ペンタックス の歴史

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創業 1919年
創業者 梶原熊雄
創業地 東京都豊島区西巣鴨
創業
1919年11月、梶原熊雄が東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社を創立し、掛眼鏡と映画用映写レンズの製造を始めた。1938年12月には旭光学工業株式会社を設立してレンズ設計と写真機レンズ・双眼鏡へ広げたが、戦災で工場も製品も焼け、1948年2月に合資会社は解散する。残ったのは1919年以来のレンズ研磨技術だけだった。同年9月、輸出向けの双眼鏡と望遠鏡で操業を再開し、あわせてカメラの試作に着手する。1951年5月、わが国初の一眼レフの試作に成功した。
決断
主流の方式を採らず、量産の前例がない一眼レフに製品を絞った。1952年に量産第1号のアサヒフレックスを発売し、1954年にはミラーが戻らない難点を解くクイックリターン装置を世界に先がけて開発、1957年のペンタプリズム式『アサヒペンタックス』で一眼レフの専業メーカーとして立った。販売は分離した旭光学商事へ一括委託し、本体は製造に専念する。1970年6月期は売上135億円の96.2%を一眼レフとその付属品が占めた。1993年3月期に93億5,300万円の最終赤字を出したときも人員は減らさず、前年11月に松本徹社長を委員長とする再建組織委員会を設け、原価低減と海外生産比率の引き上げで立て直した。
現況
ペンタックスという法人は、2008年3月に存在しなくなった。2007年4月10日の臨時取締役会が浦野文男社長を解職し、前年12月に合意していたHOYAとの合併を撤回したものの、新経営陣は1か月余りで公開買付けの受諾をHOYAへ伝えた。同年8月に公開買付けが成立して連結子会社となり、翌2008年3月に吸収合併されて上場を廃止した。最後の本決算となった2007年3月期は連結売上高1,573億円・当期純利益36億円で、売上高は創業以来の最高だった。1919年のレンズ研磨から89年、1938年の株式会社設立から70年で、法人としての歴史が終わった。
競合
製品の競争力では、会社の大きさは変えられなかった。1965年ごろに各社が距離計連動式から一眼レフへ切り換えると、方式を先に確立した同社の市場占有率は年々下がった。カメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼ぐ同業他社に対し、1970年6月期の同社は96.2%を一眼レフに依存しており、方式の優位が消えたあとに振り替える製品を持たなかった。1972年に眼鏡レンズ、1977年12月に医療機器へ広げても、この比重は動かない。公開買付けと株式交換で子会社化したHOYAが目当てにしたのは内視鏡であり、赤字のカメラ事業はリコーへ譲渡された。
ペンタックス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1978年3月期2007年3月期

創業ストーリー 掛眼鏡のレンズ研磨から、国産初の一眼レフカメラまで (1919年〜)

掛眼鏡のレンズ研磨から、国産初の一眼レフカメラまで

二つの法人に分かれ、戦災で二つとも焼けた出発

1919年11月、東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社が創立[1]された。手がけたのは掛眼鏡と映画用映写レンズの製造で、事業の中身はレンズの研磨にあった。1938年12月には、この合資会社とは別に旭光学工業株式会社が設立され、梶原熊雄氏が社長に就いた[2]。法人を二つに分けたのは事業拡大のためではない。合資会社が軍の管理工場に指定されたため[3]、従来手がけていたレンズ研磨を主とする民需品の製造販売を、別の法人で続ける必要があった。株式会社はレンズ設計に加え、写真機レンズと双眼鏡の製造を始めている。

  • 有価証券報告書
    • [1]1919年11月 東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社を創立。掛眼鏡及び映画用映写レンズの製造を開始
  • 証券 1971年
    • [2]1938年12月17日に旭光学工業株式会社を設立、社長は梶原熊雄
    • [3]合資会社が軍の管理工場に指定されたため、民需品の製造販売を継続する目的で株式会社を設立した

民需品を続けるための分社は長く保たなかった。株式会社もまた軍の管理工場に指定され[4]、合資会社と併存したまま終戦を迎え、両社とも戦災を受けて全焼した。再建は双方で試みられたものの、1948年2月に合資会社は解散し、株式会社だけが残った。[5]手元に残ったのは1919年以来のレンズ研磨技術だけで、工場も製品も焼けていた。同年9月、輸出向けの双眼鏡と望遠鏡の生産を始め、同時にカメラの試作にも着手[6]した。双眼鏡と望遠鏡は、占領下の日本で外貨を稼げる数少ない民需品で、当座の食いぶちになった。カメラのほうは、売り先も方式も定まらない試作にとどまった。

