第2章 年〜年

日本国有鉄道:十河信二総裁の広軌別線投資と東海道新幹線の開業

1957年〜東海道本線の輸送力の限界と広軌別線をめぐる論争

1957年、東海道本線の東京・新橋間には片道210本の列車が走った。列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を超え、複線鉄道で片道200本を超える本数は限界点に近く、これ以上の増発は難しかった。東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%にすぎなかったが、旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%に達し、その増加率は全国鉄の平均を年々上回った。沿線には全国土の約16%の面積に全人口の43%が集まり、工業生産額と国民所得は全国の約70%を占めた。日本国有鉄道は1956年に東海道本線の全線電化を終え、1958年11月から東京・大阪間を日帰りできる特急電車"こだま号"を走らせたが、線路の容量そのものは変わらなかった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [1]1957年に東京・新橋間で片道210本の列車が走った
    • [2]列車回数は1954年から1955年に戦前最高の水準を越えた
    • [3]複線鉄道で片道200本超は限界点に近い
    • [4]東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%
    • [5]旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%
    • [6]沿線に全国土の約16%の面積と全人口の43%が集中し、工業生産額と国民所得は全国の約70%
    • [7]1956年に東海道本線の全線電化が完成
    • [8]1958年11月から東京・大阪間日帰り可能の特急電車「こだま号」運転開始

第二次大戦中の東京・下関間広軌別線建設計画は、国際標準軌間を採り、東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想だった。工事は1943年から1944年にかけて中止となり、用地の約25%と、ある程度掘り進んだ長大トンネルが残った。日本国有鉄道は1956年5月、本社に東海道線増強調査会を設け、技師長を会長として全社で増強策の検討に入った。案は狭軌併設、狭軌別線、広軌10駅、広軌23駅、広軌電鉄の5案に絞られたが、いずれも1000億円を超える投資を必要とした。1957年5月25日、鉄道技術研究所は創立50周年を記念して東京銀座の山葉ホールで公開講演会を開き、東京・大阪間を最高時速250kmの電車により3時間で結ぶ可能性を紹介した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [9]戦時中の東京・下関間広軌別線建設計画は国際標準軌間を採用
    • [10]東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想
    • [11]1943年から1944年にかけて工事中止、用地は全体の約25%を確保
    • [12]1956年5月に本社へ東海道線増強調査会を設置し、会長は技師長
    • [13]増強案は狭軌併設・狭軌別線・広軌10駅・広軌23駅・広軌電鉄の5案
    • [14]いずれの案も1000億円を超える投資を要した
    • [15]1957年5月25日に鉄道技術研究所が創立50周年記念の公開講演会を山葉ホールで開催
    • [16]最高時速250kmの電車で東京・大阪間を3時間で結ぶ可能性を発表

