鉄道と沿線開発を一体で回す多摩田園都市の建設

鉄道単独では赤字を覚悟した東急は、55地区3,204haの区画整理と田園都市線でどう「土地・住宅・電車」の三層で稼ぐ構造を築いたか

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時期 1966年4月
意思決定者 五島昇 東急 社長
論点 沿線開発と鉄道投資
概要
1953年に五島慶太氏が構想した多摩丘陵の面的開発を、後継の五島昇氏が事業として完遂した判断。鉄道単独では赤字を覚悟し、区画整理で生み出した宅地と住宅の販売益で投資を回収する「開発利益還元型」の構造を築き、1966年の田園都市線開通を軸に、1984年の全通までに鉄道と沿線開発を一体で回すデベロッパーへ東急を作り替えた。
背景
戦時統合の「大東急」は1948年に解体されたが、東急には東横線・目蒲線と渋谷ターミナルが残った。戦後復興で東京への人口集中が加速するなか、五島慶太氏は1953年に「城西南地区開発趣意書」で多摩丘陵約400〜500万坪の開発と「第二の東京」を構想した。郊外電鉄は乗客が育つまで赤字を避けられず、鉄道・土地・住宅を一体で回す採算構造が要件となっていた。
内容
1959年の川崎市野川地区を皮切りに、区画整理は2000年まで55地区・3,204ヘクタールに及んだ。1966年に田園都市線の溝の口〜長津田間が開通し、1977年に新玉川線、1979年に営団半蔵門線との全列車直通運転、1984年に中央林間までの全通と、宅地の造成に歩調を合わせて鉄道インフラが整えられた。五島昇氏は鉄道単独では月1億円の赤字を覚悟しつつ土地と住宅で回収すると語っていた。
含意
多摩田園都市は東急を鉄道会社から沿線デベロッパーへ作り替え、育った沿線人口が鉄道収益を支える循環を生んだ。一方で開発利益に頼る経営はバブル期の非中核事業の拡張と1995年3月期の特別損失429億円につながり、2013年の東急不動産ホールディングス、2019年の鉄軌道分社という「鉄道と不動産を別ラインで動かす」構造へと帰結していった。
筆者の見解

開発利益還元型モデルの到達点と限界

多摩田園都市の建設は、鉄道会社であった東急を、沿線を面で開発するデベロッパーへと作り替えた判断であったとみることができる。鉄道単独の赤字を覚悟しながら土地と住宅の販売益で投資を回収し、そこで育った人口が今度は鉄道の収益を安定させる。私鉄経営の理想とされた循環を、多摩丘陵という広大な実地で回し切った事例といえる。もっとも五島昇氏自身は後年、この事業を「執念だけで突っ走った」(日経新聞 1989年3月14日)と振り返り、「日本の『奇跡』がなければ成功のおぼつかないリスクの大きな事業でもあった」(日経新聞 1989年3月16日)とも述べていた。高度成長と地価の上昇という追い風があってこそ成り立った賭けであったと言って良いだろう。

開発利益還元型のこの事業モデルは、その後の東急の性格を長く規定した。土地と住宅で稼ぐ構造への自信は、バブル期にリゾートや百貨店など非中核の領域への拡張を後押ししたが、それらは1995年3月期の特別損失429億円を機に整理へ転じ、開発利益に頼る経営の振れ幅の大きさもまた露呈した。東急は2013年に東急不動産ホールディングスを先行して設け、2019年には鉄軌道業を東急電鉄として分社し、本体を不動産・生活サービスを統括する持株会社へ改めている。鉄道と不動産を別々の意思決定ラインで動かすという首都圏私鉄では珍しい構造は、多摩田園都市で確立した「鉄道と不動産の両輪」が、半世紀を経て組織の形そのものへ及んだ帰結とみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「大東急」解体後に残った資産と首都圏の人口流入

戦時下の陸上交通事業調整で京浜・小田急・京王までを抱えた「大東急」は、1948年に旧の各社へ分割され、東急には東横線・目蒲線と渋谷のターミナルが残った。戦後復興が進むにつれて東京への人口集中は加速し、都心の住宅は逼迫していった。関西では阪急電鉄が「鉄道が乗客を生む」郊外電鉄の型を示しており、東急も1922年の目黒蒲田電鉄以来、鉄道を敷いて沿線に住宅を売る経営を関東で先行させてきた。膨張する首都圏の人口をどこで受け止めるかという問いは、私鉄が沿線をどこまで広げられるかという問いと重なっており、手つかずの丘陵地を抱える多摩がその答えの候補として浮かび上がっていた[1]

五島慶太氏は1953年7月、「城西南地区開発趣意書」を周辺の自治体へ提出した。東京駅を中心に半径約40キロの円を描けばなお山林と原野のまま残るのは二子玉川から厚木大山街道沿いに広がる多摩丘陵だけであるとし、「そこで私はこの厚木大山街道に沿って、約400〜500万坪の土地を買収して、第二の東京都を作りたいと思う[2]」(産業と経済 1953年9月)と構想の規模を明示した。1956年には「多摩川西南新都市計画」が定まり、新線の駅から概ね1キロの範囲を市街化の許容区域に指定した。都心の膨張を郊外の新都市で受け止めるという発想が、東急の沿線戦略の骨格として据えられていった。

