日本国有鉄道:長期債務10兆円突破と分割民営化によるJR7社の発足
1976年〜5兆3千億円の債務棚上げでも止まらなかった赤字の膨張
国鉄は1976年3月、一般勘定と区分して特別勘定を新設し、赤字の一部を本体の損益から切り離した。1979年12月には"日本国有鉄道の再建について"が閣議了解となり、1980年12月に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立した。1976年度と1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務が棚上げされ、そのうえで"後のない計画"と呼ばれた経営改善計画が実施された。長期債務残高は1980年3月に10兆円を超えた。1969年度以来、政府と国鉄は何度も経営再建対策を立案してきたが、そのいずれもが中途で挫折した。
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
- [1]1976年3月に一般勘定と区分して特別勘定を新設
- [3]1980年12月 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [2]1979年12月「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解
- [4]1976年度・1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務を棚上げ
- [5]長期債務残高が1980年3月に10兆円を突破
- [6]1969年度以来、政府と国鉄が経営再建対策を繰り返し立案し、いずれも中途で挫折
赤字は棚上げ後も膨らんだ。1975年度に9147億円だった純損失は、1979年度に8218億円まで縮んだあと反転し、1980年度に1兆84億円、1983年度に1兆6604億円へ達した。1984年度の純損失1兆6504億円は、特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除いた一般損失相当額でみると5768億円になる。東北・上越新幹線の資本費負担を損益へ計上し始めたのは1982年11月である。営業収入は1975年度の1兆8209億円から1984年度の3兆3898億円へ伸びたが、営業損益の赤字は9235億円から1兆8193億円へ広がった。
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
- [7]1975年度の純損失9147億円
- [8]1979年度の純損失8218億円、1980年度の純損失1兆84億円
- [9]1983年度の純損失1兆6604億円
- [10]1984年度の純損失1兆6504億円
- [11]特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除く一般損失相当額5768億円
- [12]1982年11月 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始
- [13]営業収入 1975年度1兆8209億円→1984年度3兆3898億円
- [14]営業損益 1975年度△9235億円→1984年度△1兆8193億円
赤字の膨張には、借入金が利子を生み、その利子のためにまた赤字が増え、さらに借入金に頼るという悪循環が働いていた。1960年代後半からの設備投資では、インフラ部分を利用者負担でまかなえなかった——1963年に国鉄へ入社した葛西敬之氏の見立てである。物価も運賃も抑えられていたため、国鉄はこの投資を借入に頼った。返済計画として輸送量の増える10年計画を描いたものの、鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍っていたため計画が狂ったというのが葛西氏の説明である。長期債務残高は1975年度末の6兆8000億円から、1985年度末には23兆6000億円に達すると見込まれた。国庫助成は1985年度予算で6025億円に上ったが、赤字額を償うには届かなかった。
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [15]借入金が利子を生み、その利子でまた赤字が増え、さらに借入金に頼る悪循環
- [20]長期債務残高 1975年度末6.8兆円→1985年度末23.6兆円の見込み
- [21]1985年度予算の国庫助成6025億円
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- [16]インフラ投資の部分は利用者負担ではまかなえなかった
- [17]葛西敬之氏は1963年に国鉄へ入社
- [18]物価も抑制され運賃も縛られていたため借入に頼った
- [19]輸送量が増える10年計画を描いたが鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍化
参考文献[1]-[21]
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
- [1]1976年3月に一般勘定と区分して特別勘定を新設
- [3]1980年12月 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立
- [7]1975年度の純損失9147億円
- [8]1979年度の純損失8218億円、1980年度の純損失1兆84億円
- [9]1983年度の純損失1兆6604億円
- [10]1984年度の純損失1兆6504億円
- [11]特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除く一般損失相当額5768億円
- [12]1982年11月 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始
- [13]営業収入 1975年度1兆8209億円→1984年度3兆3898億円
- [14]営業損益 1975年度△9235億円→1984年度△1兆8193億円
