日清紡ホールディングス宮島清次郎氏による同業紡績の連続買収と大規模工場の新設
後発の綿紡績会社が規模で先発に追いつくには、買うのが早いか、建てるのが早いか
- 概要
- 1914年に専務として招かれた宮島清次郎氏が、1915年の高岡紡績買収から1919年の岡崎紡績買収・青島工場と名古屋工場の新設までを続けざまに実行し、日清紡績を大正10年時点で六工場・紡機23万錘を擁する紡績会社へ拡げた経営判断。
- 背景
- 1907年設立の日清紡績は綿紡織の本場である大阪から遠く、先発の大手より四半世紀ほど遅れて出発した。1910年の帝国製絲買収の直後には反動期と関東地方の大洪水が重なり、本社工場が被害を受けて苦境に立っていた。
- 内容
- 稼働中の同業紡績を買って錘数と立地をまとめて取り込む一方、名古屋に11万錘という当時としては大規模な工場を新設した。買収と新設を同時に走らせ、1919年9月に社長へ就いた後も東京紡績・帝国紡績の買収と浜松・富山の新設を重ねた。
- 含意
- 綿紡織は高価な機械をどれだけ多く抱え、稼働率を保てるかで優劣が決まる産業であった。後発の不利を同業買収と設備新設の併走で埋めた型は、その後の一貫体制づくりにも、戦後の多角化にも引き継がれた。
規模は、買うものか、建てるものか
この判断の中心にあるのは、後発企業が規模の差をどう埋めるかという、きわめて素朴な問いである。買収は時間を買う代わりに、他人の作った設備と職場をそのまま抱え込む。新設は時間を要する代わりに、自社の水準どおりの工場を得られる。宮島清次郎氏はどちらかに寄せず、1919年に岡崎紡績の買収と名古屋11万錘の新設を同じ年に並べた。買った設備は機械の入れ替えで水準を合わせ、建てた工場で全体の原価を押し下げる——二つの手段を補い合わせた運び方であったとみることができる。
もっとも、こうして積み上げた設備は戦時の供出と敗戦で約8割が消え、規模そのものは守りきれなかった。残ったのは設備の量ではなく、同業を買い、工場を建て、機械を入れ替え続けるという事業の作り方のほうであった。戦後の非繊維部門への進出も、のちの自動車ブレーキや無線通信の取り込みも、稼働させられる事業を外から買って自社の水準に合わせるという同じ手つきで進んでいる。100年を隔てて繰り返される拡大の型が、この時期に固まったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
本場から遠い、後発の綿紡績会社
日清紡績は、日露戦争後の1907年2月、資本金1,000万円(払込250万円)で東京の亀戸に設立された。初代会長には平沼専蔵氏が就いている。会社設立後ただちに第一期紡機59,028錘を建設し、翌1908年6月に操業を開始した。もっとも、綿紡織の本場は大阪であり、渋沢栄一氏の発案で1882年に大阪で創業した先発の紡績会社からは四半世紀ほど遅れた出発であった。原料の集散地からも同業の集積地からも離れた東京で、後から追いかける立場に置かれていた[1][2]。
出発直後の拡大策は、つまずいた。1910年3月、日清紡績は京都の帝国製絲(13,000錘)を買収して規模を広げにかかったが、続く反動期に関東地方が大洪水に見舞われ、本社工場が被害を受けた。設立から数年、生産設備を積み上げている途中で足元を崩された形で、創業まもない会社は早くも苦境に立った。買った設備を動かしきる前に資金と生産の両面が細るという、規模拡大につきものの危うさが最初に表れた場面であった[3]。
錘数がそのまま優劣になる産業
綿紡織は、高価な機械をどれだけ多く据え、その稼働率を保つ労働力をどれだけ抱えられるかで勝負が決まる産業である。糸切れが起きれば機械は止まり、止まった時間はそのまま損に変わる。したがって錘数の多寡は、単なる規模の指標ではなく原価そのものを左右した。本場の大阪から遠く、しかも後発という二重の不利を負った日清紡績にとって、この構造は最初から重くのしかかっていた[4]。