  • 証券 1971年
    • [4]旭光学工業と旭光学合資会社はともに軍の管理工場に指定され、終戦時にともに戦災を受け全焼壊滅した
    • [5]1948年2月に旭光学合資会社が解散し、株式会社のみが大正8年以来のレンズ研磨技術を継承した
    • [6]1948年9月に輸出向け双眼鏡ならびに望遠鏡の生産を開始し、同時にカメラの試作に着手した
  • 有価証券報告書
    • [1]1919年11月 東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社を創立。掛眼鏡及び映画用映写レンズの製造を開始
  • 証券 1971年
    • [2]1938年12月17日に旭光学工業株式会社を設立、社長は梶原熊雄
    • [3]合資会社が軍の管理工場に指定されたため、民需品の製造販売を継続する目的で株式会社を設立した
    • [4]旭光学工業と旭光学合資会社はともに軍の管理工場に指定され、終戦時にともに戦災を受け全焼壊滅した
    • [5]1948年2月に旭光学合資会社が解散し、株式会社のみが大正8年以来のレンズ研磨技術を継承した
    • [6]1948年9月に輸出向け双眼鏡ならびに望遠鏡の生産を開始し、同時にカメラの試作に着手した

誰も量産していない方式を選んだ、という参入

旭光学工業は試作の的を一眼レフカメラに絞った。レンズを通った像をそのまま見て撮る方式で、距離計連動式が主流だった当時の国産カメラのなかでは前例がない。1951年5月にわが国初の一眼レフカメラの試作に成功し、[7]翌1952年、アサヒフレックスⅠ型として製造を始めた。販売は自前で抱えず、株式会社服部時計店と特約店契約を結んでいる。[8]焼け跡から再建した会社が全国の販路を自力で敷くには時間がかかり、時計商の店頭を借りるほうが早かった。同じ1952年4月には本社と工場を東京都板橋区前野町へ移し[9]、生産の拠点も改めている。

  • 証券 1971年
    • [7]1951年5月にわが国初の一眼レフカメラの試作に成功
    • [8]1952年にアサヒフレックスⅠ型として製造すると同時に、株式会社服部時計店と特約店契約を結び販売を開始した
  • 有価証券報告書
    • [9]1952年4月に東京都板橋区前野町へ本社及び工場を移転した

一眼レフには積年の難点が一つあった。シャッターを切るとミラーが跳ね上がったまま戻らず、その直後からファインダーの像が消えてしまう。旭光学工業は1954年、ミラーを自動で復帰させるクイックリターン装置を世界に先がけて開発し[10]、この不便を取り除いた。撮った直後に次の構図を追える一眼レフは、ここで初めて実用の道具になった。『証券』1971年の新規上場会社紹介は、この開発について『今日の1眼レフカメラ隆昌時代への第一歩を築いたわけである』[引用元]と記している。国産初という称号よりも、この機構のほうが後年の製品系列を支えた。

  • 証券 1971年
    • [10]1954年に一眼レフカメラの難問であったミラーのクイックリターン装置を世界に先がけて開発した
  • 証券 1971年
    • [7]1951年5月にわが国初の一眼レフカメラの試作に成功
    • [8]1952年にアサヒフレックスⅠ型として製造すると同時に、株式会社服部時計店と特約店契約を結び販売を開始した
    • [10]1954年に一眼レフカメラの難問であったミラーのクイックリターン装置を世界に先がけて開発した
  • 有価証券報告書
    • [9]1952年4月に東京都板橋区前野町へ本社及び工場を移転した

一眼レフ専業という選択と、売上の半分を輸出が占める構造

一つの機種名が、会社の呼び名になるまで

1955年3月、販売拡充のため営業部門を分離し、旭光学商事株式会社に製品販売を一括委託[11]した。製造に専念した旭光学工業は1957年、ペンタプリズムを載せた一眼レフ[12]『アサヒペンタックス』を開発した。五角形のプリズムで像の左右と上下を正し、ファインダーを覗いたまま構図を追えるようにした機構で、以後の一眼レフの標準となった。同社はK型、S2型、S3型、SV型と改良を重ね、1964年にはTTL[13]露出計方式のSP型に到達している。レンズを通った光をそのまま測光する方式で、この機種によって一眼レフでの地位が定まった。

