ステッパーの量産を開始
ステッパー需要の急増に対応するため、専用の量産拠点が必要に
1980年のNSR-1010G発売以降、日本の半導体メーカーによるDRAMへの集中投資を背景に、ニコンのステッパーは急速に受注を拡大した。横浜製作所に設置した専用工場では増産要請に対応しきれなくなり、ステッパーの量産体制を本格的に構築する必要に迫られた。ステッパーは1台あたりの価格が数億円に達する高額装置であり、クリーンルーム内での精密な組み立てが求められることから、専用の生産拠点の確保が不可欠であった。
ニコンの精機事業(半導体製造装置)は、参入からわずか数年で売上高500億円規模に到達し、カメラ事業に匹敵する収益の柱に成長していた。小秋元社長が掲げた「カメラ以外の成長事業の育成」という方針は、ステッパーによって具体化されつつあった。
一方で、ステッパーの事業特性として、半導体メーカーの設備投資サイクルに業績が大きく左右されるという構造的な課題も顕在化しつつあった。半導体の好況期には旺盛な需要が発生するが、不況期には受注が急減する。この景気変動への感応度の高さは、量産体制の規模設計において重要な論点であった。
1984年に熊谷製作所を新設し、ステッパー専用の量産拠点を構築
1984年にニコンは埼玉県に熊谷製作所を新設し、ステッパー専用の量産拠点として稼働を開始した。1989年から1998年にかけて4回の増設工事を実施し、クリーンルームの拡充を重ねた。2000年には7号館のクリーンルームを増床し、生産能力を段階的に引き上げた。栃木ニコンでもステッパー用レンズの生産棟を1991年に竣工させ、レンズ供給体制を強化した。
研究開発投資も本格化し、精機事業では年間数十億円から100億円規模の研究開発費を継続的に投下した。設備投資も年間100億円から200億円の水準を維持し、次世代ステッパーの開発と量産能力の拡大を並行して進めた。光学レンズの解像力と位置決め精度の向上が製品競争力に直結するため、研究開発投資の継続が不可欠であった。
ニコンのステッパーは1983年の世界シェア1位を維持し、1998年頃まで30〜50%のシェアを確保した。主要顧客はNEC・東芝・日立・富士通といった日本の半導体メーカーであり、これらの企業の設備投資がニコンの業績を支えた。競合のキヤノンに対しては先発参入の優位性を維持していた。
精機事業がニコンの全社業績を支える事業に成長し、カメラからの業態転換を実現
1990年代を通じて、ニコンの事業構造はカメラ中心から半導体製造装置(精機事業)中心へと転換した。カメラ及びレンズのコンシューマー事業が慢性的な赤字に苦しむ一方、精機事業が売上と利益の両面で全社業績を支えた。好況期には500億円以上の営業利益を計上し、ニコンの収益の大半を精機事業が稼ぐ構造が定着した。
ただし精機事業は半導体の景気サイクルに強く連動するため、不況期には200億円超の営業赤字を計上することもあった。ステッパーは半導体メーカーのライン新設に合わせて納入される性格上、需要の変動幅が大きく、業績のボラティリティは避けられなかった。好況期の利益で不況期の赤字を吸収するという事業構造は、ステッパーの世界シェアを維持できることが前提であった。
1998年以降、オランダのASML社が台頭しニコンのシェアを侵食し始めた。ASML社は台湾・韓国で急成長する半導体メーカーとの協業体制を確立し、300mmウエハ対応機種の投入でシェアを急速に拡大した。ニコンが日本国内の半導体メーカーとの協業に軸足を置き続けた間に、半導体産業の重心は東アジアへとシフトしていた。