半導体製造装置(ステッパー)に参入
通産省の超LSI技術研究組合への参画が、半導体製造装置への参入契機に
1970年代の日本政府は半導体産業の育成を国策として推進し、通産省(現・経済産業省)が主導する「超LSI技術研究組合」を1976年に発足させた。NEC・東芝・日立・富士通・三菱電機の電機5社が参画し、次世代半導体の共同研究が開始された。ニコンはこの研究組合に光学・精密技術の供給者として参画し、半導体製造装置の研究開発に着手した。
ニコンにとって半導体製造装置への参入は、既存事業の行き詰まりに対する突破口でもあった。小秋元隆輝社長は「カメラ、顕微鏡、眼鏡といった光学製品はいずれもすでに成熟段階に達した製品だ。将来に向けて飛躍的に伸びるものはない」と危機感を示し、カメラ以外の成長事業の育成を明確に打ち出していた。半導体製造装置は、ニコンが蓄積した光学技術(レンズ)と精密技術(位置決め)を直接活用できる領域であった。
ステッパーの発想は、ニコン社内の傍流部門から生まれた。吉田庄一郎(後に社長就任)が所属した特機部は、大学・研究機関向けの特注品を手がける受注生産部門であり、ルーリングエンジンやマイクロニッコールレンズといった主流ではない技術を扱っていた。1972年にレーザー干渉計を取り込んだ座標測定器を開発したことが、ステッパーの着想につながった。
1980年にNSR-1010Gを開発し、NEC・東芝への納入でステッパー事業を開始
1980年にニコンはステッパー(半導体露光装置)NSR-1010Gの開発に成功した。ステッパーはシリコンウエハーに回路パターンを焼き付ける装置であり、光学レンズの解像力と位置決めの精密さが製品性能を直接規定する。ニコンが数十年にわたって蓄積した光学ガラスの製造技術と精密加工技術は、ステッパーが要求する技術要素と本質的に合致していた。
1981年にNSR-1010Gの納入を開始し、1号機を日本電気(NEC)、2号機を東芝にそれぞれ納入した。1台あたりの価格は1.3億円に設定され、高単価の装置を特定顧客の設備投資タイミングに合わせて少量生産する事業モデルが確立された。1983年には横浜製作所にステッパー専用工場を約30億円で新設し、増産体制を構築した。
ステッパーの事業化は、日本の半導体メーカーがDRAMへの集中投資を本格化する時期と重なった。NEC・東芝・日立・富士通といった大手電機メーカーが相次いで半導体の量産ラインを増設し、ステッパーへの旺盛な需要が生まれた。ニコンのステッパーは、国内半導体メーカーとの緊密な協業関係を基盤として受注を拡大した。
開発から3年で売上100億円を突破し、カメラに次ぐ収益の柱に成長
ステッパー事業は急速に立ち上がり、FY1982にはニコンの半導体製造装置の売上高が108億円に到達した。FY1984には同450億円(推定)へと拡大し、FY1985には半導体関連機器の売上高が567億円を記録した。開発から5年で売上高500億円を超える事業に成長し、カメラ事業に並ぶ収益の柱となった。
ニコンはステッパー参入直後の1983年に世界シェア1位を確保した。日本国内の半導体メーカーが主要顧客であり、電機メーカーとの技術的な協業関係がシェア獲得の基盤となった。競合はキヤノンであったが、ニコンは先発参入の優位性を活かしてシェアで上回った。
傍流部門の技術から生まれたステッパーが、ニコンの業態を「カメラメーカー」から「カメラ+半導体製造装置」の二本柱へと転換させた。ただし、この時期のステッパー事業は日本の半導体メーカーとの協業に依存する構造であり、1990年代以降の半導体産業の地理的シフト(日本から台湾・韓国へ)に対する脆弱性を内包していた。