京王百貨店の構造改革——自主MD化と専門大店化

問屋任せの「殿様商売」から、自ら仕入れ売る百貨店へ——川村六郎氏はどう改革を主導したか

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時期 1994年11月
意思決定者 川村六郎 京王百貨店 社長
論点 百貨店の仕入れ体制と業態
概要
1993年6月に京王ストア社長から転じた川村六郎氏が京王百貨店社長に就任し、94年下期から、仕入れから販売までを自社で手掛ける「自主MD」への転換と、地域の客層に品ぞろえを絞る「専門大店」化を柱とする構造改革に着手した経営判断である。
背景
バブル崩壊で百貨店業界全体に地盤沈下が広がり、新宿という立地の強みだけでは競争に勝てなくなっていた。京王百貨店は、仕入れの大半をメーカー・問屋に委ねる従来の経営から抜け出す必要に迫られていた。
内容
スーパー出身の川村六郎氏が経営改革を主導し、紳士服PB「メンズK」の導入、自主運営売り場を4割へ引き上げる目標の提示、若年層照準の郊外専門大店「KEIO21」の出店などを進めた。
含意
改革は派遣店員の削減など摩擦を伴ったが、90年代後半には同業他社に伍する業績として結実し、2000年代にはバイヤー個人の裁量による品ぞろえ改革にまで根づいた。
筆者の見解

どこまでが経営改革の成果か

この構造改革の核心は、赤字による差し迫った危機対応ではなく、新宿という立地に安住してきた経営体質そのものへ、スーパー出身の経営者が外から切り込んだ点にある。川村六郎氏が「百貨店経営はマネジメント不在」と公言し、仕入れをメーカー・問屋に委ねてきた商慣行に自主MDという対抗軸を持ち込んだことは、電鉄系百貨店の多くが同時期に抱えていた課題への、ひとつの応答だったとみることができる。

もっとも、改革が定着した決め手は経営トップの号令だけではなかったとも思える。紳士服の竹口英勝部長や婦人服バイヤーの小幡由紀氏のように、現場の担当者がデータを読み解き、仕入れ・品ぞろえの裁量を自ら引き受けたことが、90年代の掛け声を2000年代の実務へつないだ面は大きい。ターミナル立地という強みに頼れなくなった百貨店が、次にどこで稼ぐかという問いは、新宿再開発が進む今日の京王グループにも形を変えて残っている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

新宿の立地に頼れなくなった百貨店経営

新宿駅に直結する京王百貨店は、1961年の設立以来、日本有数のターミナル立地という強みを頼りに営業を続けてきた。バブル崩壊で百貨店業界全体に地盤沈下が広がると、東京・日本橋の老舗百貨店から郊外沿線の電鉄系百貨店まで、軒並み売り上げが前年を割り込んだ。京王・小田急など沿線に百貨店を持つ電鉄各社は、地域住民のニーズを掘り下げて商品数を絞り込む「専門大店」化に活路を求め始めていた[1]

京王百貨店の社長には、1993年6月、京王ストア社長を務めていた川村六郎氏が転じて就いた。1935年に岩手県で生まれた川村氏は、1959年に中央大学法学部を卒業して京王帝都電鉄に入社し、63年に京王食品(現・京王ストア)へ出向、90年に同社社長となった経歴を持つ。スーパー経営の目で百貨店を見た川村氏は、就任からほどなく日本百貨店協会の講演で「百貨店経営は売り上げあって管理なし」と発言し、業界内に波紋を広げた[2]

京王ストアでの再建経験

川村氏がスーパー経営の厳しさを叩き込まれたのは、京王食品(現・京王ストア)への出向時代であった。1963年に設立されたばかりの同社は、店舗数を増やす一方で人材の育成が追いつかず、累積赤字が60億円規模に達する苦境に陥っていた。事業を軌道に乗せるには人を育てる時間が要るという、小売業の基本を欠いたままの拡大であった[3]

このままでは京王グループ全体の経営に響くと判断した京王帝都電鉄は、常務(当時、のち京王帝都電鉄会長)だった桑山健一氏を1975年ごろに京王ストア社長として送り込んだ。次長だった川村氏は、桑山氏の厳格な指導のもとで従業員とともに立て直しに当たり、3年で累積赤字を解消させた。この再建の経験が、のちに百貨店改革へ挑む際の下敷きになったとみられる[4]

決断

郊外専門大店「KEIO21」と自主MD目標

1994年9月15日、京王八王子駅前に郊外型の専門大店「KEIO21(ツー・ワン)」が開業した。運営するのは京王百貨店と京王帝都電鉄の共同出資で設立された京王企画である。開店前には約5000人が行列をつくり、テープカットには社長や地元有力者ではなく、地元在住の20代の女性会社員3人が並んだ。紳士服や呉服といった百貨店の定番商品を扱わず、大学・短大21校を抱える八王子の学生や若い層を意識した品ぞろえに徹底して絞り込んだ店づくりであった[5]