十河信二総裁は講演会の後に国鉄内部の意見をまとめ、1957年7月2日、運輸省大臣の宮沢胤勇氏へ東海道本線の増強について配慮を求めた。7月29日には本社に幹線調査室を置き、大石重成氏を室長とした。政府は8月30日、閣議決定に基づいて運輸省に日本国有鉄道幹線調査会を設け、会長に大蔵公望氏、委員35人を任命した。第1回調査会の席上、十河信二総裁は戦前に始まった広軌新幹線を下回る輸送力増強計画では間に合わないとの立場から、広軌別線案を暗に押し出した。調査会では、新幹線方式は過剰投資であるうえむだな投資であり、航空機と競争する高速の別線より混雑緩和へ資金を向けるべきだという議論も出た。計画を戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ"世界の三馬鹿"と嘲笑する者もあり、ジャーナリズムは興味本位に採り上げた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [17]1957年7月2日に十河信二総裁が運輸大臣の宮沢胤勇へ東海道本線の増強を要請
    • [18]1957年7月29日に本社へ幹線調査室を設置し、室長は大石重成
    • [19]1957年8月30日に閣議決定で運輸省へ日本国有鉄道幹線調査会を設置
    • [20]幹線調査会の会長は大蔵公望、委員は35人
    • [21]十河総裁は第1回調査会で広軌別線案を暗に主張
    • [22]新幹線方式は過剰投資かつむだな投資で、混雑緩和に振り向けるべきという反対論
    • [23]戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ「世界の三馬鹿」と嘲笑された
参考文献[1]-[23]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [1]1957年に東京・新橋間で片道210本の列車が走った
    • [2]列車回数は1954年から1955年に戦前最高の水準を越えた
    • [3]複線鉄道で片道200本超は限界点に近い
    • [4]東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%
    • [5]旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%
    • [6]沿線に全国土の約16%の面積と全人口の43%が集中し、工業生産額と国民所得は全国の約70%
    • [7]1956年に東海道本線の全線電化が完成
    • [8]1958年11月から東京・大阪間日帰り可能の特急電車「こだま号」運転開始
    • [9]戦時中の東京・下関間広軌別線建設計画は国際標準軌間を採用
    • [10]東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想
    • [11]1943年から1944年にかけて工事中止、用地は全体の約25%を確保
    • [12]1956年5月に本社へ東海道線増強調査会を設置し、会長は技師長
    • [13]増強案は狭軌併設・狭軌別線・広軌10駅・広軌23駅・広軌電鉄の5案
    • [14]いずれの案も1000億円を超える投資を要した
    • [15]1957年5月25日に鉄道技術研究所が創立50周年記念の公開講演会を山葉ホールで開催
    • [16]最高時速250kmの電車で東京・大阪間を3時間で結ぶ可能性を発表
    • [17]1957年7月2日に十河信二総裁が運輸大臣の宮沢胤勇へ東海道本線の増強を要請
    • [18]1957年7月29日に本社へ幹線調査室を設置し、室長は大石重成
    • [19]1957年8月30日に閣議決定で運輸省へ日本国有鉄道幹線調査会を設置
    • [20]幹線調査会の会長は大蔵公望、委員は35人
    • [21]十河総裁は第1回調査会で広軌別線案を暗に主張
    • [22]新幹線方式は過剰投資かつむだな投資で、混雑緩和に振り向けるべきという反対論
    • [23]戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ「世界の三馬鹿」と嘲笑された

1964年〜世界銀行の8000万ドル借款と開業

日本国有鉄道幹線調査会は1958年7月7日、所要資金と利子の合計を1948億円と見積もり、国内で調達でき運賃の引上げも要らないとする答申書を提出した。1959年3月31日には第31回国会が東海道幹線増設費を承認し、4月20日に新丹那トンネル東口で起工式を行った。当初予算は用地費146億円と路盤工事費1073億円などを積んだ1725億円で、利子と債務取扱諸費247億円を加えて1972億円とした。これを自己資金でまかなうことはできず、開業後の経営を考えて年5.75%の低利による世界銀行の借款を選び、名神高速道路の建設費で借款が実現していたことから成立の見込みを立てた。1961年5月2日、十河信二総裁とブラック世界銀行総裁が8000万ドルの借款契約書に署名し、同時に交わした覚書によって日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [24]1958年7月7日に幹線調査会が答申書を提出、所要資金と利子の合計は1948億円
    • [25]1959年3月31日に第31回国会が東海道幹線増設費を承認し工事へ正式着手
    • [26]1959年4月20日に新丹那トンネル東口で東海道新幹線の起工式
    • [27]当初予算1725億円(用地費146億円・路盤工事費1073億円ほか)
    • [28]利子および債務取扱諸費247億円を加えた総額1972億円
    • [29]5.75%の低利による世界銀行借款を方針とした
    • [30]名神高速道路建設費の借款が実現しており成立の可能性は大きいと判断
    • [31]1961年5月2日に十河総裁とブラック世銀総裁が8000万ドルの借款契約に調印
    • [32]覚書により日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた

