1919年11月、東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社が創立[1]された。手がけたのは掛眼鏡と映画用映写レンズの製造で、事業の中身はレンズの研磨にあった。1938年12月には、この合資会社とは別に旭光学工業株式会社が設立され、梶原熊雄氏が社長に就いた[2]。法人を二つに分けたのは事業拡大のためではない。合資会社が軍の管理工場に指定されたため[3]、従来手がけていたレンズ研磨を主とする民需品の製造販売を、別の法人で続ける必要があった。株式会社はレンズ設計に加え、写真機レンズと双眼鏡の製造を始めている。
民需品を続けるための分社は長く保たなかった。株式会社もまた軍の管理工場に指定され[4]、合資会社と併存したまま終戦を迎え、両社とも戦災を受けて全焼した。再建は双方で試みられたものの、1948年2月に合資会社は解散し、株式会社だけが残った。[5]手元に残ったのは1919年以来のレンズ研磨技術だけで、工場も製品も焼けていた。同年9月、輸出向けの双眼鏡と望遠鏡の生産を始め、同時にカメラの試作にも着手[6]した。双眼鏡と望遠鏡は、占領下の日本で外貨を稼げる数少ない民需品で、当座の食いぶちになった。カメラのほうは、売り先も方式も定まらない試作にとどまった。
旭光学工業は試作の的を一眼レフカメラに絞った。レンズを通った像をそのまま見て撮る方式で、距離計連動式が主流だった当時の国産カメラのなかでは前例がない。1951年5月にわが国初の一眼レフカメラの試作に成功し、[7]翌1952年、アサヒフレックスⅠ型として製造を始めた。販売は自前で抱えず、株式会社服部時計店と特約店契約を結んでいる。[8]焼け跡から再建した会社が全国の販路を自力で敷くには時間がかかり、時計商の店頭を借りるほうが早かった。同じ1952年4月には本社と工場を東京都板橋区前野町へ移し[9]、生産の拠点も改めている。
一眼レフには積年の難点が一つあった。シャッターを切るとミラーが跳ね上がったまま戻らず、その直後からファインダーの像が消えてしまう。旭光学工業は1954年、ミラーを自動で復帰させるクイックリターン装置を世界に先がけて開発し[10]、この不便を取り除いた。撮った直後に次の構図を追える一眼レフは、ここで初めて実用の道具になった。『証券』1971年の新規上場会社紹介は、この開発について『今日の1眼レフカメラ隆昌時代への第一歩を築いたわけである』[引用元]と記している。国産初という称号よりも、この機構のほうが後年の製品系列を支えた。
1955年3月、販売拡充のため営業部門を分離し、旭光学商事株式会社に製品販売を一括委託[11]した。製造に専念した旭光学工業は1957年、ペンタプリズムを載せた一眼レフ[12]『アサヒペンタックス』を開発した。五角形のプリズムで像の左右と上下を正し、ファインダーを覗いたまま構図を追えるようにした機構で、以後の一眼レフの標準となった。同社はK型、S2型、S3型、SV型と改良を重ね、1964年にはTTL[13]露出計方式のSP型に到達している。レンズを通った光をそのまま測光する方式で、この機種によって一眼レフでの地位が定まった。
製品名は会社の呼び名も変えた。1955年に設立した販売会社は、後年ペンタックス販売株式会社へ商号を改めている[14]。海外の販売子会社も同じ道をたどり、1962年に設けたベルギー法人は設立時こそアサヒオプティカル・ヨーロッパを名乗ったが、のちにペンタックス ヨーロッパ N.V. へ改めた。[15]1976年に米国、1977年に西ドイツ、1978年にカナダ、1979[16]年に英国と、販売会社は4年で欧米の主要市場へ並び、いずれもペンタックスの名を冠した。ただし親会社の商号が旭光学工業からペンタックスに変わるのは2002年で、[17]製品名が社名を追い越した状態が半世紀近く続いた。1957年に生まれた一つの機種名が、まず販売網を、45年遅れて法人名を書き換えた。
販路は早くから外に向いた。1959年に米国ハネウエル社と全米およびメキシコの代理店契約を結び、[18]1962年にはベルギーへ、1967年にはブラジルへ現地法人を置いている。輸出の対売上高比率は1967年6月期で48.8%、1969年6月期には57.5%に達した[19]。1970年6月期は51.4%へ下がるものの、大阪万博の開催期間中は国内需要に極力応じるというカメラ業界の申し合わせに従った結果で、下がったのはこの期だけである。[20]売上高は1969年6月期に108億円と初めて100[21]億円を超え、1970年6月期には前期比25.0%増の135億円となった。
