日本国有鉄道:事業純損失への転落と5万人合理化計画
1964年〜純損失転落と、自動車に逆転された貨物シェア
1957年度以降かろうじて黒字を保っていた国鉄の決算は、1964年度に300億円の純損失へ転じた。営業損益も前年度の543億円の黒字から323億円の赤字に転落した。東海道新幹線が開業したのは1964年10月1日で、赤字転落と同じ年度にあたる。ただし新幹線自体は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度には1174億円の利益を出した。赤字は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円と続き、1967年度末には1477億円の欠損を翌年度へ繰り越した。4年連続の赤字によって、1963年度に1595億円あった繰越利益金は消えた。独立採算制のもとでの経営は、1966年度の時点ですでに限界に達していた。1968年度の繰越欠損金は2821億円へ膨らみ、1969年度には償却前赤字を生じた。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [1]1957年度以降かろうじて黒字だった国鉄財政は1964年度に300億円の純損失を計上
- [3]東海道新幹線は1964年10月1日に開業し、赤字転落と同じ年度にあたる
- [4]東海道新幹線の収支は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度は1174億円の利益
- [6]1967年度末に1477億円の欠損を翌年度へ繰越
- [7]1964年度以降4年連続の赤字で1963年度現在1595億円あった繰越利益金を食いつぶした
- [8]1966年度『日本国有鉄道監査報告書』が独立採算制のもとの経営は限界に立ち至ったと記述
- [9]1968年度の繰越欠損金2821億円、1969年度に償却前赤字が発生
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
- [2]営業損益は1963年度543億円の黒字から1964年度323億円の赤字へ転落
- [5]純損失は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円
1955年度から1965年度に国内の総貨物輸送量は1046億トンキロ増えたが、鉄道が取ったのはその13.5%にあたる141億トンキロにすぎず、内航海運が49.3%、自動車が37.2%を占めた。国鉄のトンキロシェアは1955年度の52.0%から1967年度の28.1%へ落ち、自動車は11.1%から33.2%へ上がった。1966年度には国鉄の559億トンキロに対し自動車が649億トンキロを運び、順位が入れ替わった。旅客のシェアも1967年度は41.7%で、1955年度から13.3%分を自動車輸送に譲った。自動車の進出を支えたのは国鉄投資を上回る道路整備で、設備投資額を1965年度の100で比べると1973年度は国鉄271に対し道路391、港湾422となる。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [10]1955-1965年度の国内総貨物輸送量の増加1046億トンキロのうち鉄道は13.5%の141億トンキロ
- [11]同期間の増加量は内航海運49.3%、自動車37.2%
- [12]貨物トンキロのシェアは国鉄52.0%(1955年度)から28.1%(1967年度)へ、自動車は11.1%から33.2%へ
- [13]1966年度に国鉄559億トンキロ、自動車649億トンキロでトンキロのシェアが逆転
- [14]1967年度の旅客輸送シェアは国鉄41.7%、1955年度比13.3%減で自動車輸送が補った
- 日経ビジネス 1974年9月16日号
- [15]1965年度=100とした投資額は1973年度で国鉄271、道路391、港湾422
外部資金調達額は1955年度の243億円から1967年度3634億円へ増え、長期債務残高は1967年度に1兆6000億円へ達した。利子および債務取扱諸費は1960年度の240億円から1965年度に1012億円へ4.2倍となった。人件費も1960年度の1863億円から1967年度3849億円へ倍増した。1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施しても、8239億円と見込んだ運輸収入は7684億円にとどまった。1967年度の監査報告書は、収支が均衡しない企業内外の要因として現行運賃制度、各種の公共負担、ローカル赤字線の経営など8項目を挙げた。公共企業体の発足から1967年度までの運賃上の公共負担は9002億円にのぼり、営業キロでA線区に並ぶB・C線区は旅客の10%しか運ばないままA線区の利益の約3倍の損失を計上していたが、地元の執着から廃止は進まなかった。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [16]外部資金調達額は1955年度243億円から1967年度3634億円へ増加
- [17]長期債務残高は1967年度に1兆6000億円
- [18]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍
