ROICを軸にした資本効率経営への転換と事業ポートフォリオの選択と集中

「額」から「率」へ——約312億円の減損を機に、西井孝明社長は総合食品メーカーの資本配分をどう作り替えたか

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時期 2019年5月
意思決定者 西井孝明 味の素 社長
論点 資本配分の作法と事業ポートフォリオの選別
概要
2019年、味の素が西井孝明社長のもとで、投下資本利益率(ROIC)を中核の経営指標に据え、規模の追求から資本効率の重視へと経営の方針を切り替えた判断。2019年3月期の約312億円の減損を機に、六つの重点事業への集中と非重点事業のアセット圧縮、政策保有株の売却、黒字下の希望退職を一体で進めた。
背景
2010年代、味の素は「世界トップ10」を掲げて海外食品や飼料用アミノ酸へ資本を投じ規模を追ったが、投下資本の回収検証を欠き、営業利益率は7%ほどと、ネスレの15%やクラフト・ハインツの22%に遠く及ばなかった。2016年には円高と飼料市況の低迷で“独り負け”と評され、2019年3月期に約312億円の減損として構造問題が表面化した。
内容
事業ごとにROICを算定して資本コストと比較し、低収益事業に資本効率の観点から説明責任を負わせた。六つの重点領域へ集中し、動物栄養やコーヒーなど低採算事業を縮小・整理する一方、政策保有株を売却して資産を圧縮した。2019年11月には黒字のなかで50歳以上の管理職を対象に希望退職を募り、144人が応募した。
含意
危機時の非常手段とされてきた人員削減や事業整理を、平時の資本効率経営として制度化した。当初1,000億円としたアセットライトを2,000億円規模へ拡大し、2021年3月期に連結営業利益は倍増した。この資本効率経営は、2023年の「中期ASV経営」へと引き継がれた。
筆者の見解

「額」から「率」へ、味の素が変えた資本配分の作法

この判断の核心は、業績が傷んだなかで、味の素が事業の中身より先に「資本をどう配るか」という作法そのものへ手を入れた点にある。総合食品メーカーとして多様な事業を抱え込むなかで、売上の大きさや技術的な正しさ、社会的な意義といった物差しは、ときに投下資本の回収という問いを覆い隠してきた。ROICという共通の尺度を持ち込み、事業を「率」で横並びにしたことは、抱えるか手放すかの判断を情や理念から切り離し、資本効率の言葉で語り直す試みであったとみることができる。減損という痛みを管理手法の刷新へ転じた点に、この転換の性格がうかがえる。

もっとも、率を追う経営には、別の緊張もつきまとう。資産を圧縮して分母を小さくすれば率は上がるが、それは将来の成長のための投資を細らせる面と隣り合わせでもある。黒字下の希望退職や事業の撤退は、資本効率を高める一方で、組織の活力や現場の納得をどう保つかという問いを残した。味の素の資本効率経営は、2023年の「中期ASV経営」で社会価値と経済価値の両立という枠組みへ引き継がれていくが、「額」から「率」への転換が長期の成長とどう折り合うかは、投資を細らせずに資本効率を高められるかという課題として残されているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

規模を追った末の「独り負け」

味の素は、2015年に就任した西井孝明社長のもとで「2020年に食品メーカーの世界トップ10クラス」を掲げ、海外調味料や新興国市場での規模拡大を追っていた。しかし2016年11月、同社は2017年3月期の通期見通しを下方修正し、食品各社が相次いで上方修正するなかで独り減益に転じ、“独り負け”と評された。円高の直撃と、飼料用アミノ酸の市況低迷が重なった結果であった。売上高営業利益率で見ると、ネスレの15%、クラフト・ハインツの22%に対し、味の素は7%ほどにとどまっていた[1]

規模の拡大は続いても、投じた資本に見合う利益が伴っていない——この乖離が、味の素の課題として横たわっていた。2010年代を通じて、同社は海外食品や飼料用アミノ酸などへ資本を投じて売上を伸ばす一方、その投下資本が十分な利益を回収できているかの検証を欠いたまま拡大を進めた面があった。西井社長は2017年からの中期経営計画で事業の利益率やROE(自己資本利益率)を掲げたものの、規模を追う経営の体質そのものは、なお残されていた[2]

