いすゞの乗用車事業からの全面撤退と商用車・ディーゼルへの集中
40年続けた乗用車をなぜ手放したか——筆頭株主GMを説得し商用車専業へ絞った決断
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- 概要
- 1992年、連続赤字の乗用車事業について、関和平社長が就任直後に自社生産・開発からの全面撤退を決断した。筆頭株主の米ゼネラル・モーターズ(GM)を自ら説得し、トラック・バスとディーゼルエンジンへ経営資源を集中した、いすゞ最大の選択と集中である。
- 背景
- GM提携下で規模を追った乗用車は黒字化せず、毎年300億円を超える赤字を計上した。91年10月期には単体で483億円の経常赤字を出して無配へ転落。設備投資と車型の膨張が高コスト体質を招き、乗用車が再建の重荷となっていた。
- 内容
- 92年12月の3カ年中期計画で40年続いた乗用車生産にピリオドを打った。ホンダ・日産系・マツダと系列を越えて完成車の相互供給やエンジン供給を組み、トラック・RV・ディーゼルエンジンの3分野に資源を絞り込んだ。
- 含意
- 撤退の最大の壁だった筆頭株主GMを、関社長は「トラック・ディーゼルへの特化が互いの利益になる」と説き伏せた。名門の誇りより身の丈の強みを選んだこの決断が、後年の商用車・ディーゼル専業としての再生につながった。
名門の誇りより、強みをどこに絞るか
この決断の核心は、財務危機そのものよりも、名門の誇りが手放せなかった乗用車を、就任直後の関社長が正面から畳んだ点にある。乗用車を続けていれば技術者が集まる、RVには乗用車の技術が要る——歴代の社長はそう言って撤退を先送りしてきた。関社長は400億から500億円を捨てる覚悟でその連鎖を断ち、トラックとディーゼルという自社の強みへ資源を集めた。参謀として長く問題を見てきた人物だからこそ、就任の機を逃さず切り込めたとみることができる。
最大の難所は、乗用車の供給先でもある筆頭株主GMの説得であった。関社長は外資の意向に従うのではなく、いすゞの強みがどこにあるかを示してGMを味方に変えた。撤退後のいすゞは商用車とディーゼルエンジンの専業として再生し、2020年代には過去最高の利益を重ねる世界的な商用車・ディーゼルメーカーへと育っていく。規模を追うより、自社の強みをどの事業に絞るか——いすゞの乗用車撤退は、その問いに正面から答えた選択と集中の一例である。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
GM提携下で膨らんだ乗用車の重荷
いすゞは1971年に米GMと全面提携し、GMを筆頭株主として乗用車で規模を追った。主力の「ジェミニ」はGMのブランドで北米にも供給され、GMが持たないディーゼルとトラックを担う分業が期待された。だが乗用車は黒字に届かなかった。単発のヒットは出ても事業として利益を残せず、いすゞの乗用車は毎年300億円を超える赤字を出し続けた。商用車で稼いだ利益を乗用車が食いつぶす構図が、1980年代から1990年代へと続いた[1][2]。
赤字の根には、実力を超えて広げた戦線と高コスト体質があった。国内の生産台数は10年で42万台から49万台に増えた程度だったが、車体とエンジンの組み合わせである車型は激増し、小型トラックだけで84年式の314から91年式の686へ倍増した。売れ行きの薄い車型まで設計と部品を抱え、開発と生産の負担が膨らんだ。乗用車をやめられない名門の誇りが、この構造を温存していた[3]。
巨額赤字と無配、瀬戸際からの再建
米国工場への過剰投資も重なり、91年10月期にいすゞは単体で483億8300万円の経常赤字を出して無配に転落した。連結の累積赤字は515億円に達し、大企業病と評される会議偏重の組織風土も業績を蝕んでいた。半世紀を超す名門は、不採算部門をどう畳むかという経営の大本の判断を、もはや先送りできない瀬戸際に立っていた[4]。