苦境を抜ける転機となったのが、1914年8月に専務として迎え入れた宮島清次郎氏である。宮島氏はまず基礎固めに取りかかり、翌1915年に高岡紡績(10,000錘)を買収した。第一次大戦下で綿製品の輸出が伸びた時期にあたり、輸出も大いに増進している。買収した錘を動かして得た利益を次の買収と新設に振り向ける循環が、この時期に回り始めた[5]。
決断
買収と新設を同時に走らせる
1919年、宮島氏は買収と新設を同じ年に重ねた。青島工場(20,000錘)と名古屋工場(110,000錘)を新設し、あわせて岡崎紡績(16,000錘)を買収している。名古屋の11万錘は、それまで買い集めてきた同業各社の錘数を一桁上回る規模であった。買収は稼働中の設備と立地と職工をまとめて取り込み、新設は最新の機械を望みどおりの配置で据えられる。相反する二つの手段を、宮島氏はどちらか一方に絞らず併走させた[6]。
同じ1919年の9月、宮島専務は社長に就任し、機械設備の近代化に取り組んだ。買った工場をそのまま動かすのではなく、機械を入れ替えて水準をそろえる作業を並行させている。その結果、1921年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁するまでになった。設立時の59,028錘と比べれば四倍近い設備規模であり、十数年で先発との差を詰めた計算になる[7]。
買い足しと建て増しの反復
この型は一度きりで終わらなかった。1923年9月の関東大震災で本社工場が被害を受けると直ちに復旧し、同年12月には東京紡績(30,000錘)を買収した。翌1924年10月には浜松工場(40,000錘)を新設、1927年2月に帝国紡績(5,088錘)を買収し、同年6月には川越紡績(49,000錘)の委任経営を引き受けている。1932年には富山工場(紡機4万錘・機械650台)を新設した。災害の直後にも買収の手を止めていない点に、この時期の経営の傾き方が表れている[8]。
錘数を積み上げたあとは、工程の側へ伸びた。1933年2月、人造糸へ進むため日清レイヨンを創設して岡崎工場を建設し、同年8月には戸崎工場に晒加工設備を新設して、糸から綿布加工までの一貫体制を整えた。買収で得られるのは同じ工程の設備でしかない。前後の工程を自前で持つには新設するほかなく、規模の拡大と工程の延長という二つの投資が、ここで一本につながった[9]。
結果
戦時の消耗と戦後の復元
積み上げた設備は、戦時体制のもとで急速に削られた。1935年以降、とりわけ太平洋戦争が始まった1941年以降、日清紡績は保有機の供出や外地への設備移駐を命じられ、工場を軍需会社へ貸与したり飛行機製作所へ転換したりした。1943年には西新井工場が石綿製品の製造へ切り替わっている。敗戦により設備の約80%を失い、終戦時の保有は紡機17万9,000錘・織機1,972台まで落ち込んだ。宮島氏は1940年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て1945年12月に桜田武氏へ引き継がれた[10][11]。
戦後は戦前の保有設備の回復に努め、1955年までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へ復興拡大した。設備を集めて稼働率で稼ぐという事業の作りは戻り、そこへ化成品・工作・製紙・印刷といった非繊維部門への進出が重なる。1968年時点の概略書は、日清紡績の最大の特色を「徹底した自由主義経済理念による経営と経営の合理化」に見て、その合理主義経営が宮島清次郎氏・桜田武氏・露口達氏の各社長によって受け継がれてきたと記している。同社は斜陽といわれた紡績業界にあって、1964年10月期以降14%の配当を続け、業績不安から減配したことはなかった[12][13]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 週刊東洋経済 2010年10月27日号「企業戦略シリーズ6【新「本業」で稼ぐ】第1回 日清紡ホールディングス 太陽電池製造装置を軸に 103年目の「再出発」」
- 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】