1990年3月に南欧風温泉の「スプリングパーク」を開き、1997年10月に露天風呂「江戸情話 与市」、1999年10月に滞在型施設「ウイルポート」、2001年7月に屋外施設「スパガーデン パレオ」と、趣の異なる施設を継ぎ足した。テーマがそろわなくなった以上、名も合わなくなる。1990年3月、常磐ハワイアンセンターはスパリゾートハワイアンズへ改称した。新名称のたたき台を作った坂本征夫氏は「三五年間も会社にいて、あれほど喧々囂々と議論を続けたのはあのときだけ」と2002年に語っている。 [31][32][33]

  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [31]1990年3月にスプリングパークを開業し、常磐ハワイアンセンターをスパリゾートハワイアンズへ改称した
    • [33]改称の新名称のたたき台を作成した坂本征夫氏(2002年時点で常磐興産の執行役員・57歳、ハワイアンズ開業2年目に入社し30余年同施設に携わる)は、35年の在社で喧々囂々の議論をしたのはこのときだけだと述べた
  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [32]1997年10月に露天風呂「江戸情話 与市」、1999年10月に「ウイルポート」、2001年7月に「スパガーデン パレオ」を開業した

名を捨てた結果、集客は戻った。2001年度の入場者数は約145万人で、うち福島・茨城両県からの来場者が96万人を占める。個人会員は年1万5,000円から最高4万円で何度でも入場でき、通常の大人入場料2,800円と比べれば数回で元が取れた。法人会員340社のうち7割強が地元企業である。リピーター率は88%に達し、同社は間口を広げる営業をやめ、すでに来ている客の来場回数を増やす営業へ切り替えた。集客対象を自動車で1時間以内・1時間半以内・2時間半以内の三つに区分し、客層もファミリー・シニア・ヤングに分けて商品を当てている。首都圏の観光客ではなく地元の常連で座席を埋めるやり方が、テーマパーク不況のなかで施設を持たせた。 [34][35]

  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [34]2001年度の入場者数は約145万人で、うち福島・茨城両県からが96万人。個人会員は年1万5,000円〜4万円、通常入場料は大人2,800円、法人会員340社の7割強が地元企業、リピーター率は88%だった
    • [35]集客対象地域を自動車で1時間以内・1時間半以内・2時間半以内に区分し、客層をファミリー・シニア・ヤングに分類して商品開発を行う営業へ切り替えた
  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [30]開業後14年間は炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済を優先したため新規投資が凍結され、入場者数は1983年に約98万人まで落ち込んだ
    • [31]1990年3月にスプリングパークを開業し、常磐ハワイアンセンターをスパリゾートハワイアンズへ改称した
    • [33]改称の新名称のたたき台を作成した坂本征夫氏(2002年時点で常磐興産の執行役員・57歳、ハワイアンズ開業2年目に入社し30余年同施設に携わる)は、35年の在社で喧々囂々の議論をしたのはこのときだけだと述べた
    • [34]2001年度の入場者数は約145万人で、うち福島・茨城両県からが96万人。個人会員は年1万5,000円〜4万円、通常入場料は大人2,800円、法人会員340社の7割強が地元企業、リピーター率は88%だった
    • [35]集客対象地域を自動車で1時間以内・1時間半以内・2時間半以内に区分し、客層をファミリー・シニア・ヤングに分類して商品開発を行う営業へ切り替えた
  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [32]1997年10月に露天風呂「江戸情話 与市」、1999年10月に「ウイルポート」、2001年7月に「スパガーデン パレオ」を開業した

広げすぎた事業を畳み、本社をいわきへ戻す

石炭から離れた同社は、レジャー以外にも手を広げていた。1975年に常磐紙業、1982年に常磐コンクリート工業、1989年に常磐興産倉庫、1992年にバキューム・コンクリートを合併し、1978年にいわき紙器、1990年に常磐プラスチック工業、1991年にホテルクレスト札幌、1996年にジェイ・アイ・ピーを設立している。紙器・コンクリート・倉庫・プラスチック・札幌のホテルと並べてみると、事業どうしの関連は薄い。共通するのは、炭鉱時代の設備と人員と土地に行き先を与えるという一点であり、成長を狙って選んだ領域ではなかった。 [36]

  • 有価証券報告書
    • [36]1975年常磐紙業、1982年常磐コンクリート工業、1989年常磐興産倉庫、1992年バキューム・コンクリートを合併し、1978年いわき紙器、1990年常磐プラスチック工業、1991年ホテルクレスト札幌、1996年ジェイ・アイ・ピーを設立した

