日本光学工業の前史は、明治末に芽生えた国内光学工業の黎明にさかのぼる。当時の光学機械は軍需民需を問わず外国からの輸入に頼っており[1]、国内では陸海軍の兵器廠に加え、東京計器製作所の光学計器部門や藤井レンズ製造所といった少数の民間事業者が、光学兵器を中心に研究と試作を重ねていた段階にすぎなかった。[2]望遠鏡や測距儀に欠かせない光学ガラスの自給はまだ遠く、これら民間の技術が散在したまま、まとまった量産基盤を欠いていた。第一次世界大戦が国産化の必要を一気に押し上げるまで、日本の光学工業は輸入品に依存する試作の域を出ていなかった。
第一次世界大戦の勃発によって、日本海軍が依存していたドイツ製光学機器の輸入ルートが全面的に途絶した。軍艦の測距儀や双眼鏡、潜望鏡といった装備に不可欠な光学部品を自前で賄えない以上、戦力の維持そのものが危うくなる状況に置かれた。海軍からの強い要請を受けた三菱財閥の岩崎小弥太は、民間の光学技術者を糾合して1917年に日本光学工業を設立することを決断した[3]。創業直後に藤井レンズ製造所を買収して既存の技術基盤を確保し[4]、1918年には大井工場を新設して本格的な生産体制の構築に着手した。[5]ガラスの溶融炉を安定させ、均質なブロックを反復して得るまでには試作と失敗の10年近くを要し、1927年にようやく光学ガラスの安定量産に到達した。[6]軍需用の高精度要求が、その後の民需進出を支える光学技術の底を深めた。
量産成功後の日本光学は軍需依存を強めながら規模を拡大した。関東大震災ののちには陸海軍の光学関係事業と技術人材を一手に引き継ぎ[7]、国内の光学兵器製造をほぼ一社で担う立場となった。1933年以降は設備投資を積極化し[8]、平塚や溝の口に軍需工場を相次いで新設する。[9]測距儀、双眼鏡、照準器、潜望鏡といった海軍向け光学機器を主軸に、陸軍向け軍需品の生産量も太平洋戦争中期から急増した。1945年の終戦時点で従業員は約2万5000名[10]、国内に20工場を擁する巨大な軍需コングロマリットに成長していた[11]が、この規模拡大はそのまま単一顧客・単一需要への極度の依存を意味した。軍需100パーセントという事業構造そのものが終戦と同時に全需要を一夜で失うリスクを内包しており、戦後の縮小とそこからの民需転換劇を予告していた。
1945年の終戦にともなって、日本光学は大井工場を除く19工場の即時閉鎖を決め、約2万名[12]の従業員を整理解雇して僅か1724名の態勢で再起を図った。戦時中のニコンは光学機器すなわちレンズや測距儀の製造が事業の中心であり、完成品としてのカメラボディを自社で量産した経験はほとんど無いに等しかった。[13]それでも民需転換のためには完成品への進出が不可欠と判断し、1946年からカメラボディ本体の開発が本格化する。戦時中に培ったレンズ設計力と高精度加工技術を民需用の小型カメラへ再適用する試みで、国内にまだ本格的な高級カメラメーカーが育っていない状況のもと、輸出を前提にした高級機路線に賭ける経営判断だった。
終戦後に日本に駐留した進駐軍の将兵が、日本光学製レンズの解像度と色再現の質を現場で認め、米国本国へ持ち帰ったレンズを通じて口コミで評判が広がった。1950年12月10日のNew York Timesは、朝鮮戦争を取材するライフ誌の写真技師が日本製カメラとレンズをドイツ製より優秀と評価したと伝え[14]、ニコンの付属レンズであるニッコールは『付属レンズはニッコールと称し、各種焦点距離のものを含み、ドイツ製小型カメラレンズよりはるかに高度の正確さを有するものと、アメリカ専門家によって査定された』[引用元]と報じた。1961年9月のダイヤモンド臨時増刊は[15]『日本光学が、最高製品の生産を第一目標としたのに対し、キヤノンは売れる物、もうかるものを追ってきた』[引用元]と両社の対比を描き、ニコンが品質第一主義で輸出市場を開いた経緯を記した。1948年にカメラとレンズの量産を正式に開始し[16]、翌年から輸出を本格化させて高級カメラメーカーとしての国際評価を確立する。軍需の巨大企業から民需の高級光学ブランドへの非連続な転換は、戦後産業史でも異例である。
