フロッピーディスク事業からの全面撤退——「本業回帰」の宣言
売上約800億円に育った情報事業を、なぜ後藤卓也社長は一度の決算で畳み、退路を人事で断ったのか
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- 概要
- 1998年、花王の後藤卓也社長は、売上高で約800億円に達したフロッピーディスク事業からの全面撤退を決めた。得意とするパーソナルケアとハウスホールドの家庭用品をコア事業と定めて集中する一方、撤退の経営責任として一部の役員を降格させ賞与をカットし、退く判断を人事の面でも固定した経営判断である。
- 背景
- 花王は1985年、洗剤で培った界面活性技術の異業種応用としてフロッピーディスク事業に参入し、海外OEMを軸に売上高を約800億円規模へ伸ばした。だが主力の欧米市場は頭打ちとなり、記録媒体の単価は下落を続けた。メディアだけを手がけハードもソフトも持たない事業構造では、市場の変化に振り回されやすかった。
- 内容
- 1998年、後藤卓也社長は情報事業からの全面撤退を決め、パーソナルケアとハウスホールドへ資源を集中した。経営責任の取り方には差をつけ、大幅にカットされた役員もゼロに近い役員もいた。対象は代表取締役の全員と情報事業を担当した取締役で、埋没費用に拘泥せず退路を人事で断つ処理を選んだ。
- 含意
- 撤退の後、花王は同じ1999年にEVA経営を導入し、共通ブランドによる本業のグローバル化へ転じた。減損や人員の再配置を一度の決算で処理し責任を人事で固定する手順は、以降の不採算事業整理の基本動作となった。1978年の攻めの設備投資と対をなす、退く判断の一例といえる。
退く判断という作法
この撤退が際立つのは、成長を見込んで広げた事業を、なお赤字に落ちる前に、経営陣の責任を明示しながら畳んだ点にある。界面活性の技術がフロッピーディスクの製造と地続きであったことは確かで、その連続性が10年近い投資を後押しした。けれども、技術がつながっていることは、事業が続けられることを保証しない。記録媒体という商品が単価の下落から逃れられない構造に入ったとき、花王は技術の連続性に引きずられず、事業としての採算で退く側へ回った。設備で事業転換を固めてきた会社が、今度は撤退を人事で固めた点に、進む方向と退く方向のどちらでも後戻りを許さない発想がうかがえる。
1978年に丸田芳郎社長が3年で1200億円を超える投資を本業へ振り向けた攻めの判断と、この1998年の退く判断は、表裏をなしているとみることができる。攻めるときも退くときも、判断を速く下し、それを設備や人事で不可逆に固定する——花王の一貫した手つきが、二つの場面に共通して表れている。もっとも、事業の畳み方に作法を持つことと、次に何を育てるかを見いだすことは別の課題である。本業へ戻った花王が、成熟した家庭用品市場でどれだけ新しい需要を掘り起こせるか。退き方の巧みさは、その後に立ち上げる事業の大きさによって、初めて意味を与えられるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
界面技術の異業種応用として広げた情報事業
花王がフロッピーディスクの大手メーカーであった事実は、当時あまり知られていなかった。参入のきっかけは、1980年に丸田芳郎社長が打ち出した基礎研究の拡大策にある。石けん・洗剤で蓄えた化学とは異質の領域へあえて踏み込む方針のもとで応用物理の研究室が置かれ、そこから生まれたのがフロッピーディスクであった。1985年に国内で発売した際には、洗剤メーカーがなぜ記録媒体を手がけるのかと業界に訝られたが、花王は本業と地続きの技術を武器に後発参入へ踏み切った[1]。
事業を支えたのは、洗剤で磨いた界面活性の技術であった。磁性粉を接着剤と均一に混ぜる分散剤が製品の劣化を招く弱点に着目し、界面活性技術で磁性粉の表面を改善して分散剤を使わずにフィルムへ付着させる方法を編み出した。花王はこの技術を武器に、自社ブランドではなく相手先ブランドによる生産、すなわちOEMで海外市場を攻めた。カナダやスペイン、米国に生産拠点を設け、1991年には全世界の売上高が約250億円規模へ達し、カナダで首位、米国でも上位を狙う勢いを見せていた[2]。
欧米市場の頭打ちと単価の下落