- [19]損益勘定の人件費は1960年度1863億円から1967年度3849億円へ倍増
- [20]1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施したが運輸収入は予定8239億円に対し7684億円
- [21]1967年度監査報告書が収支不均衡の企業内外要因8項目に現行運賃制度・各種の公共負担・ローカル赤字線の経営を列挙
- [22]公共企業体発足から1967年度までの運賃上の公共負担は旅客7424億円・貨物1578億円の計9514億円
- [23]B・C線区は営業キロでA線区に匹敵しながら旅客の10%しか運ばず、A線区の利益の約3倍の損失を計上。便益的性格と地元の執着で廃止は至難だった
参考文献[1]-[23]
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [1]1957年度以降かろうじて黒字だった国鉄財政は1964年度に300億円の純損失を計上
- [3]東海道新幹線は1964年10月1日に開業し、赤字転落と同じ年度にあたる
- [4]東海道新幹線の収支は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度は1174億円の利益
- [6]1967年度末に1477億円の欠損を翌年度へ繰越
- [7]1964年度以降4年連続の赤字で1963年度現在1595億円あった繰越利益金を食いつぶした
- [8]1966年度『日本国有鉄道監査報告書』が独立採算制のもとの経営は限界に立ち至ったと記述
- [9]1968年度の繰越欠損金2821億円、1969年度に償却前赤字が発生
- [10]1955-1965年度の国内総貨物輸送量の増加1046億トンキロのうち鉄道は13.5%の141億トンキロ
- [11]同期間の増加量は内航海運49.3%、自動車37.2%
- [12]貨物トンキロのシェアは国鉄52.0%(1955年度)から28.1%(1967年度)へ、自動車は11.1%から33.2%へ
- [13]1966年度に国鉄559億トンキロ、自動車649億トンキロでトンキロのシェアが逆転
- [14]1967年度の旅客輸送シェアは国鉄41.7%、1955年度比13.3%減で自動車輸送が補った
- [16]外部資金調達額は1955年度243億円から1967年度3634億円へ増加
- [17]長期債務残高は1967年度に1兆6000億円
- [18]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍
- [19]損益勘定の人件費は1960年度1863億円から1967年度3849億円へ倍増
- [20]1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施したが運輸収入は予定8239億円に対し7684億円
- [21]1967年度監査報告書が収支不均衡の企業内外要因8項目に現行運賃制度・各種の公共負担・ローカル赤字線の経営を列挙
- [22]公共企業体発足から1967年度までの運賃上の公共負担は旅客7424億円・貨物1578億円の計9514億円
- [23]B・C線区は営業キロでA線区に匹敵しながら旅客の10%しか運ばず、A線区の利益の約3倍の損失を計上。便益的性格と地元の執着で廃止は至難だった
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
- [2]営業損益は1963年度543億円の黒字から1964年度323億円の赤字へ転落
- [5]純損失は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円
- 日経ビジネス 1974年9月16日号
- [15]1965年度=100とした投資額は1973年度で国鉄271、道路391、港湾422
1967年〜機関助士廃止をめぐる66回の交渉と、公労委が認めた不当労働行為
1955年度から1967年度にかけて、職員1人当りの輸送人キロは20万5000人キロから40万1000人キロへ96%伸びたが、職員総数は44万6000人から45万8000人へ増えた。1967年3月31日、国鉄当局は機械化・近代化の計画を各労働組合へ示した。5万人合理化計画と呼ばれたこの案の焦点は、電気機関車とディーゼル機関車を機関士1人で運転させることにあった。対象の機関助士は約7500人で、当局は原則として機関士・運転士へ昇格させるとし、解雇ではなく配置転換だと説明した。組合側はスピードアップと過密ダイヤで乗務員の疲労が増しており、事故を防いでいるのは2人乗務だと反論した。交渉は国労22回、動労25回、新国労19回の合計66回に及び、当局は1968年4月の実施を延期し、6月も見送った。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [24]職員1人当り輸送人キロは1955年度20万5000人キロから1967年度40万1000人キロへ96%増
- [25]職員総数は1955年度44万6000人から1967年度45万8000人へ5%増
- [26]1967年3月31日に当局が当面の機械化・近代化計画を各労働組合へ提示
