全事業の再分社と純粋持株会社「日清製粉グループ本社」への移行

本社へ吸収した事業を再び切り分ける——集権から分権へ、正田修社長は組織をどう反転させたか

更新:

時期 2001年7月
意思決定者 正田修 社長
論点 グループ経営体制と分社の狙い
概要
2001年7月、日清製粉が製粉・食品・飼料・ペットフード・医薬の全事業を分社し、本体を製造機能を持たない純粋持株会社「日清製粉グループ本社」へ改めた再編。正田修社長のもとで、事業会社それぞれに社長を置く分権型の体制へ移行した経営判断である。
背景
1987年のグループ革新計画「NI-90」で日清フーズ・日清化学を本社へ吸収し集権化していたが、多角化した事業群を一つの器で束ねる運営には機動性の限界が見えていた。2001年4月の会社分割法制の整備を追い風に、持株会社化が現実的な選択肢となっていた。
内容
各事業を分社して純粋持株会社の傘下に置き、給与と賞与を事業会社ごとに組み直して損益責任を明確化した。間接部門はグループ本社スタッフの出向でまかない人員増を抑えた。傘下には日清製粉・日清フーズ・日清飼料・日清ペットフード・日清ファルマなどを並べ、それぞれに社長を置いた。
含意
子会社を本社へ吸収した集権から、全事業を分社する分権へと反転した往復であった。二十年後、瀧原賢二社長は分社化こそがグループの強みだと語り、この体制が現在のグループ経営の骨格として定着したことがうかがえる。
筆者の見解

集権と分権のあいだで

この再編の芯にあるのは、多角化した事業群を一つの器で束ねるか、切り分けて独立させるかという、集権と分権のあいだの選択である。1987年のNI-90計画で子会社を本社へ吸収した集権から、2001年に全事業を分社する分権へ——日清製粉は十数年のあいだに、同じ事業群をめぐって逆向きの再編を続けて選んだことになる。器の付け替えを繰り返す運営は、そのつど何が最適かを問い直してきたことの表れとみることができる。ただ、分権が自立心を育てる一方で、間接部門の重複やシナジーの取りこぼしという代償を抱える点は、当時から課題として自覚されていた。

分社体制はその後定着し、瀧原賢二社長が「強み」と呼ぶまでに至った。もっとも、事業会社ごとに損益責任を負わせる仕組みは、稼ぐ事業と稼げない事業の輪郭を鮮明にする。実際、この体制のもとで医薬事業はのちに畳まれ、海外製粉は大きな減損を経験している。分権は各事業の当事者意識を高める反面、成績の振るわない事業の去就を早く問う圧力にもなる。集権と分権のどちらが正解かというより、日清製粉がそのつど組織の形を選び直してきたこと自体に、この会社の経営のかたちがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

集権化した20年——NI-90計画と子会社の吸収

日清製粉は長く事業部門制を敷き、多角化した製粉・食品・飼料・医薬の各部門を本体のなかに抱えてきた。1987年に始めたグループ革新計画「NI-90」では、日清フーズと日清化学の両社を本体へ吸収合併し、多角化した事業群を一元管理する体制へと再編した。子会社に散らばっていた戦略の舵取りを本社へ引き寄せる、集権化の動きであった[1]

もっとも、事業部門制からカンパニー制へと形を変えながら束ねる運営には、限界も見えていた。分社の半年後に村上一平常務は、この二十年来の事業部門制について「これでは限界がある」と振り返っている。異なる業態を本体のなかに並べて動かす体制は、各事業の意思決定の速さや当事者意識という点で重くなりがちであった[2]

会社再編ブームと会社分割法制の整備

2000年前後の日本では、会社再編がニュースを賑わせていた。デフレとグローバル化のなかで競争が激しくなり、各社が自社にとって本当に必要な事業を見極め、力を集中させることを迫られていた。2001年4月には会社分割についての法制が整い、持株会社への移行を含む再編が、それまでより機動的に行えるようになっていた[3]

誌面はこの再編ブームを「企業の構造改革にほかならない」と位置づけ、事業ごとの収益性・成長性を見極めて必要な事業を選び取る決断が各社に迫られていると論じた。事業を切り分けて独立させる手法が広がるなかで、多角化した事業群を一つの法人に抱え続けることの重さが、問い直されるようになっていた。日清製粉の持株会社化も、この同時代の空気のなかに置かれていた[4]

決断

全事業の再分社と純粋持株会社化

2001年7月、日清製粉は製粉・食品・飼料・ペットフード・医薬の各事業部門を分社し、本体を製造・販売機能を持たない純粋持株会社へと改めた。本体の社名も「日清製粉グループ本社」へと変え、傘下に日清製粉・日清フーズ・日清飼料・日清ペットフード・日清ファルマといった事業会社を並べた。1987年のNI-90計画で子会社を本社へ吸収した集権化とは、ちょうど逆向きの動きであった[5][6]

分社のねらいは、各事業会社を名実ともに自立・独立させることに置かれた。村上一平常務は、事業部門制からカンパニー制まで進めてなお足りないとして、「さらに進めて全事業を分社し、名実ともに自立・独立させることを狙った」と語っている。一つの法人のなかで部門として動かすのではなく、それぞれを独立した会社として損益に責任を負わせる体制への切り替えであった[7]

自立を促す仕組み——給与と損益責任

自立を促すために、給与体系と賞与は各事業会社ごとに組み直された。事業会社のなかで十分な収益を上げなければ満足な給料が得られない仕組みとし、部門の成績を社員の処遇に直結させた。分社は器の付け替えにとどまらず、働く人の損益への意識を変えることまで射程に入れた再編であった[8]

純粋持株会社の傘下に事業会社を置く形は、間接部門が重複して肥大化しやすいという難点も抱えていた。日清製粉はこれに対し、各事業会社の間接部門をグループ本社のスタッフの出向でまかない、グループ全体の間接人員を従来どおりに収める形をとった。首位の製粉が生む安定した収益が、こうした組織の大きな組み替えを支える土台になっていた[9]

結果

分社体制の定着と「強み」への転化

分社から半年強がたった時点で、正田修社長は「各事業会社の社長が、社長らしい顔つきになってきた」と手応えを語っていた。村上一平常務も、社員のあいだで「わが社=各事業会社」という意識が芽生え、自立心が強まったと述べている。一方で、各事業会社の損益評価を徹底し、場合によっては撤退の決断を下せるか、異なる業態を束ねるシナジーをどこまで引き出せるかが、残された課題として意識されていた[10][11]

この分社体制は、その後のグループ経営の骨格として続いた。2022年に社長となった瀧原賢二氏は、2001年の分社を振り返って分社化こそがグループの強みだと述べ、7つの事業部門にそれぞれ社長を置く体制が各事業の機動性を支えていると位置づけている。決算説明会でも、この分社体制を「各事業会社がそれぞれの業界にベストフィットできる仕組み」と説明した。一度は本社へ吸収した事業を再び切り分けた判断が、二十年を経て同社の自己認識の中心に据えられた[12][13]

出典・参考