立て直しの先頭に立ったのが、1992年1月に社長へ就いた関和平である。企画畑を長く歩き、前社長・飛山一男の参謀として戦略を練ってきた人物であった。就任前から部課長ら700人あまりと対話を重ね、掲げたのは「絞り込みの思考」であった。すべての部門で100点を狙うのではなく、いま何に力を注ぐかを選ぶ。関社長は再建の骨格を、事業の絞り込みに置いた[5]。
決断
乗用車の自社生産・開発からの撤退
関社長の決断は早かった。就任してすぐ、乗用車生産の打ち切りを決めた。新型ジェミニのモデルチェンジは8割方まで進んでおり、生産設備を含めれば400億から500億円を捨てる計算になったが、迷いはなかったという。そして1992年12月19日、3カ年の中期計画で40年続いた乗用車生産の歴史にピリオドを打ち、トラック・RV・ディーゼルエンジンの3分野へ経営資源を集中する方針を打ち出した[6][7]。
撤退にあたり、いすゞは系列の枠を越えた提携で商用車専業への移行を支えた。北米で富士重工と共同生産するRV「ロデオ」をホンダの販売網へ供給し、代わりにホンダの小型乗用車「ドマーニ」を国内で受け取る。マツダにはディーゼルエンジンを供給し、日産系とは小型トラックやバスを融通し合った。自前で乗用車を作らずとも、ブランドと販売網を保つ道を提携で確保した[8][9]。
筆頭株主GMの説得
撤退の最大の壁は、約37.5%を握る筆頭株主GMであった。いすゞは当時、年間6万5000台の乗用車をGMへ供給しており、いすゞを小型車の下請けとして使いたい勢力がGM社内にもいた。乗用車から手を引けば、GMは量販車種を失う。関社長は、20年来の知己でもあったGMのジョン・スミス社長兼CEOに、正面から一言をぶつけた。いすゞを下請けに使うのはGMのためにもならず、GMが持たないトラックとディーゼルへ特化することが互いの利益になる、と[10][11]。
スミス社長はこの考えに賛同し、「いすゞはGMグループのアジア、トラック、ディーゼルエンジンの核」と繰り返し、再建を全面的に支援した。GMとの役割分担が定まると、関社長は国内でも切り込みを進めた。10地域で販社を合併し、94年5月に系列の車体工業を吸収、11月には子会社アイテスの持ち株をニッパツへ譲渡するなど、60近い系列部品メーカーの再編を資本の面からも進めた[12][13]。
結果
現場との対話が支えた急回復
撤退の効果は業績にすぐ現れた。決算期を10月末から3月末へ変えた変則の95年3月期、大型トラックの好調もあり、50億円の見込みだった経常利益は131億円、60億円の見込みだった営業利益は138億円へ拡大した。12カ月に換算すれば16期ぶりの過去最高であった。94年10月期までに計上した186億6800万円の構造改革損失もゼロに転じ、翌96年3月期には連結純利益375億円で本格的な黒字へ戻った[14][15]。
急回復を可能にしたのは、痛みを伴う撤退への現場の納得であった。関社長は開発中止で職を奪われる300人の技術陣と、4、5人ずつ、時に1人ずつ対話を重ねた。最も懸念された他社への技術者流出は、1人も出さずに済んだ。1000人を超える社員との対話で危機感を共有し、乗用車という一事業を畳んだ後も残る高コスト体質という構造課題へ、いすゞは取り組みを続けた[16]。
- 日経ビジネス 1995年6月5日号「いすゞ、関イズム徹底で再生 筆頭株主GMを説得、乗用車“撤退”成し遂げた男」
- 日経ビジネス 1993年2月1日号「いすゞ自動車。トラック、RVに特化 系列越えた提携実るか」
- 日経ビジネス 1992年7月6日号「瀬戸際いすゞ、副作用覚悟の大企業病治療」
- 日経ビジネス 1992年2月24日号「関和平氏[いすゞ自動車]登場 再建めざし絞り込みの思考」
- いすゞ自動車 会社年鑑(連結業績)