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [2]1979年12月「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解
- [4]1976年度・1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務を棚上げ
- [5]長期債務残高が1980年3月に10兆円を突破
- [6]1969年度以来、政府と国鉄が経営再建対策を繰り返し立案し、いずれも中途で挫折
- [15]借入金が利子を生み、その利子でまた赤字が増え、さらに借入金に頼る悪循環
- [20]長期債務残高 1975年度末6.8兆円→1985年度末23.6兆円の見込み
- [21]1985年度予算の国庫助成6025億円
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- [16]インフラ投資の部分は利用者負担ではまかなえなかった
- [17]葛西敬之氏は1963年に国鉄へ入社
- [18]物価も抑制され運賃も縛られていたため借入に頼った
- [19]輸送量が増える10年計画を描いたが鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍化
1981年〜第二臨調から再建監理委員会へ移った決定の場と、二代続いた総裁の更迭
国鉄が自ら立てた再建計画と運賃の大幅な値上げがことごとく失敗したため、再建の検討は国鉄の外へ移った。鈴木内閣は1981年3月に第二次臨時行政調査会を開き、国鉄・コメ・健保の3Kを行政改革の課題に据えたうえで、国鉄再建計画を臨調の手に委ねた。国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革を望むグループがあることが分かり、内情は次第に臨調へ伝わった。臨調は第四部会を設け、部会長には慶応大学教授の加藤寛氏が就任した。第四部会は当初から国鉄の再建は分割・民営化しかないと考え、その報告をもとに臨調は1982年7月末に分割・民営化の基本答申を出した。
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [22]国鉄自らの再建計画と運賃の大幅値上げがことごとく失敗
- [23]1981年3月 鈴木内閣が第二次臨時行政調査会を開いた
- [24]3K(国鉄・コメ・健保)が行政改革の課題
- [25]国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革派がいた
- [26]臨調第四部会の部会長は慶応大学教授の加藤寛氏
- [27]1982年7月末 臨調が分割・民営化の基本答申
自民党は1982年2月、党内に国鉄再建小委員会を設置した。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことが発端で、この小委員会は三塚委員会と呼ばれた。三塚委員会は国鉄・組合・運輸省へのヒアリングにとどまらず、山梨県の甲府駅への抜き打ち視察や全国の現場管理者へのアンケート調査を行い、分割・民営化論へ傾斜した。中曽根内閣は臨調の答申を受け、1983年6月10日に日本国有鉄道再建監理委員会を発足させた。委員長には労務問題に精通した住友電気工業会長の亀井正夫氏を据え、加藤氏らも委員に選ばれた。監理委員会は国鉄当局とことごとく対立した。1976年3月に大蔵公望事務次官から就任した高木文雄総裁と、1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任した仁杉巌総裁が、二代続けて更迭された。
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [28]1982年2月 自民党が党内に国鉄再建小委員会を設置
- [29]改革派が運輸族の三塚博氏に職場の荒廃を訴えたのが発端
- [30]甲府駅への抜き打ち視察と全国の現場管理者へのアンケート調査
- [32]委員長は住友電気工業会長の亀井正夫氏
- [33]監理委員会は国鉄当局と対立し、高木文雄総裁は1976年3月に大蔵事務次官から就任
- [34]仁杉巌総裁は1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任し、高木氏と二代続けて更迭
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [31]1983年6月10日 日本国有鉄道再建監理委員会が発足
監理委員会は1985年7月26日、『国鉄改革に関する意見 — 鉄道の未来を拓くために —』を内閣総理大臣に提出した。同委員会は、運賃や賃金が中央で画一的に決まって地域経済の実態に合わないこと、全国一体の収支管理により地域や事業部門の間に依存関係が生じることを挙げた。こうした問題は全国を事業区域とする巨大組織で事業運営が続く限り避けられず、公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難いと同委員会は述べた。1957年に本社から大幅な権限を委譲して発足した支社制度も、運賃や労働条件の決定権が本社に残った結果、1970年に廃止された。適正な事業単位へ分割すれば、電力会社や大手私鉄のように比較対象となる同種企業が並び、相互に競争意識が働く。同委員会はそう論じたうえで、速やかに分割・民営化を断行するほか道はないと結論づけた。
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [35]運賃や賃金が中央で画一的に決まり地域経済の実態に即していない
- [36]全国一体の収支管理で地域や事業部門の間に依存関係が生じる
- [37]公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難い
- [38]1957年に本社から大幅な権限委譲で支社制度が発足
- [39]運賃や労働条件の決定権が本社に留保され、支社制度は1970年に廃止
- [40]分割すれば電力会社や大手私鉄のように比較対象の同種企業が存在し競争意識が働く