- [27]5万人合理化計画の最大の焦点はEL・DLの1人乗務問題
- [28]合理化の対象となる機関助士は約7500人、当局説明では原則として機関士・運転士へ昇格させる配転問題
- [29]組合側はスピードアップ・長距離走行・過密ダイヤによる疲労増を挙げ、2人乗務が事故を防いでいると主張
- [30]1967年3月の提案以来の交渉は国労22回・動労25回・新国労19回の計66回。当局は1968年4月実施を延期し6月実施も見送った
1968年には国労が第1次から第4次まで、動労が第1次から第7次まで闘争を組み、9月12日と20日の2波ではATSの警報が出るたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を採った。当局が1968年10月18日に設けた調査委員会は大島正光東京大学教授を委員長とし、1969年4月9日の報告書で、諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論づけた。当局が5月12日に1人乗務の全体計画を示すと、動労は組織の命運をかけて絶対反対の態度をとり、27日からサボタージュに入り、30日には全国53か所で約12時間の違法ストを打った。決着は1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉でついた。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [31]1968年に国労が第1次から第4次、動労が第1次から第7次まで闘争を展開
- [32]1968年9月12日・20日の2波でATSの警報表示のたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採用
- [33]1968年10月18日にEL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会を設置、委員長は大島正光東大教授
- [34]1969年4月9日提出の調査報告書は諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論
- [35]1969年5月12日に当局が1人乗務実施の全体計画を提示、動労は絶対反対で5月27日からサボタージュ
- [36]1969年5月30日に全国53か所で約12時間の違法スト
- [37]1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉で合意
1969年5月に就任した磯崎叡総裁は、日本生産性本部への委託と中央鉄道学園での教育によって生産性向上運動を始め、1970年4月から全国で実施した。当局発表では1970年度に延べ約30万人が受講し、当時の職員総数の65%にあたる。国労と動労から脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ増えた。国労は1971年8月の函館大会までの約1年で組合員が約2万5000人減ったと記録した。現場では職制が脱退を求め、水戸の現場長会議では能力開発課長から証拠を残すなという指示が出た。1971年10月8日、公労委は静岡地本関係の5件について不当労働行為を認めて救済命令を出し、当局は11日に受諾、磯崎叡総裁は同日国会で陳謝した。当局は23日に陳謝文を組合へ持参して訓告2件・厳重注意16件の処分と真鍋職員局長の更迭を発表し、29日に生産性教育を延期した。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [38]磯崎叡氏は1969年5月に第6代総裁へ就任
- [39]日本生産性本部への一部委託と中央鉄道学園での生産性教育により1970年4月ごろから全国で実施
- [44]1971年10月8日に公労委が静岡地本関係5件の不当労働行為を全面的に認め救済命令、当局は11日受諾
- 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
- [40]当局発表の1970年度実績は年間のべ約30万人、当時の職員総数の65%
- [42]1971年8月の函館大会までの約1年間に国労の組合員は約2万5000人減少
- [43]1971年10月8日の水戸の現場長会議で能力開発課長が証拠を残すなと発言
- [45]1971年10月11日、磯崎叡総裁が国会で不当労働行為を陳謝
- [46]1971年10月23日に陳謝文を持参し訓告2・厳重注意16の処分と真鍋職員局長の更迭を発表、10月29日に生産性教育を延期して運動は中断
- 日経ビジネス 1976年4月12日号
- [41]国労・動労からの脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ膨張
参考文献[24]-[46]
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [24]職員1人当り輸送人キロは1955年度20万5000人キロから1967年度40万1000人キロへ96%増
- [25]職員総数は1955年度44万6000人から1967年度45万8000人へ5%増
- [26]1967年3月31日に当局が当面の機械化・近代化計画を各労働組合へ提示