工事費の不足は1959年末に明らかになったが、交渉中の世界銀行に対する信用問題もあり、総額予算を据え置いたまま1960年度の契約を進めた。不足額は1961年4月に864億円、12月には1218億円へ膨らんだ。借款に調印した1961年5月、日本側は世界銀行へ総額2926億円の増額改訂を説明し、うち直接工事費の増加分は802億円だった。理由は物価の騰貴と設計協議による計画変更である。1962年5月の三河島事故を機に、他の線区の改良を後回しにして東海道線を改良するのは利用者の利益を無視するという非難が強まり、増額はかえって工事への反対を強めるという判断から、1962年度補正と1963年度予算は2926億円のわくを動かさずに要求した。工事は全体の工期を決める長大トンネルから始め、切取と盛土の延長は274km、土工量は3500万立方mに達した。工事では211人が殉職した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [33]1959年末に工事費の不足が明瞭となり、世銀への信用問題から総額予算は据え置き
    • [34]不足額は1961年4月に864億円、12月に1218億円
    • [35]1961年5月に総額2926億円への増額改訂を世銀へ説明、直接工事費の増加分は802億円
    • [36]増額の理由は物価騰貴と設計協議による計画変更
    • [37]1962年5月の三河島事故を契機に東海道線偏重への非難が強まった
    • [38]1962年度補正・1963年度予算は総額2926億円のわくを動かさずに要求
    • [39]工事は長大トンネルから着工、切取・盛土の延長274km、土工量3500万立方m
    • [40]東海道新幹線建設工事の殉職者は211柱

1962年10月27日にモデル線で時速200kmの走行試験に成功し、1963年3月30日には256kmを記録した。愛称は公募で55万8882通が集まり、"ひかり"と"こだま"が選ばれた。十河信二総裁は1963年5月に退き、開業を迎えたのは第5代総裁の石田禮助氏だった。1964年9月17日、工事監査により10月1日の使用開始に差し支えないことが確認された。10月1日、東京・新大阪間515kmで営業を開始し、東京と新大阪の各始発列車はいずれも定時に終着駅へ着いた。1日60本、超特急"ひかり"が4時間、特急"こだま"が5時間で、輸送力はそれまでの特急・急行の約3〜4倍だった。開業当初に1日約6万人だった輸送人員は1965年度に約8万5000人となり、新幹線の収支は1965年度の128億円の赤字から1966年度に164億円の黒字へ転じた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [41]1962年10月27日に200km/h試験に成功
    • [42]1963年3月30日に256km/hを記録
    • [43]愛称公募は55万8882通、「ひかり」「こだま」が選ばれた
    • [45]1964年9月17日の工事監査報告書が10月1日の使用開始を認めた
    • [46]1964年10月1日に東京・新大阪間515kmで営業開始、始発列車は定時到着
    • [47]開業時は1日60本、「ひかり」4時間・「こだま」5時間、輸送力は従来の約3〜4倍
    • [48]開業当初1日約6万人の輸送人員が1965年度に約8万5000人
    • [49]新幹線の収支は1965年度△127億9900万円、1966年度163億5300万円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [44]十河信二氏は1963年5月に退任し、第5代総裁 石田禮助氏が開業を迎えた(百年史は慰霊祭の参列者を「石田総裁、十河前総裁」と記す)
参考文献[24]-[49]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [24]1958年7月7日に幹線調査会が答申書を提出、所要資金と利子の合計は1948億円
    • [25]1959年3月31日に第31回国会が東海道幹線増設費を承認し工事へ正式着手
    • [26]1959年4月20日に新丹那トンネル東口で東海道新幹線の起工式
    • [27]当初予算1725億円(用地費146億円・路盤工事費1073億円ほか)
    • [28]利子および債務取扱諸費247億円を加えた総額1972億円
    • [29]5.75%の低利による世界銀行借款を方針とした
    • [30]名神高速道路建設費の借款が実現しており成立の可能性は大きいと判断
    • [31]1961年5月2日に十河総裁とブラック世銀総裁が8000万ドルの借款契約に調印
    • [32]覚書により日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた
    • [33]1959年末に工事費の不足が明瞭となり、世銀への信用問題から総額予算は据え置き
    • [34]不足額は1961年4月に864億円、12月に1218億円
    • [35]1961年5月に総額2926億円への増額改訂を世銀へ説明、直接工事費の増加分は802億円
    • [36]増額の理由は物価騰貴と設計協議による計画変更
    • [37]1962年5月の三河島事故を契機に東海道線偏重への非難が強まった
    • [38]1962年度補正・1963年度予算は総額2926億円のわくを動かさずに要求
    • [39]工事は長大トンネルから着工、切取・盛土の延長274km、土工量3500万立方m
    • [40]東海道新幹線建設工事の殉職者は211柱
    • [41]1962年10月27日に200km/h試験に成功
    • [42]1963年3月30日に256km/hを記録
    • [43]愛称公募は55万8882通、「ひかり」「こだま」が選ばれた
    • [45]1964年9月17日の工事監査報告書が10月1日の使用開始を認めた
    • [46]1964年10月1日に東京・新大阪間515kmで営業開始、始発列車は定時到着
    • [47]開業時は1日60本、「ひかり」4時間・「こだま」5時間、輸送力は従来の約3〜4倍
    • [48]開業当初1日約6万人の輸送人員が1965年度に約8万5000人
    • [49]新幹線の収支は1965年度△127億9900万円、1966年度163億5300万円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [44]十河信二氏は1963年5月に退任し、第5代総裁 石田禮助氏が開業を迎えた(百年史は慰霊祭の参列者を「石田総裁、十河前総裁」と記す)