- [41]速やかに分割・民営化を断行するしか道はないという結論
参考文献[22]-[41]
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [22]国鉄自らの再建計画と運賃の大幅値上げがことごとく失敗
- [23]1981年3月 鈴木内閣が第二次臨時行政調査会を開いた
- [24]3K(国鉄・コメ・健保)が行政改革の課題
- [25]国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革派がいた
- [26]臨調第四部会の部会長は慶応大学教授の加藤寛氏
- [27]1982年7月末 臨調が分割・民営化の基本答申
- [28]1982年2月 自民党が党内に国鉄再建小委員会を設置
- [29]改革派が運輸族の三塚博氏に職場の荒廃を訴えたのが発端
- [30]甲府駅への抜き打ち視察と全国の現場管理者へのアンケート調査
- [32]委員長は住友電気工業会長の亀井正夫氏
- [33]監理委員会は国鉄当局と対立し、高木文雄総裁は1976年3月に大蔵事務次官から就任
- [34]仁杉巌総裁は1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任し、高木氏と二代続けて更迭
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [31]1983年6月10日 日本国有鉄道再建監理委員会が発足
- [35]運賃や賃金が中央で画一的に決まり地域経済の実態に即していない
- [36]全国一体の収支管理で地域や事業部門の間に依存関係が生じる
- [37]公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難い
- [38]1957年に本社から大幅な権限委譲で支社制度が発足
- [39]運賃や労働条件の決定権が本社に留保され、支社制度は1970年に廃止
- [40]分割すれば電力会社や大手私鉄のように比較対象の同種企業が存在し競争意識が働く
- [41]速やかに分割・民営化を断行するしか道はないという結論
1985年〜杉浦喬也総裁の下で進んだ移行と、37兆円の債務を残した解散
運輸省事務次官を務めた杉浦喬也氏が1985年6月、第10代総裁に就任し、分割・民営化を自ら指揮した。就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく、大多数の職員が現状維持を望み、分割・民営化に反対する労働組合が力を持っていた。杉浦喬也総裁は新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体を通じて、分割・民営化の必要を国鉄の内外へ訴えた。自ら現場を歩いて職員に向き合い、職員の家族へは将来の生活を守ると書いた手紙を送った。国鉄内部では現状維持派と改革派の確執が強まり、改革派が力を得て現状維持派は追い込まれた。運輸省も分割・民営化への支持を公然と表明した。
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- [42]杉浦喬也氏は運輸事務次官を経て1985年6月に第10代国鉄総裁へ就任
- [43]就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく大多数の職員が現状維持を望んだ
- [44]新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体で分割・民営化を内外へ訴えた
- [45]職員の家族へ将来の生活を守ると手紙を書いた
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [46]現状維持派と改革派の確執が強まり改革派が力を得た
- [47]運輸省が分割・民営化への支持を公然と表明
監理委員会は要員の見通しも示した。新規採用を原則として止め、過去の退職実績から予測すると、1987年度首の在籍職員数は約27万6000人になる。これに対し新事業体の適正要員規模は約18万3000人で、余剰人員は約9万3000人に上る。同委員会は、公的部門の雇用慣行に照らして職員とその家族を路頭に迷わせてはならないとして、解雇によらない処理を求めた。移行前に2万人程度の希望退職を見込み、移行時には旅客鉄道会社が鉄道旅客部門の適正要員の2割にあたる約3万2000人を受け入れる。残る約4万1000人は特別対策対象者として"旧国鉄"へ所属させ、雇用を継続して対策を講じる期間は3年を限度とした。
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [48]新規採用の原則停止と過去の退職実績を前提とした要員見通し
- [49]1987年度首の在籍職員数は約276,000人の見込み
- [50]新事業体の適正要員規模約183,000人、余剰人員約93,000人
- [51]公的部門の雇用慣行から職員とその家族を路頭に迷わせてはならない
- [52]移行前に20,000人程度の希望退職を期待
- [53]旅客鉄道会社へ鉄道旅客部門の適正要員の2割程度、約32,000人を移籍
- [54]特別対策対象者約41,000人が「旧国鉄」に所属
- [55]「旧国鉄」で雇用を継続し対策を講じる期間は3年を限度
1987年4月1日、日本国有鉄道はJR旅客6社とJR貨物へ移り、38年の歴史を終えた。旅客は本州3社と北海道・四国・九州の3島会社に分け、貨物は全国1社とした。旅客流動の域内完結度は本州3グループで98%、3島会社で95%から99%に達する。処理すべき長期債務等は37兆3000億円で、うち11兆4000億円を新事業体が負い、25兆9000億円を旧国鉄が処理する。非事業用用地2600ha程度の売却収入5兆8000億円、株式売却収入6000億円、新幹線保有主体からの収入2兆8000億円を充てても、最終的に16兆7000億円が残る見込みだった。国鉄清算事業団が引き継いだ債務は25兆5000億円、発足時の再就職未定者は7628人である。
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [56]1987年4月 分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し38年の歴史に幕
