「拡大」路線からの転換と食品・酒類事業の売却

宮崎輝氏の急逝を境に、旭化成は「健全な赤字」の経営からどう転じたか

更新:

時期 1993年9月
意思決定者 山本一元(社長)・弓倉礼一 前社長、1993年当時
論点 拡大路線からの転換と非中核事業の整理
概要
1992年、31年間旭化成を率いた宮崎輝氏が急逝したことを契機に、後任の弓倉礼一氏、続く山本一元氏の経営陣は「拡大」路線からの転換に着手した。部門別バランスシートの導入とROE経営への転換を通じて非中核事業の整理を進め、1999年から2003年にかけて食品・酒類事業を段階的に売却した。
背景
宮崎氏は1961年の社長就任から31年間、「健全な赤字」を掲げて繊維の利益を石油化学・住宅・医薬・食品・酒類へ次々と投じ、旭化成を1兆円企業へ育てた。だがバブル崩壊後の不況下では、この多角化が経営資源の分散による効率低下という課題として表れた。
内容
弓倉礼一社長は1993年度から不採算の新規事業からの撤退とコア事業の絞り込みに着手し、後任の山本一元社長は1997年に部門別バランスシート管理制度を導入してROE経営へ転換した。1999年7月に食品事業をJTへ、2002年9月に焼酎・低アルコール飲料事業をアサヒビール・ニッカウヰスキーへ、2003年7月に清酒・合成酒事業をオエノンHDへそれぞれ譲渡した。
含意
「拡大」路線からの転換は、雇用維持を前提とした緩やかな整理という旭化成固有の制約のもとで進められ、後年のマテリアル・住宅・ヘルスケアという三事業体制、さらに2010年代以降の海外M&A戦略への布石となった。
筆者の見解

「健全な赤字」から資本効率経営へ——この転換をどう見るか

この経営判断の核心は、宮崎輝氏という一人の経営者に31年間集中してきた意思決定の構造そのものを、後任の経営陣が資本効率という客観的な指標へ置き換えようとした点にある。「健全な赤字」は右肩上がりの成長期には多角化を前へ進める推進力であったが、成長が止まれば個々の事業の非効率を覆い隠す仕組みへと変わりかねない。宮崎氏の急逝という偶発的な契機がなければ、この転換がどれほど遅れていたかは分からない。

もっとも、部門別バランスシートの導入から食品・酒類事業の売却完了まで10年を要した歩みは、旭化成が雇用を守りながら事業を組み替える経路を選んだ結果でもある。段階を踏んだ譲渡という手法は、その後のマテリアル・住宅・ヘルスケアという三事業体制、さらに2010年代以降の海外M&Aによる成長戦略へと引き継がれていった。「拡大」の31年から「選択と集中」の30年へ——この転換点は、旭化成のその後の骨格を規定したとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

宮崎輝氏の31年間と「健全な赤字」による多角化

宮崎輝氏は1961年の社長就任から1992年に代表取締役会長として急逝するまでの31年間、旭化成の経営中枢に座り続けた。合成繊維で得た利益を次々と新規事業に投じる「健全な赤字」の考え方を掲げ、事業を石油化学、住宅、医療機器、医薬品、食品、酒類へと広げ、1995年度に旭化成を売上高1兆円規模の企業へ押し上げる基盤を築いた。「たとえ後発でも思い切った投資をして、とにかく売り上げを増やしていけば利益が出るようになる」というキャッチアップ型の経営手法は、右肩上がりの成長期には有効に機能した[1][2]

1992年1月には東洋醸造を合併し、医薬品と酒類の事業基盤を取り込んだ。だがバブル崩壊後の不況下では、この多角化路線の負の側面が表面化した。旭化成財務部の橋本隆司財務情報室長は当時の状況を「一兆円企業のドンブリ経営」と呼び、赤字の垂れ流しはもはや将来の成長を約束しなくなったとの見方を示した。3期連続の経常減益となった1993年度、旭化成はコア事業の選定から漏れた新規事業について、大型投資を実施したばかりのものであっても撤退する方針を固めた[3][4]

弓倉礼一社長によるリストラ着手と「タコ壺」からの脱却

宮崎氏の社葬と株主総会を終えた1992年6月、弓倉礼一社長は当時の石油化学担当役員と「経営環境は一変し、大口需要家の自動車産業は、かつてほど成長しない」と話し合い、全方位の拡大路線を改めなければならないと痛感したと振り返っている。弓倉社長は同年8月、若手部長クラスで構成する「経営活性化委員会」を発足させ、各事業部門の投資余力や競争力を評価する報告書の作成を命じた。報告書には「事業絞り込みなど、そのまま実行すると倒産してしまいそうな大胆な提言」が盛り込まれたという[5][6]