1964年9月のダイヤモンドはカメラ業界の過剰淘汰を取り上げ[17]、『1954年、1955年の2年間に約30社が倒産、1956年から1958年の3年間では約20社が姿を消している』[引用元]と書いた。同記事は『カメラ偏重をさけるため、兼業部門に力を入れる企業が多くなっている』[引用元]とも指摘し、リコーやミノルタの事務機進出、キヤノンの卓上電子計算機開発などカメラ専業からの脱皮が業界共通の課題であると伝えた。ニコンの露光装置事業への展開も、この業界構造からの要請が動機となる。1976年に通産省主導で発足した超LSI技術研究組合にニコンも参画し、半導体製造装置の国産化という国家プロジェクトの一翼を担うこととなった。米系ステッパー供給元への依存を脱したいという国内半導体メーカー各社の要望が、研究組合結成の推進力だった。
ニコン社内でこのプロジェクトの中心を担ったのは、カメラ事業ではなく、ルーリングエンジンやマイクロニッコールレンズといった傍流の精密光学技術を扱ってきた特機部門の吉田庄一郎だった。1972年に彼らがレーザー干渉計を組み込んだ座標測定器を開発していたことが、後のステッパー開発における位置決め精度の技術的基盤となる。1980年に初号機NSR-1010Gの開発に成功し[18]、翌1981年からNEC・東芝への実機納入が始まる。日本の半導体メーカーが必要とする精度と生産性を米系競合より早く提供できた結果、1983年にはステッパーで世界シェア首位を獲得した。1984年12月の日経ビジネスは[19]『高級カメラのニコンから、半導体製造装置のニコンとでも呼ばれそうな勢い』[引用元]と書き、純利益最高水準を伝えた。FY1984には半導体関連機器の売上高が567億円へ拡大し[20]、カメラと並ぶ第二の収益柱となった。
1985年のプラザ合意後に進行した急激な円高はカメラ輸出の採算を深く蝕み、国内生産の維持が経済的に困難となった。ニコンは1990年にタイに現地法人を設立してカメラ生産の海外移管を本格化させ[21]、30年をかけて国内カメラ生産のほぼ全量をタイ工場へと集約した。タイ工場の従業員は2007年時点で7964名に達し[22]、為替変動と人件費格差に対する防御線となった。カメラ事業は円高の逆風下でも輸出採算を確保し、ブランド力を維持したまま海外市場で拡大を続けた。国内雇用の縮小と海外拠点の巨大化という相反する動きは、戦後復興期の民需転換に続くもう一つの非連続な経営判断だった。
一方でステッパー事業は、日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係で世界シェア30から50パーセントを安定的に維持した。NEC、東芝、日立、富士通、三菱電機といった国内顧客との共同開発型のビジネスモデルは、高い技術要求を糧に装置の性能を磨き上げる仕組みとなった。しかしこの国内顧客密着という成功要因そのものが、顧客基盤の地理的偏在という構造的な脆弱性を同時に内包していた点は、後年まで表に出なかった。1990年代後半から半導体産業の重心が台湾・韓国の新興メーカーへ移行していく過程でも、ニコンは既存顧客との関係を軸に事業を運営し続け、新興顧客への転換に後れを取る原因を内在させた。ステッパー収益の潤沢さが社内の危機感を鈍らせた面は、後に経営陣自身が振り返る点となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1979年戦前軍需光学の到達点と戦後の民需カメラへの転身 | 東京計器製作所光学計器部門と岩城硝子製造所反射鏡部門を統合 | ★ | ||
| 三菱合資岩崎小彌太氏の出資で日本光学工業を設立 | ★ | |||
| 藤井レンズ製造所を合併 | ★ | |||
| 大井第一工場を新設 | ★ | |||
| 光学ガラスの量産に成功 | ★ | |||
| 軍需生産のため増産投資を本格化 | ★ | |||
| 2万名を整理解雇・軍需から民需転換へ | ★★ | |||
| 長岡正男 | カメラ・レンズの量産開始 | ★ | ||
| 長岡正男 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 長岡正男 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 長岡正男 | Nikon Sales Inc.を設立 | ★ | ||
| 浜島昇 | 国内で生産拠点を拡充 | ★ | ||
| 桜電子工業に経営参加 | ★ | |||
| 高級カメラを重視 | ★ | |||