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [57]旅客は本州3グループと北海道・四国・九州の3島、貨物は全国一元の1社
- [58]旅客流動の完結度は本州グループ内98%、3島は95%〜99%
- [59]処理すべき長期債務等の総額37兆3000億円
- [60]非事業用用地2,600ha程度の売却収入5.8兆円
- [61]最終的に残る長期債務等は16.7兆円程度
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- [62]国鉄清算事業団が引き継いだ債務25.5兆円
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [63]事業団発足時(1987年4月1日)の再就職未定者7628人
参考文献[42]-[63]
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- [42]杉浦喬也氏は運輸事務次官を経て1985年6月に第10代国鉄総裁へ就任
- [43]就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく大多数の職員が現状維持を望んだ
- [44]新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体で分割・民営化を内外へ訴えた
- [45]職員の家族へ将来の生活を守ると手紙を書いた
- [62]国鉄清算事業団が引き継いだ債務25.5兆円
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [46]現状維持派と改革派の確執が強まり改革派が力を得た
- [47]運輸省が分割・民営化への支持を公然と表明
- [56]1987年4月 分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し38年の歴史に幕
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- [48]新規採用の原則停止と過去の退職実績を前提とした要員見通し
- [49]1987年度首の在籍職員数は約276,000人の見込み
- [50]新事業体の適正要員規模約183,000人、余剰人員約93,000人
- [51]公的部門の雇用慣行から職員とその家族を路頭に迷わせてはならない
- [52]移行前に20,000人程度の希望退職を期待
- [53]旅客鉄道会社へ鉄道旅客部門の適正要員の2割程度、約32,000人を移籍
- [54]特別対策対象者約41,000人が「旧国鉄」に所属
- [55]「旧国鉄」で雇用を継続し対策を講じる期間は3年を限度
- [57]旅客は本州3グループと北海道・四国・九州の3島、貨物は全国一元の1社
- [58]旅客流動の完結度は本州グループ内98%、3島は95%〜99%
- [59]処理すべき長期債務等の総額37兆3000億円
- [60]非事業用用地2,600ha程度の売却収入5.8兆円
- [61]最終的に残る長期債務等は16.7兆円程度
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [63]事業団発足時(1987年4月1日)の再就職未定者7628人
1976年〜1987年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1976年03月期 | 単体 | 19,931 | n/a | ▲9,225 | ▲46.3% | ▲9,141 | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 23,690 | +18.9% | ▲8,457 | ▲35.7% | ▲8,339 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 25,702 | +8.5% | ▲9,012 | ▲35.1% | ▲8,867 | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 29,021 | +12.9% | ▲8,425 | ▲29.0% | ▲8,218 | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 29,637 | +2.1% | ▲10,006 | ▲33.8% | ▲10,084 | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 31,730 | +7.1% | ▲11,524 | ▲36.3% | ▲10,859 | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 33,130 | +4.4% | ▲14,619 | ▲44.1% | ▲13,778 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 32,989 | ▲0.4% | ▲18,412 | ▲55.8% | ▲16,604 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 33,898 | +2.8% | ▲18,193 | ▲53.7% | ▲16,504 | n/a |
| 1985年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度、日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
出典・参考
5件
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- 日経ビジネス 1996年7月15日号
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度