- [27]5万人合理化計画の最大の焦点はEL・DLの1人乗務問題
- [28]合理化の対象となる機関助士は約7500人、当局説明では原則として機関士・運転士へ昇格させる配転問題
- [29]組合側はスピードアップ・長距離走行・過密ダイヤによる疲労増を挙げ、2人乗務が事故を防いでいると主張
- [30]1967年3月の提案以来の交渉は国労22回・動労25回・新国労19回の計66回。当局は1968年4月実施を延期し6月実施も見送った
- [31]1968年に国労が第1次から第4次、動労が第1次から第7次まで闘争を展開
- [32]1968年9月12日・20日の2波でATSの警報表示のたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採用
- [33]1968年10月18日にEL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会を設置、委員長は大島正光東大教授
- [34]1969年4月9日提出の調査報告書は諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論
- [35]1969年5月12日に当局が1人乗務実施の全体計画を提示、動労は絶対反対で5月27日からサボタージュ
- [36]1969年5月30日に全国53か所で約12時間の違法スト
- [37]1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉で合意
- [38]磯崎叡氏は1969年5月に第6代総裁へ就任
- [39]日本生産性本部への一部委託と中央鉄道学園での生産性教育により1970年4月ごろから全国で実施
- [44]1971年10月8日に公労委が静岡地本関係5件の不当労働行為を全面的に認め救済命令、当局は11日受諾
- 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
- [40]当局発表の1970年度実績は年間のべ約30万人、当時の職員総数の65%
- [42]1971年8月の函館大会までの約1年間に国労の組合員は約2万5000人減少
- [43]1971年10月8日の水戸の現場長会議で能力開発課長が証拠を残すなと発言
- [45]1971年10月11日、磯崎叡総裁が国会で不当労働行為を陳謝
- [46]1971年10月23日に陳謝文を持参し訓告2・厳重注意16の処分と真鍋職員局長の更迭を発表、10月29日に生産性教育を延期して運動は中断
- 日経ビジネス 1976年4月12日号
- [41]国労・動労からの脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ膨張
1968年〜上尾事件とスト権スト、そして挫折した第1次財政再建計画
1968年11月の国鉄財政再建推進会議の意見書を受け、政府は日本国有鉄道財政再建促進特別措置法案を1969年2月に国会へ提出し、5月9日に成立させた。法は1978年度までに損益計算で利益が出る状態へ戻すことを目標とし、再建期間を1969年度から10年間と定めた。9月12日の閣議決定は再建期間中の設備投資を3兆7000億円とし、1970年2月19日に承認された計画は駅の約4割で業務の委託や集約を行い、約6万人の要員を減らすとした。給与ベースの上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%となり、1971年度末には864億円を超える償却前赤字が避けられないと見込まれた。計画は2年目で挫折した。その一方で1970年5月13日に全国新幹線鉄道整備法が成立し、1971年4月1日には東北・上越・成田の3線の整備計画が決まった。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [47]1968年11月1日の国鉄財政再建推進会議意見書を受け1969年2月7日に法案提出、5月9日可決
- [48]法第2条は1978年度までに損益計算で利益が生ずるよう財政の健全性を回復するとし、再建期間を1969年度以降10年間と規定
- [49]1969年9月12日の閣議決定で再建期間中の設備投資を3兆7000億円と設定
- [50]1970年2月19日に運輸大臣が承認した再建計画は駅の約4割の業務委託・集約と退職者の一部不補充で約6万人の要員縮減を掲げた
- [51]給与ベース上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%の実績
- [52]1971年度末に864億円を超える償却前赤字の発生が不可避と予想され、再建計画は2年目で挫折した
- [53]全国新幹線鉄道整備法は1970年5月13日に可決成立、1971年4月1日に東北・上越・成田の整備計画を決定