生産の側では1967年9月から栃木県芳賀郡益子町に総額30億円の工場を建設[22]し、1969年11月に完成させた。1968年6月期に国内需要が回復しても売上の伸びが鈍ったのは、稼働率97.5%という生産能力の限界に突き当たっていたためで、[23]益子工場はこの制約を外すために建てた。もっとも建設は支払利息・減価償却費・消耗工具の増加を招き、対売上高売上原価率は1968年6月期の66.5%から1970年6月期には71.2%へ上がっている。[24]増産の余地は開けたが、売上高の伸びは利益率の低下と抱き合わせであった。1970年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1971年11月には第一部に移った[25]。
上場時点の同社は、他のカメラメーカーとは事業の形が違った。1970年6月期の売上高135億円のうち96.2%を一眼レフカメラとその付属品が占める。同業各社はカメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼いでいた。[26]総合光学工業に分類されながら、実態は一眼レフの専門メーカーだった。同じ専業は当時ミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社しかなく[27]、しかもミランダは輸出向けのみ、ゼンザブロニカは6×6型のみを手がけていた。従業員は2,453人、平均年齢24.6歳、平均勤続4.5年で[28]、年功序列を避けた職能給を敷き、年間税引利益の6分の1を決算賞与として配っている。
専業は強みであると同時に制約でもあった。1965年ごろを境に各社が35ミリ距離計連動式から一眼レフの生産へ切り替え、国内生産台数が増えたため、同社の一眼レフ市場占有率[29]は年々下がっている。先に方式を確立した会社が、方式そのものの普及によって取り分を減らした。旭光学工業はこれに対し、1972年9月の眼鏡レンズ、同年11月の自動製図機、1977年12月の医療機器と、光学とレンズ加工の技術が届く範囲へ事業を広げている。[30]カメラ以外で稼ぐ事業を育てる作業は、この時期から20年余り続いた。
1978年3月、松本三郎社長が狭心症で急死し、副社長の松本徹氏が42歳で社長に就いた[31]。1958年に早稲田大学理工学部応用物理学科を出て入社し、1963年にマサチューセッツ工科大学でインダストリアル・マネジメントを修めたのち、同年8月に取締役、1966年に常務、1968[32]年に副社長を務めている。父である前社長は『女房よりも子供よりも、会社が大切』[引用元]と語る強い個性で社内[33]を率いた。新社長が掲げた理想は父とは反対で、自らが前面に出る経営を採らなかった。
1977年に入った医療機器では[34]、内視鏡を主力に据えた。ただし参入は業界で最も遅く、世界市場の8割近くをオリンパス光学工業が握るなかで、旭光学工業は気管支系から手をつけている。[35]内視鏡の世界市場は1990年代初めでも2000億円程度と小さく[36]、それでも需要は増えていた。医療のもう一方では、1983年3月に人工歯根『アパセラム』を発表し、1984年に人工歯根市場へ参入した。[37]素材はカルシウムとリン酸の化合物であるアパタイトで、骨の成分に近く体になじみやすい。1987年11月には、チタンの周囲をアパタイトで覆う複合型の製造承認を得た。
人工歯根の市場は小さかった。1989年時点で規模は20数億円程度、年間使用本数は10万本に届かず、1本あたり2〜3万円という水準にとどまる。研究段階を含めて30社以上がひしめき、京セラが7割前後を占めていた。[38]それでも各社が引かなかったのは、人工歯根が人工骨・人工関節・骨補填材への入口にあたるためである。旭光学工業ニューセラミックス部の日高恒夫部長は『人工歯根には各社なりの思想が必要なんです』[引用元]と述べている。カメラで磨いたガラスと精密加工の技術を、体内に入れる素材へそのまま持ち込む試みだった。