1961年〜約3万人の要員削減計画と、貨物を奪い始めた自動車

日本国有鉄道は1957年度から、老朽設備の取り替えを主眼とする第1次5か年計画を進め、1961年度に第2次5か年計画へ移した。1961年8月には新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表し、1965年度までに車両の検修や施設の保安改善を合理化して約3万人の要員を生み出し、配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下に抑えるとした。国鉄労働組合と国鉄動力車労働組合は同じ1961年の定期大会で、要員削減と労働強化にあくまで反対し、9月中旬以降に反復ストライキを実施することを両組合で決めた。争点は工場合理化、船舶合理化、検修合理化で、戦術には2割減車闘争、順法闘争、業務切捨闘争を挙げた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [50]1957年度の第1次5か年計画は老朽設備の取り替えが主眼
    • [51]1961年度から第2次5か年計画
    • [52]1961年8月に新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表
    • [53]1965年度までに車両の検修・施設の保安改善などの合理化で約3万人の要員を捻出
    • [54]配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下とする
    • [55]国労・動労は1961年の定期大会で合理化反対と反復ストライキを確認
    • [56]争点は工場合理化・船舶合理化・検修合理化、戦術は2割減車闘争・順法闘争・業務切捨闘争

争議はすでに激しさを増していた。1957年3月23日の抜き打ちストでは旅客611本と貨物229本が運休し、激昂した旅客による職員の殴打や、電車・駅舎の窓ガラスの破壊が各所で起きた。国鉄は5月9日、国労の小柳委員長ら19人と機労の黒川委員長ら4人を解雇した。7月10日から16日には国労新潟地方本部が本部指令を無視して争議に入り、勤務者を実力で連行して駅長をつるし上げ、15日と16日は管内の全貨物列車が運休した。組合の分裂を機に新組合の結成が相次ぎ、1962年12月の新国鉄労働組合連合を経て、1968年10月に鉄道労働組合が発足した。1962年5月の三河島事故の背景には、事故防止に必要な考査や訓練、審査、競技会が数次の拒否闘争の結果として順次廃止または簡略されてきた実態があった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [57]1957年3月23日の抜き打ちストで旅客611本・貨物229本が運休
    • [58]激昂した旅客の職員殴打や電車・駅舎の窓ガラス破壊が発生
    • [59]1957年5月9日に国労小柳委員長ら19人、機労黒川委員長ら4人を解雇
    • [60]1957年7月10日から16日の新潟闘争は本部指令を無視した争議
    • [61]15日・16日に新潟局管内の全貨物列車が運休
    • [62]1962年12月に新国鉄労働組合連合が結成され、1968年10月に鉄道労働組合となった
    • [63]三河島事故の特別監査報告が拒否闘争による考査・訓練の廃止を指摘