川村氏は自主MD(マーチャンダイジング)を「商品を企画し、仕入れ、販売計画を立て、売価を付け、売るところまで自社で手掛けること」と定義し、当時数%にとどまっていた自主運営売り場のシェアを将来40%まで引き上げる目標を掲げた。仕入れ先の問屋に対しては派遣する人数を減らし、その分の人件費を京王側へ回すよう求め、売り場を社員だけで運営する「自主型運営売り場」と派遣店員中心の「委託・管理型運営売り場」の2タイプに分ける計画を打ち出した[6]

紳士服PB「メンズK」——自主MD復活の先発隊

改革の意識を現場に示す具体例として白羽の矢が立ったのが紳士服売り場であった。営業政策部で商品や店舗運営の企画に携わっていた竹口英勝紳士服飾部長は、1993年4月に13年ぶりに売り場へ復帰した。当時のスーツ平場は1000円刻みで4万9000円から12万5000円まで45種類ものプライスラインが並び、異なるブランドの類似商品が競合するなど、仕入れをメーカー任せにしてきたことの帰結ともいえる混乱ぶりであった[7]

竹口部長は、パソコン用ソフトでスーツを単品管理し、45種類あったプライスラインを94年秋に7種類へ絞り込むとともに、12ブランドを4ブランドへ整理した。この体制のもとで1月に売り出した紳士服PB「メンズK」は、4万8000円から7万8000円までの価格帯をナショナルブランドより2割程度安く設定し、95年春夏物ではスーツ平場の面積の60%以上を占めるまでに広がった。96年秋冬物からは売れ残りのリスクを自社が負う完全買い取り制へ移行する計画も示された[8]

結果

新宿・西口「大衆路線」としての善戦

改革から数年後の1998年、京王百貨店新宿店の売上高は前年比4.1%減にとどまり、都内百貨店平均の同19.9%減(90〜98年累計)に比べて健闘した。1999年の東洋経済の調査は、この善戦の要因を「京王ストア社長を経て93年6月に就任した川村六郎社長による改革」に求め、機械化による3割近い減員と、93年10月の食品売り場からの改装に始まる「新・大衆百貨店」への転換を挙げている[9]

改革の狙いは、富裕層ではなくサラリーマン層を主な客とし、従来の百貨店にはなかった安価な商品や福引きといった庶民的な販売手法もいとわない点にあった。京王百貨店自身も「伊勢丹とはかなり違う百貨店になった。だが新宿の街という大きな売り場の中で埋没しないことが肝心。もう吹っ切れた」と、新宿の同業各社との違いを鮮明にする方向を選んだことを認めている[10]

バイヤー主導の品ぞろえへ——自主MDの現場定着

改革が現場のバイヤー個人の裁量にまで根づいた例は、2003年の東洋経済の記事に描かれている。京王百貨店新宿店は1996年の新宿高島屋開店を機に中高年重視の店づくりを進め、4階ミセスフロアの年間売上高は110億円に達していた。婦人服第2部でボトム(パンツ)を担当する小幡由紀バイヤーは、顧客からの「お直し」伝票を1枚ずつ調べ、メーカーが72〜74センチメートルで作るパンツの股下を、実際には66〜68センチメートルに直す客が最も多いというデータを見いだした[11]

小幡バイヤーはこのデータをメーカーに示し、丈を60〜72センチメートルまで2センチメートル刻みで選べるパンツを作らせ、2002年秋に売り出した。パンツの売上高は前年比で2002年秋が2倍、03年春が2.3倍に伸びた。仕入れ先に注文をつけるだけでなく、自らデータを分析して商品仕様まで踏み込んで決める――川村氏が93年に掲げた自主MDの理念は、10年を経て売り場末端の一バイヤーの仕事として形になっていた[12]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1994年11月28日号「京王・小田急 電鉄系百貨店サバイバル戦略 地域密着、商品絞り「専門大店」化 ターゲットは団塊ジュニア」
  • 日経ビジネス 1995年1月30日号「編集長インタビュー 川村六郎氏[京王百貨店社長] 小売業のプロ育つ百貨店に。自主運営売り場40%目指す」
  • 日経ビジネス 1995年3月20日号「京王百貨店。紳士服、PB6割へ拡大 自主MD復活の先発隊」
  • 週刊東洋経済 1999年5月1日号「新宿「大膨張」」
  • 週刊東洋経済 2003年8月9日号「[マーケティングの達人に会いたい]No.15 中高年女性の心をとらえたきめ細かい品ぞろえ 京王百貨店婦人服第2部バイヤー(ボトム担当) 小幡由紀さん」