  • 有価証券報告書
    • [11]1955年3月に営業部門を分離独立させ旭光学商事株式会社を設立、製品販売を一括委託した
  • 証券 1971年
    • [12]1957年にペンタプリズム(5角形プリズム)式一眼レフ「アサヒペンタックス」を開発
    • [13]K型・S2型・S3型・SV型と性能向上を図り、1964年にTTL方式のSP型を開発して一眼レフカメラの地位を決定的なものとした

製品名は会社の呼び名も変えた。1955年に設立した販売会社は、後年ペンタックス販売株式会社へ商号を改めている[14]。海外の販売子会社も同じ道をたどり、1962年に設けたベルギー法人は設立時こそアサヒオプティカル・ヨーロッパを名乗ったが、のちにペンタックス ヨーロッパ N.V. へ改めた。[15]1976年に米国、1977年に西ドイツ、1978年にカナダ、1979[16]年に英国と、販売会社は4年で欧米の主要市場へ並び、いずれもペンタックスの名を冠した。ただし親会社の商号が旭光学工業からペンタックスに変わるのは2002年で、[17]製品名が社名を追い越した状態が半世紀近く続いた。1957年に生まれた一つの機種名が、まず販売網を、45年遅れて法人名を書き換えた。

  • 有価証券報告書
    • [14]旭光学商事株式会社は社名変更してペンタックス販売株式会社となった
    • [16]1976年8月に米国、1977年9月に西ドイツ、1978年9月にカナダ、1979年9月に英国へ販売会社を設立した
    • [17]2002年10月に商号を旭光学工業株式会社からペンタックス株式会社に変更した
  • 証券 1971年
    • [15]1962年にベルギーへ設立した販売会社の当時の社名はアサヒオプティカル・ヨーロッパで、有価証券報告書提出時点の商号はペンタックス ヨーロッパ N.V.
  • 有価証券報告書
    • [11]1955年3月に営業部門を分離独立させ旭光学商事株式会社を設立、製品販売を一括委託した
    • [14]旭光学商事株式会社は社名変更してペンタックス販売株式会社となった
    • [16]1976年8月に米国、1977年9月に西ドイツ、1978年9月にカナダ、1979年9月に英国へ販売会社を設立した
    • [17]2002年10月に商号を旭光学工業株式会社からペンタックス株式会社に変更した
  • 証券 1971年
    • [12]1957年にペンタプリズム(5角形プリズム)式一眼レフ「アサヒペンタックス」を開発
    • [13]K型・S2型・S3型・SV型と性能向上を図り、1964年にTTL方式のSP型を開発して一眼レフカメラの地位を決定的なものとした
    • [15]1962年にベルギーへ設立した販売会社の当時の社名はアサヒオプティカル・ヨーロッパで、有価証券報告書提出時点の商号はペンタックス ヨーロッパ N.V.

輸出が過半を占め、上場に届いた1970年前後

販路は早くから外に向いた。1959年に米国ハネウエル社と全米およびメキシコの代理店契約を結び、[18]1962年にはベルギーへ、1967年にはブラジルへ現地法人を置いている。輸出の対売上高比率は1967年6月期で48.8%、1969年6月期には57.5%に達した[19]。1970年6月期は51.4%へ下がるものの、大阪万博の開催期間中は国内需要に極力応じるというカメラ業界の申し合わせに従った結果で、下がったのはこの期だけである。[20]売上高は1969年6月期に108億円と初めて100[21]億円を超え、1970年6月期には前期比25.0%増の135億円となった。

  • 証券 1971年
    • [18]1959年(昭和34年)に全米およびメキシコに対する代理店契約を米ハネウエル社と締結
    • [19]対売上高輸出構成比は昭42.6期48.8%、昭44.6期57.5%、昭45.6期51.4%
    • [20]昭45.6期に輸出構成比が低下したのは、万国博開催期間中は国内需要に極力応じるとのカメラ業界の申合せに従ったためで、この期だけの現象である
    • [21]昭44.6期に売上高108億円と初めて100億円台に乗せ、昭45.6期は対前期比25.0%増の135億円