減損312億円という警鐘

規模優先の資本配分のひずみは、2019年3月期の決算で数字となって表れた。味の素はこの期、海外食品事業を中心に約312億円におよぶ減損損失を計上した。連結売上高は1兆1,143億円と横ばいながら、営業利益は536億円、親会社の所有者に帰属する当期利益は296億円へと前期からほぼ半減し、増収減益の厳しい決算となった。買収したアフリカのプロマシドール社の商標権など、海外で積み上げた資産が、期待した収益を生まないまま減損の対象となった[3]

この減損は、経営陣に管理手法の見直しを迫る警鐘として働いた。売上の成長を優先し、投下資本が生む利益を十分に検証しないまま2010年代を通じて進行した資本配分の構造問題が、ここで一挙に表面化した。同社はこの決算とあわせて、調味料やアジアン冷凍食品、ヘルスケアなど六つの重点事業領域への集中と、非重点事業のアセット(資産)縮小へ舵を切ると表明し、規模の拡大より資本効率を重んじる経営へと切り替えた[4]

決断

事業ポートフォリオの選別とアセットライト

2019年5月、味の素は減損決算とあわせ、事業ポートフォリオの選別を明確に打ち出した。調味料やアジアン冷凍食品、ヘルスケアなど六つの重点領域へ資源を集め、成長も収益も見込みにくい非重点事業はアセットを縮小する。中期経営計画づくりのなかで、約1,000億円規模の資産圧縮を最低限の目標として掲げた。伸びる事業には設備投資を続けつつ、全体の資産は増やさない——重点への集中と非重点の圧縮を同時に進める枠組みへ、経営の運び方を切り替えた[5]

選別の対象には、長く抱えてきた低採算事業が並んだ。飼料用アミノ酸を扱う動物栄養事業は、中国メーカーの安値攻勢で市況が変動しやすく、コモディティ品を縮小してOEMへ切り替え、付加価値の高いスペシャリティ品へ比重を移す構造改革を進めた。味の素AGF社のリキッドコーヒーは縮小を決め、垂直統合ゆえに切り出しの難しい事業は検討対象として棚卸しした。西井社長は他に選択肢があるのかと社内へ迫り、痛みを伴う整理を経営陣の覚悟として共有しようとした[6]

ROICの全面導入と黒字下の希望退職

資本効率へ舵を切る動きは、2019年12月にROIC(投下資本利益率)を重視する経営として明文化された。味の素は事業ごとにROICを算定し、投資家が求めるリターンの目安である資本コストと比較する仕組みを整えた。事業群は初めて共通の尺度で横並びに比較され、低収益の事業は将来性ではなく資本効率の観点から説明責任を負う立場に置かれた。稼いだ資本をどこへ振り向けるかを、「額」の大きさではなく「率」の高さで測る作法が、経営の日常に組み込まれていった[7]

資本効率への転換は、人員構成にも及んだ。2019年11月28日、味の素は50歳以上の管理職を対象に希望退職を募ると発表した。対象者約800人のうち1割強にあたる100人程度を募る計画で、赤字による危機対応ではなく、黒字のなかで事業の選択と集中を進める一環と位置づけた。募集の結果、応募は144人にのぼり、特別加算金などとして2020年1〜3月期に65億円の費用を計上した。危機時の非常手段とされてきた人員削減を、資本効率経営の実行として平時に踏み込んだ点に、転換の本気度がうかがえた[8][9]

結果

資産圧縮の実行と収益の回復

ROICを軸にした選別は、資産の圧縮となって実行段階に入った。味の素は資本コストを下回るリターンしか生まない政策保有株を売却し、不採算事業の整理と現預金の見直しを重ねて資産を圧縮した。当初は2023年3月期までの3年で計1,000億円としていたアセットライトの目標を、のちに前倒し・拡大し、2019〜2025年度で計2,000億円規模へと引き上げた。投下資本の分母そのものを小さくすることで、資本効率を底上げする道筋を描いた[10][11]

選別と圧縮の効果は、遅れて業績に表れた。2020年3月期は構造改革費用や減損が重なって純利益が落ち込んだものの、資産効率の改善が進むにつれて収益は上向いた。2021年3月期の連結営業利益は1,011億円へと回復し、前期の488億円から倍増した。ROICについても2026年3月期に10%超へ引き上げる目標を掲げ、低採算事業の整理と資産効率の改善で稼ぐ力と資本効率をともに高める循環を動かし、味の素は資本市場からの信認を取り戻していった[12]

出典・参考