急成長は長くは続かなかった。主力の欧米市場は成熟して成長に陰りが差し、花王は競争の激しい国内市場の開拓に向かわざるを得なくなった。だが国内の価格競争は苛烈で、5年ほど前に1枚300円していた製品が1990年代初めには130円台も珍しくない水準まで落ち込み、約15社のメーカーがひしめいていた。記録媒体という商品は、技術で先んじても単価の下落が収益を削り続ける構造にあり、後発の花王には価格政策で追随する以外の手立てが乏しかった[3]。
花王の情報事業は、フロッピーディスクという記録媒体だけを手がけ、パソコン本体もソフトウエアも持たなかった。そのため市場の規格や需要が動くたびに振り回され、変化を主導する側には回れなかった。10年近くにわたって全社を挙げて拡大に力を入れ、売上高はピーク時に約800億円規模へ育ったものの、記録媒体の単価が落ち続ける構造のなかで事業の先行きは細っていった。総合情報産業としてソニーや松下電器産業のように生きる道は、花王には初めから開かれていなかった[4]。
決断
800億円の事業を畳み、コア事業へ戻る
1998年、後藤卓也社長は、売上高で約800億円に達したフロッピーディスク事業からの全面撤退を決めた。市場変化に振り回されるだけの事業を抱え続けるより、得意な領域へ資源を戻す判断であった。後藤社長が掲げたのは、パーソナルケアとハウスホールドと呼ぶ家庭用品を花王のコア事業と定め、そこへ集中する方向であった。総合情報産業をめざして規模を広げる道を捨て、界面や油脂の技術が本来の強みを発揮できる本業へ立ち返る筋道を、対外的にも明確に示した[5]。
退いた先の家庭用品市場も、決してやさしい環境ではなかった。日本国内は完全な成熟市場に入り、購入単価も下がっていて、新しい市場を創造できる製品を生み出せるかどうかに成長がかかっていた。それでも後藤社長は、撤退が社内に縮小均衡の空気を招くことを避けられたとみていた。実際、情報事業を手放したのちも決算は増益を続け、連結経常利益は過去最高を記録し、撤退の影響はほとんど感じられないと社長自身が語った[6]。
役員降格と賞与カットで責任を固定する
後藤社長は、撤退を数字の処理だけで終わらせなかった。これだけ大きな事業をいったん広げたうえでの撤退は見通しの甘かったトップ経営層の責任であるとして、けじめをつける必要があると考えた。赤字決算ではなく株主への配当に影響は出ていなかったが、それでも一部の役員を降格させ、賞与をカットした。撤退にともなう痛みを、事業に携わった社員だけでなく、判断を下した経営陣の側が引き受ける形を選んだ[7]。
責任の取り方には、はっきりとした差がつけられた。役員全員が一律に一定割合を減らす横並びの処理ではなく、大幅にカットされた役員もいれば、ゼロに近い役員もいた。対象は代表取締役の全員と情報事業を担当した取締役で、それぞれが事業にかかわった過程まで踏まえて重みづけが決められた。すでに投じた費用に拘泥せず、退く判断を人事の面で不可逆に固定するこの手順は、花王が撤退を後戻りさせないための作法であったといえる[8]。
結果
本業回帰と、退き方の前例化
撤退の後、花王は成長の軸をはっきりと本業へ寄せた。同じ1999年4月には経済付加価値、すなわちEVAという経営指標を全面的に導入し、投じた資本に対してどれだけ価値を生んだかで事業を測る物差しを社内に敷いた。撤退で身軽になった事業構成の上に、資本効率を問う指標が重なったことで、何にどれだけ資本を振り向けるかを全社で同じ尺度で議論できる構えが整った。情報事業という重荷を下ろしたことは、単なる縮小ではなく、経営の判断基準そのものを組み替える動きの始まりでもあった[9]。
本業回帰は、海外戦略の描き直しもともなった。国ごとに別のブランドを立ててきたやり方を改め、ビオレやロリエといった共通のブランドで世界へ打って出る方針へ転じ、投資効率を軸にコア事業をグローバル化する道を選んだ。そして撤退そのものの手順、すなわち減損や人員の再配置を一度の決算で処理し責任を人事で固定するやり方は、以降の不採算事業の整理でも繰り返し参照される前例となった。退く判断を速く、後戻りできない形で下す作法が、この撤退を通じて組織のなかに根づいたとみられる[10]。
- 日経ビジネス 1992年5月18日号「花王 海外OEM戦略に転機 価格下げFD国内認知へ」(日経BP)
- 日経ビジネス 1999年6月14日号「編集長インタビュー 後藤卓也氏[花王社長] 800億円の情報事業捨て本業回帰 新製品開発しトップを走り続ける」(日経BP)
- 花王 会社年鑑(連結業績・1998年3月期)