1993年3月期の連結決算は最終赤字93億5300万円、2期連続の赤字となった[39]。要因は一つではない。米ハネウエル社との自動焦点カメラ特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円、[40]これに営業損益6億5000万円の赤字と30億円を超える金融赤字が重なっている。カメラ部門の営業利益は1991年3月期の92億4200万円から1993年3月期には8億5100[41]万円へ落ちた。自己資本比率は単独では40%を超えていたが、連結では20%を割っている。損失は単独の決算よりも、海外の販売子会社を含む連結の側に深く出ていた。
特許と為替は外から来た負担で、赤字の主因は別にあった。1991年4月に出したコンパクトカメラ『ズーム60X』は米国販売子会社の強気な需要見通しが外れて在庫として残り、4年ぶりに投入した一眼レフ[42]のオートフォーカス機『Zシリーズ』も伸びなかった。過剰在庫を整理するため1993年3月期は生産調整に入り、稼働率の低下が採算をさらに悪くしている。カメラの売上比率は当時なお60%で、業界で最も高い。会社は多角化によって50%以下へ下げることを長年の目標に掲げていたが、1972年に眼鏡レンズへ進出してから20年余を経ても届いていない。[43]
1992年11月、松本徹社長を委員長とし常務以上の役員[44]で構成する再建組織委員会が発足した。委員会の下には、資材購入・運送・一般経費などをテーマとする9つのワーキンググループと、事業部ごとの7つの実行委員会を置いた。松本徹社長が掲げた目標は三つで、カメラ部門の収益性を改善して不況抵抗力をつけること、内視鏡など黒字部門を伸ばすこと、光学機器など赤字部門を見直して早く黒字化することにあった。森勝雄取締役経理部長兼社長室長の試算では、コスト削減の効果は初年度だけで40億円以上、その半分以上をカメラ部門[45]で生み出す計画だった。
手を入れた先は生産配置と事業の絞り込みだった。益子と小川の2工場が担ってきた一眼レフと高級コンパクトの生産を子会社の東北精機へ集約し、フィリピンの生産子会社は中高級コンパクトの拠点として年産40万台[46]を80万台へ倍増させた。カメラの海外生産比率は、50%から3年で70%へ引き上げる計画だった。1992年秋には、1986年に日立製作所からのOEM供給[47]を受けて参入した8ミリビデオカメラからの撤退を決めた。鈴木実専務生産統括本部長は『家電メーカーの赤字覚悟の価格競争には対抗できず、黒字転換のメドが立たないので撤退を決めた』[引用元]と説明している。
人員には手をつけなかった。1993年3月以降に110人を配置転換し、うち40人を内視鏡部門へ移している。削減は自然減に委ね、年100人・3年で300人を減らして2300人体制にする計画で、[48]希望退職は募らなかった。森取締役は配置転換について『当社としては近年にない規模だった』[引用元]と語っている。削る対象から人を外した以上、原価は資材購入や運送、一般経費の側から落とすほかない。もっとも、雇用を守った代わりに固定費の削減幅は限られ、収益の回復はカメラの販売台数に依存した。会社側の予想する販売台数を過大とみるアナリストは複数いた[49]。
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|---|---|---|---|---|
| 1919〜1954年掛眼鏡のレンズ研磨から、国産初の一眼レフカメラまで | 前身の旭光学工業を創立 | ★ | ||
| 掛眼鏡と映画用映写レンズの製造を開始 | ★ | |||
| 梶原熊雄氏を社長に旭光学工業を設立 | ★ | |||
| レンズ設計と写真機レンズ・双眼鏡の製造を開始 | ★ | |||
| 終戦時に旭光学工業と旭光学がともに戦災で全焼 | ★ | |||
| 旭光学が解散。旭光学工業のみが大正8年以来のレンズ研磨技術を継承 | ★ | |||
| 輸出向け双眼鏡・望遠鏡の生産を開始 | ★ | |||
| カメラの試作に着手 | ★★ | |||
| わが国初の一眼レフカメラの試作に成功 | ★ | |||
| 一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅠ型」を製造 | ★ | |||