2000年代に入ると、同社はこれらを一つずつ手放した。2002年8月にPC事業部門を常磐興産ピーシーへ吸収分割し、同年10月には包装事業部門を新設分割して常磐パッケージを設立した。2006年2月に開発事業部門を株式会社JKリアルエステートへ吸収分割し、2008年10月には常磐パッケージの全株式を譲渡して、傘下のいわき紙器・ジェイ・アイ・ピー・常磐プラスチック工業3社も連結から外れている。建設・土木部門の子会社は2007年に解散が決まった。週刊東洋経済は同年、この部門が前期に10億円近い営業赤字を出していたと伝えている。畳む順序は、赤字の大きいものからではなく、観光との距離が遠いものからだった。 [37][38]

  • 有価証券報告書
    • [37]2002年8月にPC事業部門を常磐興産ピーシーへ、同年10月に包装事業部門を新設分割して常磐パッケージを設立、2006年2月に開発事業部門をJKリアルエステートへ吸収分割し、2008年10月に常磐パッケージ株式を譲渡して子会社3社も連結から外れた
  • 週刊東洋経済 2007年10月20日号「会社四季報最新情報」
    • [38]建設・土木部門の子会社は前期に10億円近い営業赤字を出しており、2007年に解散が決まった

事業の整理と並行して、本社も動いた。1986年11月に東京都中央区東日本橋へ移していた本店を、2003年8月に福島県いわき市へ戻している。本店は1944年の設立時から銀座にあり、1953年11月には自社ビルを建てて移っていた。産炭地から遠い場所に本店を置き続けたのは、石炭が復興の主役だった時代の名残でもある。整理を終えた会社の実体は、いわきの施設1か所にほぼ集約されていた。連結売上高は2006年3月期の461億円から2009年3月期に543億円まで伸びたのち、包装事業の譲渡を反映して2010年3月期は347億円へ落ちた。数字の上では縮小だが、残ったのは観光と、それを支える港運・製作の各社である。 [39][40]

  • 有価証券報告書
    • [39]1986年11月に本店を東京都中央区東日本橋へ移し、2003年8月に福島県いわき市へ移転した
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [40]常磐炭礦は1944年3月の設立時点で本店を東京都中央区銀座に置いている(有報【沿革】)。1953年(昭和28年)11月は既存の銀座本社を近代的ビルへ建て替えて移転した年であり、銀座に本社を構え始めた年ではない
  • 有価証券報告書
    • [36]1975年常磐紙業、1982年常磐コンクリート工業、1989年常磐興産倉庫、1992年バキューム・コンクリートを合併し、1978年いわき紙器、1990年常磐プラスチック工業、1991年ホテルクレスト札幌、1996年ジェイ・アイ・ピーを設立した
    • [37]2002年8月にPC事業部門を常磐興産ピーシーへ、同年10月に包装事業部門を新設分割して常磐パッケージを設立、2006年2月に開発事業部門をJKリアルエステートへ吸収分割し、2008年10月に常磐パッケージ株式を譲渡して子会社3社も連結から外れた
    • [39]1986年11月に本店を東京都中央区東日本橋へ移し、2003年8月に福島県いわき市へ移転した
  • 週刊東洋経済 2007年10月20日号「会社四季報最新情報」
    • [38]建設・土木部門の子会社は前期に10億円近い営業赤字を出しており、2007年に解散が決まった
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [40]常磐炭礦は1944年3月の設立時点で本店を東京都中央区銀座に置いている(有報【沿革】)。1953年(昭和28年)11月は既存の銀座本社を近代的ビルへ建て替えて移転した年であり、銀座に本社を構え始めた年ではない

2011年〜 二度の震災と感染症を越え、上場企業としての幕を自ら引くまで

  1. 2011年東日本大震災によりスパリゾートハワイアンズが休業。ダンシングチームによる全国きずなキャラバンを実施
  2. 2011年施設の一部営業を再開
  3. 2012年スパリゾートハワイアンズがグランドオープン。新ホテル「モノリスタワー」を開業
  4. 2013年震災後の資本増強で発行した優先株式の消却を進める
  5. 2021年グランピング施設「マウナヴィレッジ」がグランドオープン
  6. 2024年Ontario合同会社による公開買付け(TOB)が発表され、米フォートレス・インベストメント・グループ傘下での非公開化方針が示される
  7. 2025年東京証券取引所スタンダード市場において上場廃止となる