鉄道単独では成り立たない採算

郊外電鉄は、沿線に人が住みつくまでは乗客が育たず、開業から当分は赤字を避けられない。五島慶太氏が事業主体について「1つの会社がその400〜500万坪の土地を買収し、これに道路、下水、ガス、電気を引き込み、かつその他公共施設を設けて完全な住宅地として売り出す方法以外に東京都の人口をここに呼ぶ方法がないと思う[3]」(産業と経済 1953年9月)と述べたのは、鉄道と土地と住宅を切り離さず一体で回してはじめて採算が立つという見通しに立っていたためとみられる。鉄道を単独の事業として黒字にするのではなく、沿線開発の利益で投資を取り戻す。この開発利益還元型の発想が、多摩田園都市の設計思想となった。

決断

買収構想から区画整理組合方式へ

当初、五島慶太氏が描いていたのは、一つの会社が多摩丘陵を一括して買収する方式であった。だが400〜500万坪の土地を先に買い上げる資金負担は重く、実際に採られたのは、地権者が土地を出し合う土地区画整理組合方式であった。1959年に川崎市の野川地区で最初の区画整理に着手すると、東急は組合の事業を代行する立場で開発を進め、道路や下水を整えた宅地を生み出していった。この方式は2000年の犬蔵地区まで続き、55地区・3,204ヘクタールの区画整理が約40年にわたって積み重なった。買収による一挙の造成ではなく、地権者を巻き込みながら面を少しずつ広げる長い事業として、多摩田園都市は形をとっていった[4]

五島慶太氏は1959年に逝去したが、構想は後継の五島昇氏へ引き継がれた。昇氏は多摩田園都市について「現状では電車を走らせるごとに赤字の積み重ねとなり、月に1億円が赤字となる(中略)私企業としての東急がやる以上、ソロバンの無視のことはやれまい。これが当たれば、土地で儲け、家で儲け、電車で儲け、なかなかこたえられない話だが、それにしてもとてつもない大計画だ[5]」(実業の世界 1966年12月)と語り、鉄道単独では月1億円の赤字を覚悟しつつ、土地と住宅の販売で回収する事業構造をはっきりと言い表していた。鉄道・土地・住宅の三層で稼ぐという慶太氏以来の発想が、昇氏の代で実行の段階へ移ろうとしていた。

田園都市線の開通

1966年4月、田園都市線の溝の口〜長津田間が開通した。区画整理で生み出された宅地へ鉄道を通し、育ちはじめた沿線の住民を都心へ運ぶ動脈が据えられた。後年、五島昇氏はこの時期を「鉄道だけで採算のとれる経営ができる自信はまるでなかった。沿線に200万坪の土地を先に購入し、地域開発すればなんとかなるのではないかと考えた[6]。区画整理事業などはまだ考えられなかったころであり、大づかみな計画だった」(日経朝刊 1986年3月16日)と振り返っている。鉄道を先行投資と位置づけ、土地と住宅の開発で回収するという構造が、開通を境に現実の輸送と収益のなかで動き出した。

結果

新玉川線と田園都市線の全通

多摩丘陵側の宅地が広がるにつれ、都心へ通じる輸送の容量が次の課題になった。1977年、渋谷と二子玉川園を結ぶ新玉川線が開通し、田園都市線の乗客を都心へ直接送り込む経路が加わった。この路線の建設は、東急にとって軽い判断ではなかった。当事者であった山戸松身氏は「新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には踏み切れないという苦悩が重く会社を支配した[7]」(交通公論 1978年5月)と記しており、巨額の投資に踏み切るまでの逡巡がうかがえる。1979年には営団地下鉄半蔵門線との全列車直通運転が始まり、多摩から都心中枢までが一本のレールでつながった。

1984年4月、田園都市線は中央林間まで延伸して全通し、1953年の構想から約30年を経て鉄道のインフラがひととおりそろった。宅地の造成と鉄道の延伸が歩調を合わせて進んだ結果、沿線の人口は恒常的に増え続け、その住民が今度は鉄道の乗客となって収益を支えた。1986年の日経ビジネスは、東急グループが多摩田園都市開発の所産であり、沿線人口の増加が旅客の安定した増加につながったと指摘している(日経ビジネス 1986年6月23日)。鉄道の赤字を土地と住宅で埋め、育った沿線人口が鉄道を潤すという循環が、実際の業績のうえで回りはじめていたことがうかがえる[8]

出典・参考
  • 産業と経済 1953年9月号「城西南地区開発趣意書」(五島慶太)
  • 実業の世界 1966年12月号
  • 日経新聞 1986年3月16日 朝刊(五島昇 回想)
  • 日経ビジネス 1986年6月23日号
  • 交通公論 1978年5月号(山戸松身)
  • 日経新聞 1989年3月14日/1989年3月16日(五島昇)
  • 東急100年史(東急株式会社)
  • 東急 有価証券報告書【沿革】