自動車と航空機の伸びは同時に進んだ。自動車保有台数は1955年の80万台から1965年に420万台へ増え、貨物輸送量をトンキロで比べた鉄道対自動車の比は1958年の3対1から1964年に1.3対1へ、旅客の人キロも4対1から2対1へ縮んだ。1955年度から1965年度までの旅客輸送の年平均伸び率は、定期航空29.5%、乗用車25.5%、バス13.1%に対し国鉄は6.6%だった。1963年5月10日、原安三郎氏を委員長とする国鉄諮問委員会は答申書『国鉄経営の在り方について』を提出し、1970年に年収8189億円の企業となっても営業経費と借入金の利子を払えば72億円しか残らないと試算して、これを経営の完全な破綻とした。国鉄の1963年度は営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円だった。

  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [64]自動車保有台数は1955年に80万台、1965年に420万台
    • [65]貨物のトンキロで鉄道対自動車は1958年3対1から1964年1.3対1
    • [66]旅客の人キロで鉄道対自動車は4対1から2対1
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [67]1955-1965年度の旅客輸送の年平均伸び率は定期航空29.5%・乗用車25.5%・バス13.1%・国鉄6.6%
    • [68]1963年5月10日に原安三郎を委員長とする国鉄諮問委員会が答申書を提出
    • [69]答申書の表題は「国鉄経営の在り方について」
    • [70]1970年に年収8189億円のマンモス企業になるとの試算
    • [71]営業経費と借入金の利子を支払った後は72億円しか残らない
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度
    • [72]1963年度の営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円
参考文献[50]-[72]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [50]1957年度の第1次5か年計画は老朽設備の取り替えが主眼
    • [51]1961年度から第2次5か年計画
    • [52]1961年8月に新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表
    • [53]1965年度までに車両の検修・施設の保安改善などの合理化で約3万人の要員を捻出
    • [54]配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下とする
    • [55]国労・動労は1961年の定期大会で合理化反対と反復ストライキを確認
    • [56]争点は工場合理化・船舶合理化・検修合理化、戦術は2割減車闘争・順法闘争・業務切捨闘争
    • [57]1957年3月23日の抜き打ちストで旅客611本・貨物229本が運休
    • [58]激昂した旅客の職員殴打や電車・駅舎の窓ガラス破壊が発生
    • [59]1957年5月9日に国労小柳委員長ら19人、機労黒川委員長ら4人を解雇
    • [60]1957年7月10日から16日の新潟闘争は本部指令を無視した争議
    • [61]15日・16日に新潟局管内の全貨物列車が運休
    • [62]1962年12月に新国鉄労働組合連合が結成され、1968年10月に鉄道労働組合となった
    • [63]三河島事故の特別監査報告が拒否闘争による考査・訓練の廃止を指摘
    • [67]1955-1965年度の旅客輸送の年平均伸び率は定期航空29.5%・乗用車25.5%・バス13.1%・国鉄6.6%
    • [68]1963年5月10日に原安三郎を委員長とする国鉄諮問委員会が答申書を提出
    • [69]答申書の表題は「国鉄経営の在り方について」
    • [70]1970年に年収8189億円のマンモス企業になるとの試算
    • [71]営業経費と借入金の利子を支払った後は72億円しか残らない
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [64]自動車保有台数は1955年に80万台、1965年に420万台
    • [65]貨物のトンキロで鉄道対自動車は1958年3対1から1964年1.3対1
    • [66]旅客の人キロで鉄道対自動車は4対1から2対1
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度
    • [72]1963年度の営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円

1956年〜1964年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1956年03月期 単体 2,878 n/a ▲161 ▲5.6% n/a n/a
1957年03月期 単体 3,338 +16.0% 156 4.7% n/a n/a
1958年03月期 単体 3,358 +0.6% 27 0.8% n/a n/a
1959年03月期 単体 3,677 +9.5% 27 0.8% n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 5,053 n/a 465 9.2% 464 n/a
1962年03月期 単体 5,291 +4.7% 515 9.7% 497 n/a
1963年03月期 単体 5,687 +7.5% 543 9.5% 574 n/a
1964年03月期 単体 6,002 +5.5% ▲323 ▲5.4% ▲300 n/a

出所:日本国有鉄道監査報告書 昭和34年度、日本国有鉄道監査報告書 昭和36年度、日本国有鉄道監査報告書 昭和37年度、日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度

出典・参考

4件
出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度

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