弓倉社長は各事業部門長について「部門長は優秀な連中だが、タコ壺に入ってしまっている。自分の部門の関連事業にだけとらわれて経営環境の変化に気づかない」と述べ、タコ壺から引きずり出すショック療法が必要だったと説明した。実際、有形固定資産回転率は1991年3月期の3.0回から1993年3月期には2.63回まで低下し、稼ぎ頭だった化成品・樹脂事業分野の経常利益も1990年3月期の407億円から1993年3月期には70億円まで落ち込んでいた[7][8]

決断

山本一元氏の登板と部門別バランスシートの導入

1997年5月15日、次期社長への昇格が決まった山本一元副社長は記者会見の場で「資本効率重視の経営に変えていきたい」と自身の方針を表明した。会見は山口信夫会長兼CEOが引き続き社内序列の首位にとどまることもあり「実質上トップに変動なし」と冷めた受け止め方をされたが、山本新社長の胸中には旭化成の社内分社化を進め、最終的には純粋持株会社の方向へ向かうという道筋が描かれていたという[9][10]

山本新社長は就任にあたり「旭化成は中小企業の寄せ集め。600億円の会社(事業部)が出した赤字でも、一兆円の会社という意識があるため、どうしても受け止め方が甘くなる」との認識を示し、1997年度から従来の28事業部を12部門に再編する部門別バランスシート管理制度を導入した。各部門の損益をROE(株主資本利益率)やROA(総資産利益率)を中心とした資本効率の指標で評価する体制へ切り替え、連結ベースのROEは2000年度に8%を目指す目標を掲げた[11][12]

「多角化の解体」の具体化と食品事業売却の発表

1997年6月の就任演説で「宮崎輝社長時代の多角化経営を資本効率重視に修正する」と述べた山本社長のもとで、旭化成の「多角化の解体」は1998年11月の天昇電気工業の持ち株売却を皮切りに具体化した。1999年1月末には、8子会社を含む食品事業(売上480億円、従業員390人)を日本たばこ産業(JT)へ売却すると発表し、部門別バランスシートで整備した事業別の財務情報が交渉の速さにつながったという[13][14]

「選択と集中」の焦点は医薬と半導体に移り、宮坂真也常務・経営計画管理部長は「今後、あっと驚くような話も出てくるかもしれない」と語った。医薬(および酒類)は1992年に合併した旧東洋醸造の事業が主体で、骨粗鬆症剤や抗生物質、全国自社販売体制の取り込みが当初の狙いだったが、医薬事業の年商は470億円にとどまり、業界の中堅以下という規模にとどまっていた[15][16]

結果

段階的な譲渡による食品・酒類事業からの完全撤退

食品事業は1999年7月にJTへ譲渡され、続いて2002年9月には焼酎・低アルコール飲料事業がアサヒビールとニッカウヰスキーへ、2003年7月には清酒・合成酒事業がオエノンホールディングスへそれぞれ譲渡された。1992年の東洋醸造合併から10年余りをかけて、宮崎時代に取り込まれた食品・酒類の事業群は整理され、化学・住宅・ヘルスケアを軸とする事業構成への集約が進んだ[17][18]

一橋大学の伊藤邦雄教授との対談で山本社長は、これまでの日本経済は高度成長に甘え、なまじの成功体験があったために改革も遅れてきたと振り返った。伊藤教授は「選択と集中を実行する場合、よって立つ判断基準やガイドラインがハッキリしていないと、撤退する事業部からは猛烈な反発が生じる」と指摘し、山本社長は「経営者がまず着手しなければならないのは、どの分野で勝負するのかという点を明快にすることである」と応じている[19][20]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年9月6日号「旭化成、『拡大』からの撤退。会長・社長の二人三脚経営がスタディ始動」
  • 週刊東洋経済 1997年6月14日号「企業レポート旭化成・山本次期社長が挑む社内改革」
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 旭化成工業 宮崎時代の『多角化解体』が本格化」
  • 週刊東洋経済 1999年10月30日号「経営者は自分で最後まで考え抜け」対談 山本一元×伊藤邦雄
  • 旭化成 有価証券報告書【沿革】