生産性向上運動の中断後、国労と動労はスト権奪還とマル生反対を掲げ、1972年から1973年にかけて順法闘争を繰り返した。スト権を持たない組合にとって、旅客が安全に乗り終えるまで発車合図を出さない順法闘争はストに代わる手段だった。動労が1973年3月5日から10日にかけて行った第1波では、国鉄首都圏本部の集計で2274本が運休し、624万人が影響を受け、60人余の負傷者が出た。3月13日の朝、上尾駅では遅延に激昂した乗客が騒ぎを起こし、高崎線と東北本線が止まった。4月24日の順法闘争でも赤羽・上野・新宿の各駅で乗客が窓ガラスや券売機を壊し、26日から動労が72時間、27日から国労が加わるストへ入った。当局はこの年、1人平均8097円という異例の有額回答を出した。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [54]マル生中断後、総評・国労・動労はスト権奪還・マル生反対を掲げ1972年から1973年にかけて激しい順法闘争を繰り返した
- [55]順法闘争は旅客が安全に乗車したことを確かめて発車合図を出す戦術で、スト権を持たない組合がストに代わる手段として頻繁に採用した
- [56]1973年3月5〜10日の動労第1波順法闘争で2274本が運休、624万人が影響、60人余が負傷(国鉄首都圏本部発表)
- [57]1973年3月13日7時すぎ、上尾駅で遅延に激昂した乗客が騒動を起こし高崎線・東北本線が全線ストップ
- [58]1973年4月24日の順法闘争で赤羽・上野・新宿駅などの群衆が窓ガラス・券売機を破壊、26日0時から動労が72時間スト、27日に国労が加わった
- [59]1973年の春闘で当局は1人平均8097円引き上げの異例の有額回答を行った
1975年11月26日から12月3日まで、公労協は8日間192時間にわたるスト権奪還ストを行った。国鉄では旅客列車14万2502本と貨物列車4万1317本が運休し、影響人員は1億5090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円に達した。12月1日には墨田区で中小企業主ら約300人が、2日には東京・東日本橋で14団体約1000人が中止を求める集会を開き、宇和島・八幡浜両市ではミカン農家がむしろ旗を立てた。政府は12月1日、料金法定制度の改正を含む当事者能力の強化を検討するとした基本方針を閣議決定した。藤井松太郎総裁は12月2日に記者会見でスト中止を訴えた。公労協は12月3日正午、国民にこれ以上の負担はかけられないとして闘争の中断を決めた。1973年度末には累積赤字が1兆5955億円となって自己資本を上回り、1974年度の純損失は6508億円、売上高人件費比率は71.2%へ達していた。
- 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
- [60]スト権奪還ストは1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間
- [61]運休は旅客列車142,502本・貨物列車41,317本、影響人員15,090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円
- [62]12月1日午後に墨田区で中小企業主・商店主など約300人、12月2日午前に東京・東日本橋で14団体約1,000人が抗議集会。宇和島・八幡浜市ではミカン農家がむしろ旗を立てた
- [63]政府は1975年12月1日に3公社5現業等の労働基本権問題に関する基本方針を閣議決定し、料金法定制度等の改正を含む当事者能力の強化の方途を検討するとした
- [64]1975年12月2日午後6時30分、藤井松太郎国鉄総裁が緊急記者会見でスト中止を訴えた
- [65]公労協は12月3日正午の第5回緊急拡大共闘委員会で、国民にこれ以上の負担はかけられないとして中断を決定
- 日経ビジネス 1974年9月16日号
- [66]1973年度末の累積赤字1兆5955億円は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を上回った
- 日経ビジネス 1976年2月16日号
- [67]1974年度決算は純損益△6508億円、売上高人件費比率71.2%
参考文献[47]-[67]
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- [47]1968年11月1日の国鉄財政再建推進会議意見書を受け1969年2月7日に法案提出、5月9日可決
- [48]法第2条は1978年度までに損益計算で利益が生ずるよう財政の健全性を回復するとし、再建期間を1969年度以降10年間と規定
- [49]1969年9月12日の閣議決定で再建期間中の設備投資を3兆7000億円と設定
- [50]1970年2月19日に運輸大臣が承認した再建計画は駅の約4割の業務委託・集約と退職者の一部不補充で約6万人の要員縮減を掲げた
- [51]給与ベース上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%の実績
- [52]1971年度末に864億円を超える償却前赤字の発生が不可避と予想され、再建計画は2年目で挫折した
- [53]全国新幹線鉄道整備法は1970年5月13日に可決成立、1971年4月1日に東北・上越・成田の整備計画を決定
- [54]マル生中断後、総評・国労・動労はスト権奪還・マル生反対を掲げ1972年から1973年にかけて激しい順法闘争を繰り返した
- [55]順法闘争は旅客が安全に乗車したことを確かめて発車合図を出す戦術で、スト権を持たない組合がストに代わる手段として頻繁に採用した
