本社50人化と持株会社型カンパニー制への移行
本社を投資家に、事業を子会社に——HOYAはなぜ2020人の本体を50人まで削り、成熟事業を切り出したのか
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- 概要
- 1997年4月、HOYAは持株会社を想定した組織改革を断行し、成長事業のエレクトロオプティクスとビジョンケアを社内カンパニー、成熟事業のクリスタル・ホトニクス・ヘルスケアを子会社とした。本社を戦略創造型の少人数組織に絞り、翌1998年4月に独自の資本効率指標SVAを全社へ導入した経営判断。
- 背景
- HOYAは光学ガラスを源流に、成熟事業のメガネやクリスタルから成長事業のガラスメモリーディスク・半導体用マスクまで、関連性の低い五事業を抱えていた。就業形態も労働組合も事業ごとに異なり、成熟事業と成長事業に同じ資産コストを当てはめる経営には無理があった。1994年度からの二年間で役員半減や子会社統合を終え、次の一手を探していた。
- 内容
- 本社は戦略企画・財務・法務・総務を担う戦略創造型本社とし、人事部を置かず各カンパニー・子会社が人事権を持った。本体従業員を2020人から50人へ絞る構想を掲げ、取締役会も16人から8人へ半減した。本社は事業から離れて投資家の役割を担い、各事業は独立企業としてバランスシートを作り業績責任を負った。
- 含意
- 資本コストを上回る付加価値を事業ごとに測るSVA経営が根づき、メガネ事業は高付加価値品への転換で採算を改善した。1998年度に最高益を更新し、この組織と規律は2003年の委員会設置会社移行や後年の事業入れ替え経営の土台となった。
筆者見解
この改革の要点は、器としての持株会社そのものより、事業を切り分けて別々の物差しで測るという発想にあったといえる。関連性の低い五事業を一つの会社で抱える限り、成熟事業のゆるみと成長事業の要求が同じ帳簿の中で相殺され、どこで稼ぎどこで失っているのかが見えにくくなる。カンパニーと子会社へ分け、事業別に資本コストを与えることで、HOYAは各事業に固有の採算をむき出しにした。本社を投資家に見立てる比喩は、その可視化を組織の形にまで徹底した表現だったとみることができる。
一方で、少人数の本社が事業を投資家として律する設計は、そこに座る人と選ぶ事業の中身に成否を託す面を残す。切り分けたうえで撤退や入れ替えを的確に選べなければ、資本効率の物差しは掛け声に終わりかねない。HOYAの場合は、高シェア・高収益のニッチ事業という素地があり、そこへ規律がかみ合った。1997年の組織改革は、後年の委員会設置会社移行やペンタックス買収と事業入れ替えへ続く一連の流れの、最初の骨格を据えた一手であったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
関連性の低い五事業という重荷
HOYAは光学ガラスを源流に、成熟したメガネやクリスタル食器から、成長期のガラスメモリーディスクや半導体用マスクまで、関連性の低い五つの事業を一つの会社に抱えていた。事業ごとに就業形態も待遇も労働組合も異なり、値づけの発想までばらばらであった。成熟事業と成長事業に同じ資産コストの物差しを当てはめる管理には、もともと無理があった。高いシェアと利益率を保ちながらも、社内の事業をどう束ねて評価するかという問いが残されていた[1]。
二年で終えたリストラと、次の課題
組織改革の前に、HOYAは痛みを伴う整理を済ませていた。1994年度からの二年間で、メガネやクリスタルなど22の子会社・関連会社を7子会社に統合し、役員を半減、部課長も半分以上を削り、55歳以上には選択定年制を導入した。1994年度は好業績であったにもかかわらず、全従業員の三分の一を減らした。他社が後年になって着手するリストラを、業績の良い時期に先んじて終えていた。残る課題は、身軽になった事業群を資本効率の言葉でどう動かすかにあった[2]。
決断
1997年4月、2カンパニー・3子会社へ