生産の側では1967年9月から栃木県芳賀郡益子町に総額30億円の工場を建設[22]し、1969年11月に完成させた。1968年6月期に国内需要が回復しても売上の伸びが鈍ったのは、稼働率97.5%という生産能力の限界に突き当たっていたためで、[23]益子工場はこの制約を外すために建てた。もっとも建設は支払利息・減価償却費・消耗工具の増加を招き、対売上高売上原価率は1968年6月期の66.5%から1970年6月期には71.2%へ上がっている。[24]増産の余地は開けたが、売上高の伸びは利益率の低下と抱き合わせであった。1970年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1971年11月には第一部に移った[25]

  • 証券 1971年
    • [22]昭和42年9月から栃木県益子町に総額30億円のカメラ工場(土地7万坪・建物7千坪)を建設し、昭和44年11月に完了した
    • [23]昭43.6期は国内需要が回復し国内売上高伸長率14.4%だったが、生産能力が限界(稼働率97.5%)で需要に応じきれなかった
    • [24]対売上高売上原価率は昭43.6期66.5%、昭44.6期69.8%、昭45.6期71.2%と上昇を続けた
  • 有価証券報告書
    • [25]1970年12月に東証二部上場、1971年11月に東証一部上場
  • 証券 1971年
    • [18]1959年(昭和34年)に全米およびメキシコに対する代理店契約を米ハネウエル社と締結
    • [19]対売上高輸出構成比は昭42.6期48.8%、昭44.6期57.5%、昭45.6期51.4%
    • [20]昭45.6期に輸出構成比が低下したのは、万国博開催期間中は国内需要に極力応じるとのカメラ業界の申合せに従ったためで、この期だけの現象である
    • [21]昭44.6期に売上高108億円と初めて100億円台に乗せ、昭45.6期は対前期比25.0%増の135億円
    • [22]昭和42年9月から栃木県益子町に総額30億円のカメラ工場(土地7万坪・建物7千坪)を建設し、昭和44年11月に完了した
    • [23]昭43.6期は国内需要が回復し国内売上高伸長率14.4%だったが、生産能力が限界(稼働率97.5%)で需要に応じきれなかった
    • [24]対売上高売上原価率は昭43.6期66.5%、昭44.6期69.8%、昭45.6期71.2%と上昇を続けた
  • 有価証券報告書
    • [25]1970年12月に東証二部上場、1971年11月に東証一部上場

96%を一つの製品群に預けた会社の、専業という条件

上場時点の同社は、他のカメラメーカーとは事業の形が違った。1970年6月期の売上高135億円のうち96.2%を一眼レフカメラとその付属品が占める。同業各社はカメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼いでいた。[26]総合光学工業に分類されながら、実態は一眼レフの専門メーカーだった。同じ専業は当時ミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社しかなく[27]、しかもミランダは輸出向けのみ、ゼンザブロニカは6×6型のみを手がけていた。従業員は2,453人、平均年齢24.6歳、平均勤続4.5年で[28]、年功序列を避けた職能給を敷き、年間税引利益の6分の1を決算賞与として配っている。

  • 証券 1971年
    • [26]昭45.6期の売上実績のうち96.2%が一眼レフカメラおよびその付属品で、カメラ以外の光学製品で売上高の20〜50%を占める同業他社と大いに異なる
    • [27]一眼レフカメラの専門メーカーは同社のほかミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社。ゼンザブロニカは6×6型のみ、ミランダは輸出向けのみ
    • [28]昭45.6期の従業員数2,453人・平均年齢24.6歳・平均勤続4.5年。年功序列を避けた職能給制度を導入し、年間税引利益の6分の1を決算賞与として支給

専業は強みであると同時に制約でもあった。1965年ごろを境に各社が35ミリ距離計連動式から一眼レフの生産へ切り替え、国内生産台数が増えたため、同社の一眼レフ市場占有率[29]は年々下がっている。先に方式を確立した会社が、方式そのものの普及によって取り分を減らした。旭光学工業はこれに対し、1972年9月の眼鏡レンズ、同年11月の自動製図機、1977年12月の医療機器と、光学とレンズ加工の技術が届く範囲へ事業を広げている。[30]カメラ以外で稼ぐ事業を育てる作業は、この時期から20年余り続いた。