常磐興産の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

震災で失った1年と、取り戻した3年

2011年3月11日の東日本大震災で、スパリゾートハワイアンズは休業した。週刊東洋経済は同年4月の時点で「3月12日以降、パークやホテルを休館している。今も再開のメドは立たない」と伝えている。被害を広げたのは1か月後に襲った震度6弱の直下型地震で、5月時点の同誌は、修繕後の再開が10月中の見通しであると記した。原発事故による風評も重なる。施設は福島第一原発から50キロメートル離れていたが、いわき市の一部が30キロメートル圏にかかっていた。地元客に支えられてきた立地が、このときは弱点として働いている。 [41][42]

  • 週刊東洋経済 2011年4月12日号「苦闘する日本経済 出口見えぬレジャー界」
    • [41]2011年3月11日の東日本大震災でスパリゾートハワイアンズは休業し、3月12日以降パークとホテルを休館した
  • 週刊東洋経済 2011年5月24日号「特集 東北復興 地場産業は回復するか?」
    • [42]東日本大震災の1か月後の震度6弱の直下型地震で施設被害が拡大し、修繕後の再開は10月中の見通しとされた。施設は福島第一原発から50キロメートル離れていたが、いわき市の一部が30キロメートル圏にかかっていた

休業中、同社はダンシングチームによる全国きずなキャラバンを回した。2011年10月に施設の一部営業を再開し、2012年2月、新ホテル「モノリスタワー」の開業に合わせてグランドオープンにこぎつけている。連結売上高は2011年3月期332億円から2012年3月期296億円へ落ち込んだのち、2013年3月期468億円、2014年3月期544億円へ戻した。週刊東洋経済は2013年11月、2013年4〜9月期の営業利益が震災前の水準をクリアしたと伝え、宿泊客数が上半期で過去最高を記録したことを併せて報じている。同年には震災後の資本増強で発行した優先株式の消却も進んだ。 [43][44]

  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [43]2011年10月に施設の一部営業を再開し、2012年2月に新ホテル「モノリスタワー」開業とあわせてグランドオープンした
  • 週刊東洋経済 2013年11月22日号「ニュース最前線」
    • [44]2013年4〜9月期の営業利益は震災前水準をクリアし、宿泊客数は上半期で過去最高を記録、優先株式の消却も進んだ
  • 週刊東洋経済 2011年4月12日号「苦闘する日本経済 出口見えぬレジャー界」
    • [41]2011年3月11日の東日本大震災でスパリゾートハワイアンズは休業し、3月12日以降パークとホテルを休館した
  • 週刊東洋経済 2011年5月24日号「特集 東北復興 地場産業は回復するか?」
    • [42]東日本大震災の1か月後の震度6弱の直下型地震で施設被害が拡大し、修繕後の再開は10月中の見通しとされた。施設は福島第一原発から50キロメートル離れていたが、いわき市の一部が30キロメートル圏にかかっていた
  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [43]2011年10月に施設の一部営業を再開し、2012年2月に新ホテル「モノリスタワー」開業とあわせてグランドオープンした
  • 週刊東洋経済 2013年11月22日号「ニュース最前線」
    • [44]2013年4〜9月期の営業利益は震災前水準をクリアし、宿泊客数は上半期で過去最高を記録、優先株式の消却も進んだ

復興需要が引いたあとに残った、老いた装置産業

復興による嵩上げは長くは続かなかった。連結売上高は2015年3月期の494億円を境に趨勢として下がり、2016年3月期357億円、2018年3月期290億円、2020年3月期259億円と推移する。2011年から2014年にかけての増加が復興需要を含んだものであった以上、それが一巡すれば水準が下がるのは避けられない。ただし戻った先は、震災前の水準にも届かなかった。2007年3月期の473億円と比べると、2020年3月期は約55%の水準にとどまった。施設は1966年の開業から50年を越え、更新の時期を迎えている。有価証券報告書は基本方針として「観光事業への経営資源の集中」を掲げ、計画的な施設増強と改修を課題に挙げた。 [45]

  • 有価証券報告書
    • [45]観光事業への経営資源の集中を基本方針に掲げ、計画的な施設増強と改修、有利子負債の計画的な圧縮を課題としていた

そこへ感染症が重なった。連結売上高は2021年3月期150億円、2022年3月期110億円と落ち、2022年3月期は震災前のピークである2009年3月期の2割にまで縮んでいる。そこからの戻りは速かった。有価証券報告書は感染症による赤字から脱却して黒字化を果たした2022年度を転換期と位置づけ、「経営計画2023」を策定したと記す。最終年度となった2024年3月期は売上高148億円・営業利益13億円と計画を上回り、翌期の予想も増収を見込んでいた。市場から降りる直前の常磐興産の業績は、上向いていた。 [46]