- [56]1973年3月5〜10日の動労第1波順法闘争で2274本が運休、624万人が影響、60人余が負傷(国鉄首都圏本部発表)
- [57]1973年3月13日7時すぎ、上尾駅で遅延に激昂した乗客が騒動を起こし高崎線・東北本線が全線ストップ
- [58]1973年4月24日の順法闘争で赤羽・上野・新宿駅などの群衆が窓ガラス・券売機を破壊、26日0時から動労が72時間スト、27日に国労が加わった
- [59]1973年の春闘で当局は1人平均8097円引き上げの異例の有額回答を行った
- 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
- [60]スト権奪還ストは1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間
- [61]運休は旅客列車142,502本・貨物列車41,317本、影響人員15,090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円
- [62]12月1日午後に墨田区で中小企業主・商店主など約300人、12月2日午前に東京・東日本橋で14団体約1,000人が抗議集会。宇和島・八幡浜市ではミカン農家がむしろ旗を立てた
- [63]政府は1975年12月1日に3公社5現業等の労働基本権問題に関する基本方針を閣議決定し、料金法定制度等の改正を含む当事者能力の強化の方途を検討するとした
- [64]1975年12月2日午後6時30分、藤井松太郎国鉄総裁が緊急記者会見でスト中止を訴えた
- [65]公労協は12月3日正午の第5回緊急拡大共闘委員会で、国民にこれ以上の負担はかけられないとして中断を決定
- 日経ビジネス 1974年9月16日号
- [66]1973年度末の累積赤字1兆5955億円は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を上回った
- 日経ビジネス 1976年2月16日号
- [67]1974年度決算は純損益△6508億円、売上高人件費比率71.2%
1965年〜1975年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1965年03月期 | 単体 | 6,341 | n/a | ▲1,230 | ▲19.4% | ▲1,230 | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 7,939 | +25.2% | ▲608 | ▲7.7% | ▲601 | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 8,561 | +7.8% | ▲947 | ▲11.1% | ▲941 | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 9,165 | +7.1% | ▲1,361 | ▲14.8% | ▲1,344 | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 10,440 | +13.9% | ▲1,323 | ▲12.7% | ▲1,316 | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 11,457 | +9.7% | ▲1,549 | ▲13.5% | ▲1,517 | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 11,782 | +2.8% | ▲2,425 | ▲20.6% | ▲2,342 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 12,443 | +5.6% | ▲3,501 | ▲28.1% | ▲3,415 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 13,791 | +10.8% | ▲4,616 | ▲33.5% | ▲4,544 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 15,714 | +13.9% | ▲6,615 | ▲42.1% | ▲6,508 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 18,209 | +15.9% | ▲9,235 | ▲50.7% | ▲9,147 | n/a |
出所:日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
出典・参考
7件
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- 日経ビジネス 1974年9月16日号
- 日経ビジネス 1976年4月12日号
- 日経ビジネス 1976年2月16日号
- 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
- 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度