| 大井製作所大船工場 を新設 | ★ | |||
| Nikon Europe N.V.を設立 | ★ | |||
| 杉豊 | 大井製作所相模原工場 を新設 | ★ | ||
| 彌永恭二郎 | カメラ輸出の低迷・業績低迷へ | ★ | ||
| 1980〜1998年ステッパー参入と光学・半導体の二本柱確立 | 小秋元隆輝 | 半導体製造装置(ステッパー)に参入 | ★★ | |
| 小秋元隆輝 | Nikon Precision Inc. を設立 | ★ | ||
| 福岡成忠 | 半導体露光装置(ステッパー)への参入と光学・半導体の二本柱確立 1980年、日本光学工業がカメラで培った光学ガラスと精密位置決めの技術を半導体露光装置(ステッパー)へ転用し、傍流の精機事業部から半導体製造装置に参入した経営判断。1984年に熊谷へ量産拠点を設け、半導体関連機器がカメラと並ぶ第二の柱に育った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 福岡成忠 | 熊谷製作所を新設 | ★ | ||
| 福岡成忠 | 商号を日本光学工業から、ニコンに変更 | ★ | ||
| 荘孝次 | カメラ生産をタイに移管 | ★ | ||
| 荘孝次 | Nikon (Thailand) Co., Ltd. を設立 | ★ | ||
| 荘孝次 | 水戸製作所を新設 | ★ | ||
| 小野茂夫 | Nikon Singapore Pte. Ltd.を設立 | ★ | ||
| 1999〜2023年ASML寡占下での二本柱同時不振と構造改革の断行 | 吉田庄一郎 | ステッパーの顧客転換に失敗・最終赤字に転落 | ★★ | |
| 嶋村輝郎 | カメラの現地生産を開始 | ★ | ||
| 嶋村輝郎 | 横浜製作所横須賀分室を新設 | ★ | ||
| 嶋村輝郎 | Nikon Imaging (China) Sales Co., Ltd. を設立 | ★ | ||
| 苅谷道郎 | 単元株式数を100株に変更 | ★ | ||
| 苅谷道郎 | ベルギーのMetris NVを完全子会社化 | ★ | ||
| 苅谷道郎 | 最終赤字に転落 | ★ | ||
| 木村眞琴 | インテルと半導体製造装置で提携 | ★★ | ||
| 牛田一雄 | オプトスを買収(眼底カメラ) | ★★ | ||
| 牛田一雄 | Mark Roberts Motion Control Limitedを完全子会社化 | ★ | ||
| 牛田一雄 | 二本柱同時不振と1143名の希望退職──2016年の全社構造改革 2016年、半導体露光装置と映像の二つの主力事業が同時に不振へ沈んだニコンは、牛田一雄社長のもと、三菱UFJ出身で2016年に外部登用された岡昌志副社長兼CFOの主導で全社の構造改革に踏み込んだ。国内社員の約1割にあたる1143名の希望退職を含め、構造改革の特別損失は当初見込みの480億円から530億円へ増えた(2017年3月期の実績は533億円)。半導体装置事業の黒字化と映像事業の選択と集中で短期の採算は戻したが、既存事業の縮小にとどまり、次の成長事業は残された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 馬立稔和 | 最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 馬立稔和 | Morf3D Inc.に出資、子会社化 | ★ | ||
| 馬立稔和 | SLM Solutionsを買収(3Dプリンター) | ★ | ||
| 德成旨亮 | RED.com, LLCを完全子会社化 | ★★ | ||
| 大村泰弘 | 露光装置の正面決戦を退き、後工程へ賭け直す 半導体露光装置(ステッパー)で1980年代に世界首位を握ったニコンが、ArF液浸を経てオランダのASMLに逆転され、EUVの開発からも退いた。前工程での正面決戦を事実上手放し、勝てる土俵を、FPD露光の技術を転用した半導体後工程(アドバンストパッケージング)向けのデジタル露光へ移す。2025年7月、ニコン初の後工程向け装置DSP-100の受注を始めた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(ニコン)