  • 有価証券報告書
    • [46]感染症による赤字から黒字化した2022年度を転換期として「経営計画2023」を策定し、2024年3月期は売上高14,881百万円・営業利益1,323百万円と計画目標(14,500/870)を上回った。2025年3月期の業績予想は売上高15,600百万円
  • 有価証券報告書
    • [45]観光事業への経営資源の集中を基本方針に掲げ、計画的な施設増強と改修、有利子負債の計画的な圧縮を課題としていた
    • [46]感染症による赤字から黒字化した2022年度を転換期として「経営計画2023」を策定し、2024年3月期は売上高14,881百万円・営業利益1,323百万円と計画目標(14,500/870)を上回った。2025年3月期の業績予想は売上高15,600百万円

2025年、市場から降りるという選択

2024年9月、Ontario合同会社による公開買付けが発表された。米フォートレス・インベストメント・グループの傘下で非公開化する方針で、買付けは同年11月に第1回が成立し、12月の第2回とあわせて約88%の株式が取得された。2025年2月19日、常磐興産の株式は東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止となった。1949年5月の上場から75年余りが経っている。同社は上場廃止を告知するページで、掲載しているIR資料が上場廃止までの公開情報であると断っている。証券コード9675は、この日をもって使われなくなった。会社そのものは存続し、スパリゾートハワイアンズの営業も続いている。市場から消えたのは株式であって、事業ではない。 [47][48][49][50]

非公開化は、経営に行き詰まった末の身売りではない。最終年度の業績は計画を上回っており、翌期も増収を見込んでいた。この会社が上場を続ける意味は、資本市場から設備資金を調達できることにある。だが売上高が震災前の6割に届かないまま施設が更新期に入った企業にとって、投資の回収にかかる年数は、四半期ごとに説明を求められる市場が待てる長さを超える。設備投資は2020年3月期の7億円から2024年3月期には1億円へ縮み、減価償却費の8分の1にとどまっていた。買付者に示された事業計画では、更新投資を実行すると2027年3月期と2029年3月期のフリーキャッシュフローがマイナスに落ちる見通しだった。老朽化した装置を数年がかりで入れ替えるなら、資金の出し手を一つに絞るほうが速い。坑から出たもので次を作ってきた会社が、施設を作り直す段では、坑の外から資金を入れる側に回った。 [51][52]

2024年6月に社長へ就いた関根一志氏と同じ名が、2002年の週刊東洋経済に出てくる。当時の肩書はスパリゾートハワイアンズ企画部のマネージャーで、同一の人物であろう。関根氏は記事のなかで「シャッターを開けると、同じお客さんが毎日、オープンを待っていることも頻繁にある」と地元客との距離を語り、これだけ足を運ぶ人がいるならファンを大事にするのが得策だと述べている。会社の名は炭礦から興産へ、施設の名はハワイアンセンターからハワイアンズへ変わり、株式の持ち主は市場からファンドへ移った。そのあいだ変わらなかったのは、坑内から湧き続ける温泉と、それを目当てに通う近隣の客である。 [53][54]

  • 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
    • [53]2024年6月に取締役社長へ就任した関根一志氏は、2002年時点でスパリゾートハワイアンズ企画部マネージャーとして取材に応じ、毎日開店を待つ常連客の存在とファンを重視する営業方針を述べていた
    • [54]関根一志氏は常務取締役から昇格して2024年6月27日の株主総会・取締役会をもって代表取締役社長に就任し、前社長の西沢順一氏は代表権のある会長に就いた。2024年6月27日提出の第106期有価証券報告書の【表紙】も代表者を「代表取締役社長 関根 一志」と記載しており、2002年の同名・同社・同施設所属の企画部マネージャーと同一人物とみて整合する