  • 証券 1971年
    • [29]昭和40年ごろを境に各メーカーが35mm距離計連動式カメラから一眼レフカメラの生産に切り換え、国内生産台数が増加したため同社の市場占有率は年々低下した
  • 有価証券報告書
    • [30]1972年9月に眼鏡レンズ分野へ進出、1972年11月に自動製図機の製造販売を開始、1977年12月に医療機器分野へ進出

1978年3月、松本三郎社長が狭心症で急死し、副社長の松本徹氏が42歳で社長に就いた[31]。1958年に早稲田大学理工学部応用物理学科を出て入社し、1963年にマサチューセッツ工科大学でインダストリアル・マネジメントを修めたのち、同年8月に取締役、1966年に常務、1968[32]年に副社長を務めている。父である前社長は『女房よりも子供よりも、会社が大切』[引用元]と語る強い個性で社内[33]を率いた。新社長が掲げた理想は父とは反対で、自らが前面に出る経営を採らなかった。

  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
    • [31]1978年3月25日に松本三郎前社長が狭心症で急死し、副社長の松本徹(当時42歳)が社長に就任
    • [32]松本徹は1958年3月に早稲田大学理工学部応用物理学科卒業後に入社、1963年1月にマサチューセッツ工科大学(専攻はインダストリアル・マネジメント)卒業、同年8月取締役、1966年8月常務、1968年8月副社長
    • [33]前社長の松本三郎は「女房よりも子供よりも、会社が大切」と豪語する強烈な個性で社内を引っ張った
  • 証券 1971年
    • [26]昭45.6期の売上実績のうち96.2%が一眼レフカメラおよびその付属品で、カメラ以外の光学製品で売上高の20〜50%を占める同業他社と大いに異なる
    • [27]一眼レフカメラの専門メーカーは同社のほかミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社。ゼンザブロニカは6×6型のみ、ミランダは輸出向けのみ
    • [28]昭45.6期の従業員数2,453人・平均年齢24.6歳・平均勤続4.5年。年功序列を避けた職能給制度を導入し、年間税引利益の6分の1を決算賞与として支給
    • [29]昭和40年ごろを境に各メーカーが35mm距離計連動式カメラから一眼レフカメラの生産に切り換え、国内生産台数が増加したため同社の市場占有率は年々低下した
  • 有価証券報告書
    • [30]1972年9月に眼鏡レンズ分野へ進出、1972年11月に自動製図機の製造販売を開始、1977年12月に医療機器分野へ進出
  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
    • [31]1978年3月25日に松本三郎前社長が狭心症で急死し、副社長の松本徹(当時42歳)が社長に就任
    • [32]松本徹は1958年3月に早稲田大学理工学部応用物理学科卒業後に入社、1963年1月にマサチューセッツ工科大学(専攻はインダストリアル・マネジメント)卒業、同年8月取締役、1966年8月常務、1968年8月副社長
    • [33]前社長の松本三郎は「女房よりも子供よりも、会社が大切」と豪語する強烈な個性で社内を引っ張った

光学の隣に医療を植え、90年代の赤字で組織を組み替える

内視鏡と人工歯根——最後発から入った医療の20年

1977年に入った医療機器では[34]、内視鏡を主力に据えた。ただし参入は業界で最も遅く、世界市場の8割近くをオリンパス光学工業が握るなかで、旭光学工業は気管支系から手をつけている。[35]内視鏡の世界市場は1990年代初めでも2000億円程度と小さく[36]、それでも需要は増えていた。医療のもう一方では、1983年3月に人工歯根『アパセラム』を発表し、1984年に人工歯根市場へ参入した。[37]素材はカルシウムとリン酸の化合物であるアパタイトで、骨の成分に近く体になじみやすい。1987年11月には、チタンの周囲をアパタイトで覆う複合型の製造承認を得た。

  • 有価証券報告書
    • [34]1977年12月に医療機器分野へ進出
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [35]内視鏡市場ではオリンパス光学工業が世界市場で80%近いシェアを持ち、旭光学は気管支系を最初に手掛けた最後発の参入者だった
    • [36]内視鏡市場は全世界で2000億円程度と小さいが着実に需要増にあった
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [37]1983年3月に人工歯根「アパセラム」を発表、1984年に人工歯根市場へ参入。素材はアパタイト(カルシウムとリン酸の化合物)で、1987年11月にチタンの周りにアパタイトを層状に重ねた複合型の製造承認を取得