1997年4月、HOYAは持株会社を想定した組織改革を断行した。ガラスメモリーディスク等のエレクトロオプティクスと、メガネレンズ等のビジョンケアを社内カンパニーとし、補聴器等のヘルスケア、クリスタル食器、レーザー機器のホトニクスという成熟三事業を子会社に切り出した。これに超精密技術の米国法人を加え、二カンパニー・三子会社の布陣を組んだ。連結売上高2100億円程度の中堅企業が、財閥解体以来ほとんど例のない持株会社型の経営へ踏み込んだ点で、社外の注目を集めた[3]。
本社は戦略企画・財務・法務・総務を置くだけの戦略創造型本社とし、あえて人事部を持たなかった。人事権は各カンパニーと子会社に委ね、本社は全体の経営戦略とファイナンス、監査だけを担う。本体従業員を2020人から50人へ絞る構想を掲げ、取締役会も16人から8人へ半減した。社外取締役には日本IBM会長の椎名武雄氏が加わった。鈴木哲夫会長は、本社は50人で十分であり、戦略創造型の本社で最適なポートフォリオを考えるのだと語った[4]。
株主と経営者の関係を、会社の中につくる
この設計の狙いは、社内に株主と経営者の関係を持ち込む点にあった。持株本社は純粋な事業から離れて投資家の役割を担い、各カンパニーと子会社は独立企業としてバランスシートを作り、それぞれの業績で評価される。江間賢二常務は、株主である本社と経営者である子会社の関係を徹底させ、業績責任を明確にすることが目的だと述べた。翌1998年4月には独自の資本効率指標SVAを全社に導入し、資本コストを上回る付加価値を各事業に求める運用を始めた[5]。
SVAは税引後営業利益から総資本調達コストを差し引いて測る、EVAに似たHOYA独自の指標であった。事業の性格に応じて株主資本コストを変え、成長性の高いエレクトロオプティクスとホトニクスを8%、他を5%と定めた。総資産利益率がこのコストを上回ればSVAはプラスになる。成熟事業と成長事業を同じ物差しで測る無理を、事業別の資産コストを与えて解いた。組織を切り分けたうえで、切り分けた単位ごとに資本効率を問う仕掛けであった[6]。
結果
情を超えた理と、最高益の更新
資本効率の物差しは、現場の売り方まで変えた。低価格競争に苦しんでいたメガネ事業は、超屈折率レンズを開発して高付加価値へ舵を切り、低付加価値品の生産を人件費の安いタイへ移した。決算期に高級品を値下げして数量を稼ぐような売り方はやめ、一年で売上高経常利益率は5ポイント以上改善した。鈴木哲夫会長は、無原則に赤字事業を続けたり低収益事業に投資するのは不合理だと述べた。情を超えた理を、事業運営の隅々にまで通そうとしていたことがうかがえる[7]。
業績もこれに応えた。組織改革とSVA導入から時を置かず、HOYAは1998年度に連結純利益178億円と最高益を更新し、2000年3月期には207億円へ過去最高を連続で塗り替えた。社員の意識も変わり、資産コストを上回る利益を出さねばならないという規律が、値づけや在庫の判断に浸透していった。切り分けた事業を独立企業として競わせ、資本効率で測るという設計が、数字の面でも手応えを見せ始めていた[8]。
純粋持株会社化は完遂せず、規律は残る
当初の構想では、持株会社の解禁を待って二つのカンパニーも子会社化し、純粋持株会社へ生まれ変わるはずであった。もっとも、その全面移行が描いたままの形で実現したわけではない。HOYAは2003年に委員会設置会社へ移り、社外取締役が過半を占める取締役会を敷いたが、事業を営む本体としての姿は保った。純粋持株会社という体制そのものより、事業を切り分けて資本効率で測るという規律の方が、会社に根を張ったとみることができる[9]。
- 週刊東洋経済 1997年9月27日号「企業経営 HOYAが本社50人にした理由 持株会社解禁でこう変わる」
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「[特集]キャッシュフロー革命ケーススタディ2 HOYA『EVA』を導入し効率を追求、98年度に最高益を達成」
- 週刊東洋経済 2000年5月27日号「[特集]出遅れ企業の一発逆転! だから成功した『わが分社』検証 親を抜いた子供たち」
- 東洋経済『会社年鑑』(1999年3月期・2000年3月期・連結)