常磐興産の沿革1884〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
磐城炭礦社設立。常磐炭田における近代的採炭事業の母体となる★★★
磐城炭礦株式会社に改称
入山採炭株式会社創立★★
磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社の両社が合併し、常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立。資本金3,150万円★★★
神の山炭礦株式会社及び中郷無煙炭礦株式会社を合併★★
東京証券取引所に上場(有価証券報告書は「市場第一部に上場」と記すが、一部・二部の区分は1961年開始のため遡及表記にあたる)
双葉貨物自動車株式会社を設立(現 常磐港運株式会社 連結子会社)
小名浜港石炭荷役株式会社を設立(現 常磐港運株式会社 連結子会社)
株式会社常磐製作所を設立(現 連結子会社)
常磐湯本温泉観光株式会社を設立。坑内湧出温泉を利用する観光事業の母体となる★★
常磐ハワイアンセンター(現 スパリゾートハワイアンズ)開業★★★
東京証券取引所市場第一部に上場
常磐湯本温泉観光株式会社を合併するとともに石炭生産部門を1970年5月設立の新常磐炭礦株式会社(1970年7月常磐炭礦株式会社と商号変更)に営業譲渡し、商号を常磐興産株式会社と改め再発足★★★
株式会社東北造園設計事務所を設立(現 株式会社クレストコーポレーション)
常磐紙業株式会社を合併
いわき紙器株式会社を設立
常磐コンクリート工業株式会社を合併
常磐炭礦株式会社が茨城地区で終掘★★
常磐炭礦株式会社を合併し、石炭生産事業に区切りをつける★★★
本店を東京都中央区東日本橋に移転し、コンベンションホール「ラピータ」をオープン
常磐興産倉庫株式会社を合併
「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」へ名称変更し、屋外施設「スプリングパーク」を開業★★★
常磐プラスチック工業株式会社を設立
株式会社クレストビルを設立(2005年11月 株式会社JKリアルエステートに商号変更)
株式会社ホテルクレスト札幌を設立★★
バキューム・コンクリート株式会社を合併
株式会社ジェイ・アイ・ピーを設立
露天風呂「江戸情話 与市」を開業★★
滞在型施設「ウイルポート」を開業★★
斎藤一彦屋外施設「スパガーデン パレオ」を開業
斎藤一彦常磐興産ピーシー株式会社を設立
斎藤一彦PC事業部門を常磐興産ピーシー株式会社に吸収分割し、非中核事業の切り出しに着手★★★
斎藤一彦包装事業部門を新設分割することにより、常磐パッケージ株式会社を設立★★
斎藤一彦ときわ流通株式会社と小名浜港セメント荷役株式会社が合併することにより、常磐港運株式会社を設立(現 連結子会社)
斎藤一彦本店所在地を福島県いわき市に移転★★
斎藤一彦株式会社常磐製作所が、常磐製鋼原料株式会社を吸収合併
斎藤一彦株式会社ジェイ・ケイ・レストランサービス、株式会社ジェイ・ケイ・スタッフ、株式会社クレストヒルズの業務内容を直営化し、上記3社を連結対象から除外
斎藤一彦株式会社山海館を合併
斎藤一彦開発事業部門を株式会社JKリアルエステートに吸収分割★★
斎藤一彦株式会社クレストコーポレーションの全営業内容を、株式会社JKリアルエステートへ承継
斎藤一彦株式会社クレストコーポレーションを連結対象から除外
斎藤一彦常磐興産ピーシー株式会社の一部事業譲渡等を決定
斎藤一彦常磐パッケージ株式会社の全株式を譲渡し、これに伴い同社子会社3社(いわき紙器株式会社、株式会社ジェイ・アイ・ピー、常磐プラスチック工業株式会社)とも異動し、連結対象から除外★★★
斎藤一彦株式会社JKリアルエステートを吸収合併★★
斎藤一彦東日本大震災によりスパリゾートハワイアンズが休業。ダンシングチームによる全国きずなキャラバンを実施★★★
斎藤一彦施設の一部営業を再開★★
井上直美スパリゾートハワイアンズがグランドオープン。新ホテル「モノリスタワー」を開業★★★
井上直美株式会社ホテルクレスト札幌を連結対象から除外
井上直美震災後の資本増強で発行した優先株式の消却を進める★★
井上直美株式会社常磐興産ピーシーの清算が結了
井上直美ボディスライダー「BIG☆ALOHA」を開業
西澤順一株式会社北茨城ファームを設立(現 連結子会社)
西澤順一グランピング施設「マウナヴィレッジ」がグランドオープン★★
西澤順一東京証券取引所の市場区分見直しにより、東京証券取引所の市場第一部からスタンダード市場に移行
株式会社クレストコーポレーションの清算が結了
Ontario合同会社による公開買付け(TOB)が発表され、米フォートレス・インベストメント・グループ傘下での非公開化方針が示される★★★
東京証券取引所スタンダード市場において上場廃止となる★★★
出典・参考

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