人工歯根の市場は小さかった。1989年時点で規模は20数億円程度、年間使用本数は10万本に届かず、1本あたり2〜3万円という水準にとどまる。研究段階を含めて30社以上がひしめき、京セラが7割前後を占めていた。[38]それでも各社が引かなかったのは、人工歯根が人工骨・人工関節・骨補填材への入口にあたるためである。旭光学工業ニューセラミックス部の日高恒夫部長は『人工歯根には各社なりの思想が必要なんです』[引用元]と述べている。カメラで磨いたガラスと精密加工の技術を、体内に入れる素材へそのまま持ち込む試みだった。

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [38]1989年時点の人工歯根市場は20数億円程度、年間使用本数10万本足らず、1本2〜3万円。研究段階を含め30社以上が参入し、京セラが70%前後のシェアを持つ
  • 有価証券報告書
    • [34]1977年12月に医療機器分野へ進出
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [35]内視鏡市場ではオリンパス光学工業が世界市場で80%近いシェアを持ち、旭光学は気管支系を最初に手掛けた最後発の参入者だった
    • [36]内視鏡市場は全世界で2000億円程度と小さいが着実に需要増にあった
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [37]1983年3月に人工歯根「アパセラム」を発表、1984年に人工歯根市場へ参入。素材はアパタイト(カルシウムとリン酸の化合物)で、1987年11月にチタンの周りにアパタイトを層状に重ねた複合型の製造承認を取得
    • [38]1989年時点の人工歯根市場は20数億円程度、年間使用本数10万本足らず、1本2〜3万円。研究段階を含め30社以上が参入し、京セラが70%前後のシェアを持つ

1993年3月期93億円の赤字を作った四つの要因

1993年3月期の連結決算は最終赤字93億5300万円、2期連続の赤字となった[39]。要因は一つではない。米ハネウエル社との自動焦点カメラ特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円、[40]これに営業損益6億5000万円の赤字と30億円を超える金融赤字が重なっている。カメラ部門の営業利益は1991年3月期の92億4200万円から1993年3月期には8億5100[41]万円へ落ちた。自己資本比率は単独では40%を超えていたが、連結では20%を割っている。損失は単独の決算よりも、海外の販売子会社を含む連結の側に深く出ていた。

  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [39]1993年3月期連結決算は最終赤字93億5300万円で2期連続赤字。営業損益6億5000万円の赤字、金融赤字30億円超
    • [40]米ハネウエル社への自動焦点カメラ特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円
    • [41]カメラ部門の営業利益(配賦不能営業費用の控除前)は91年3月期92億4200万円から93年3月期8億5100万円へ急落。93年3月期末の自己資本比率は単独40%超・連結20%割れ

特許と為替は外から来た負担で、赤字の主因は別にあった。1991年4月に出したコンパクトカメラ『ズーム60X』は米国販売子会社の強気な需要見通しが外れて在庫として残り、4年ぶりに投入した一眼レフ[42]のオートフォーカス機『Zシリーズ』も伸びなかった。過剰在庫を整理するため1993年3月期は生産調整に入り、稼働率の低下が採算をさらに悪くしている。カメラの売上比率は当時なお60%で、業界で最も高い。会社は多角化によって50%以下へ下げることを長年の目標に掲げていたが、1972年に眼鏡レンズへ進出してから20年余を経ても届いていない。[43]

  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [42]91年4月発売のコンパクトカメラ「ズーム60X」が米国販売子会社の強気の読み違いで在庫を抱え、4年ぶり投入の一眼レフAF機「Zシリーズ」も伸び悩んだ
    • [43]カメラの売上比率は当時も60%と業界一高く、多角化で50%以下にすることが永年の目標だった
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [39]1993年3月期連結決算は最終赤字93億5300万円で2期連続赤字。営業損益6億5000万円の赤字、金融赤字30億円超
    • [40]米ハネウエル社への自動焦点カメラ特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円
    • [41]カメラ部門の営業利益(配賦不能営業費用の控除前)は91年3月期92億4200万円から93年3月期8億5100万円へ急落。93年3月期末の自己資本比率は単独40%超・連結20%割れ
    • [42]91年4月発売のコンパクトカメラ「ズーム60X」が米国販売子会社の強気の読み違いで在庫を抱え、4年ぶり投入の一眼レフAF機「Zシリーズ」も伸び悩んだ
    • [43]カメラの売上比率は当時も60%と業界一高く、多角化で50%以下にすることが永年の目標だった