| 一眼レフカメラの難問であったミラーのクイックリターン装置を世界に先がけて開発 | ★ | |||
| 1955〜1979年一眼レフ専業という選択と、売上の半分を輸出が占める構造 | 距離計連動式を採らない一眼レフカメラへの集中と、専業メーカーへの転換 戦災で工場も製品も焼けた旭光学工業が、1948年に始めたカメラの試作の的を一眼レフに絞り、1954年のクイックリターン装置、1957年のペンタプリズム式『アサヒペンタックス』を経て、一眼レフの専門メーカーとして立った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| ハネウエル社と全米・メキシコに対する代理店契約を締結 | ★★ | |||
| ベルギーに販売会社アサヒオプティカル・ヨーロッパを設立 | ★ | |||
| TTL露出計方式のSP型を開発 | ★ | |||
| アサヒオプティカル・ブラジルを設立 | ★ | |||
| 旭精密(のちペンタックスプレシジョン)に経営参加 | ★ | |||
| 工場を新設(1967年9月着工、総額30億円) | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | |||
| 眼鏡レンズ分野に参入 | ★★ | |||
| 医療機器分野に参入 | ★★ | |||
| 松本三郎社長が急死 | ★ | |||
| 松本徹氏が社長に就任 | ★ | |||
| 1980〜1999年光学の隣に医療を植え、90年代の赤字で組織を組み替える | 本社内に開発技術センターを新設 | ★ | ||
| 人工歯根「アパセラム」を発表 | ★ | |||
| アパタイトを素材に人工歯根市場へ参入 | ★ | |||
| 眼鏡レンズの加工・眼鏡製品の販売会社ペンタックス ヴィジョン インクを設立 | ★ | |||
| 日立製作所からのOEM供給を受け8ミリビデオカメラ事業に参入 | ★ | |||
| 現地生産のためアサヒ オプティカル フィリピン コーポレーションを設立 | ★ | |||
| ハネウエル社との自動焦点カメラ特許訴訟が和解。和解金約28億円を負担 | ★★ | |||
| 8ミリビデオカメラ事業からの撤退を決定 | ★★ | |||
| 再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管 1992年11月、旭光学工業が松本徹社長を委員長とし常務以上の役員を委員とする再建組織委員会を発足させ、全社的なコストダウンで利益体質を作り直す計画に着手した経営判断。希望退職などの人員削減を計画に含めず、原価低減と生産拠点の海外移管で収益を回復させる設計を採った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1993年3月期に2期連続となる最終赤字93億5300万円を計上 | ★★ | |||
| 2000〜2008年デジタルで出遅れた専業メーカーが、医療を目当てに買われるまで | 2002年3月期連結決算で当期純損失50億3400万円を計上。小川事業所を閉鎖 | ★ | ||
| 商号を旭光学工業からペンタックスに変更。体外診断薬事業へ参入 | ★ | |||
| 谷島信彰 | HOYAとの経営統合を発表。2007年10月の合併を予定 | ★★ | ||
| 谷島信彰 | HOYAとの合併撤回と社長解職、TOBの受諾 2007年4月、ペンタックスの臨時取締役会が浦野文男社長を解職し、前年12月にHOYAと合意していた合併を撤回した経営判断。新経営陣は単独存続を模索したものの、1か月余りのちに綿貫宜司社長がHOYAの鈴木洋CEOへTOBの受諾を伝え、2008年3月の吸収合併と上場廃止に至った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 谷島信彰 | HOYAに吸収合併され上場廃止 | ★ | ||
| HOYAが「ペンタックス」のデジタルカメラ事業をリコーへ譲渡と発表 | ★ |
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事実根拠:出所(ペンタックス)