人を切らずに原価を落とす、という再建の設計

1992年11月、松本徹社長を委員長とし常務以上の役員[44]で構成する再建組織委員会が発足した。委員会の下には、資材購入・運送・一般経費などをテーマとする9つのワーキンググループと、事業部ごとの7つの実行委員会を置いた。松本徹社長が掲げた目標は三つで、カメラ部門の収益性を改善して不況抵抗力をつけること、内視鏡など黒字部門を伸ばすこと、光学機器など赤字部門を見直して早く黒字化することにあった。森勝雄取締役経理部長兼社長室長の試算では、コスト削減の効果は初年度だけで40億円以上、その半分以上をカメラ部門[45]で生み出す計画だった。

  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [44]1992年11月に松本徹社長を委員長、常務以上の役員をメンバーとする再建組織委員会が発足し、下部に9つのワーキンググループと7つの実行委員会を設置した
    • [45]森勝雄・取締役経理部長兼社長室長の試算でコストダウン効果は今期だけで40億円以上、半分以上をカメラ部門でねん出する

手を入れた先は生産配置と事業の絞り込みだった。益子と小川の2工場が担ってきた一眼レフと高級コンパクトの生産を子会社の東北精機へ集約し、フィリピンの生産子会社は中高級コンパクトの拠点として年産40万台[46]を80万台へ倍増させた。カメラの海外生産比率は、50%から3年で70%へ引き上げる計画だった。1992年秋には、1986年に日立製作所からのOEM供給[47]を受けて参入した8ミリビデオカメラからの撤退を決めた。鈴木実専務生産統括本部長は『家電メーカーの赤字覚悟の価格競争には対抗できず、黒字転換のメドが立たないので撤退を決めた』[引用元]と説明している。

  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [46]益子町・小川町の2工場が担当してきた一眼レフ/高級コンパクトを子会社の東北精機に集約し、フィリピン生産子会社を年産40万台から80万台へ倍増、カメラの海外生産比率を50%から3年で70%へ引き上げる
    • [47]1986年に日立製作所からOEM供給を受けて8ミリビデオカメラに参入し、1992年秋に撤退を決定した

人員には手をつけなかった。1993年3月以降に110人を配置転換し、うち40人を内視鏡部門へ移している。削減は自然減に委ね、年100人・3年で300人を減らして2300人体制にする計画で、[48]希望退職は募らなかった。森取締役は配置転換について『当社としては近年にない規模だった』[引用元]と語っている。削る対象から人を外した以上、原価は資材購入や運送、一般経費の側から落とすほかない。もっとも、雇用を守った代わりに固定費の削減幅は限られ、収益の回復はカメラの販売台数に依存した。会社側の予想する販売台数を過大とみるアナリストは複数いた[49]

  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [48]93年3月以降110人を配置転換(うち内視鏡部門へ40人)、人員削減はせず自然減で年100人・3年で300人減の2300人体制を目指した
    • [49]日興リサーチセンターの神谷明美氏は「カメラの見込み出荷台数を前期比19%増の260万台としているのは無理がある」と述べ、大和総研・日興リサーチは会社予想(単独経常16億円黒字)に対し20億円の赤字を予想した
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
    • [44]1992年11月に松本徹社長を委員長、常務以上の役員をメンバーとする再建組織委員会が発足し、下部に9つのワーキンググループと7つの実行委員会を設置した
    • [45]森勝雄・取締役経理部長兼社長室長の試算でコストダウン効果は今期だけで40億円以上、半分以上をカメラ部門でねん出する
    • [46]益子町・小川町の2工場が担当してきた一眼レフ/高級コンパクトを子会社の東北精機に集約し、フィリピン生産子会社を年産40万台から80万台へ倍増、カメラの海外生産比率を50%から3年で70%へ引き上げる
    • [47]1986年に日立製作所からOEM供給を受けて8ミリビデオカメラに参入し、1992年秋に撤退を決定した
    • [48]93年3月以降110人を配置転換(うち内視鏡部門へ40人)、人員削減はせず自然減で年100人・3年で300人減の2300人体制を目指した
    • [49]日興リサーチセンターの神谷明美氏は「カメラの見込み出荷台数を前期比19%増の260万台としているのは無理がある」と述べ、大和総研・日興リサーチは会社予想(単独経常16億円黒字)に対し20億円の赤字を予想した

デジタルで出遅れた専業メーカーが、医療を目当てに買われるまで

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ペンタックスの沿革1919〜2011年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1954年掛眼鏡のレンズ研磨から、国産初の一眼レフカメラまで前身の旭光学工業を創立
掛眼鏡と映画用映写レンズの製造を開始
梶原熊雄氏を社長に旭光学工業を設立
レンズ設計と写真機レンズ・双眼鏡の製造を開始
終戦時に旭光学工業と旭光学がともに戦災で全焼
旭光学が解散。旭光学工業のみが大正8年以来のレンズ研磨技術を継承
輸出向け双眼鏡・望遠鏡の生産を開始
カメラの試作に着手★★
わが国初の一眼レフカメラの試作に成功
一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅠ型」を製造
一眼レフカメラの難問であったミラーのクイックリターン装置を世界に先がけて開発
1955〜1979年一眼レフ専業という選択と、売上の半分を輸出が占める構造距離計連動式を採らない一眼レフカメラへの集中と、専業メーカーへの転換

戦災で工場も製品も焼けた旭光学工業が、1948年に始めたカメラの試作の的を一眼レフに絞り、1954年のクイックリターン装置、1957年のペンタプリズム式『アサヒペンタックス』を経て、一眼レフの専門メーカーとして立った経営判断。

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★★★
ハネウエル社と全米・メキシコに対する代理店契約を締結★★
ベルギーに販売会社アサヒオプティカル・ヨーロッパを設立
TTL露出計方式のSP型を開発
アサヒオプティカル・ブラジルを設立
旭精密(のちペンタックスプレシジョン)に経営参加
工場を新設(1967年9月着工、総額30億円)
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
眼鏡レンズ分野に参入★★
医療機器分野に参入★★
松本三郎社長が急死
松本徹氏が社長に就任
1980〜1999年光学の隣に医療を植え、90年代の赤字で組織を組み替える本社内に開発技術センターを新設
人工歯根「アパセラム」を発表
アパタイトを素材に人工歯根市場へ参入
眼鏡レンズの加工・眼鏡製品の販売会社ペンタックス ヴィジョン インクを設立
日立製作所からのOEM供給を受け8ミリビデオカメラ事業に参入
現地生産のためアサヒ オプティカル フィリピン コーポレーションを設立
ハネウエル社との自動焦点カメラ特許訴訟が和解。和解金約28億円を負担★★
8ミリビデオカメラ事業からの撤退を決定★★
再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管

1992年11月、旭光学工業が松本徹社長を委員長とし常務以上の役員を委員とする再建組織委員会を発足させ、全社的なコストダウンで利益体質を作り直す計画に着手した経営判断。希望退職などの人員削減を計画に含めず、原価低減と生産拠点の海外移管で収益を回復させる設計を採った。

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★★★
1993年3月期に2期連続となる最終赤字93億5300万円を計上★★
2000〜2008年デジタルで出遅れた専業メーカーが、医療を目当てに買われるまで2002年3月期連結決算で当期純損失50億3400万円を計上。小川事業所を閉鎖
商号を旭光学工業からペンタックスに変更。体外診断薬事業へ参入
谷島信彰HOYAとの経営統合を発表。2007年10月の合併を予定★★
谷島信彰HOYAとの合併撤回と社長解職、TOBの受諾

2007年4月、ペンタックスの臨時取締役会が浦野文男社長を解職し、前年12月にHOYAと合意していた合併を撤回した経営判断。新経営陣は単独存続を模索したものの、1か月余りのちに綿貫宜司社長がHOYAの鈴木洋CEOへTOBの受諾を伝え、2008年3月の吸収合併と上場廃止に至った。

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★★★
谷島信彰HOYAに吸収合併され上場廃止
HOYAが「ペンタックス」のデジタルカメラ事業をリコーへ譲渡と発表
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号
  • 証券 1971年

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