{"title":"ペンタックスの歴史概略","sections":[{"start_year":1919,"end_year":1954,"main_title":"掛眼鏡のレンズ研磨から、国産初の一眼レフカメラまで","subsections":[{"title":"二つの法人に分かれ、戦災で二つとも焼けた出発","text":"1919年11月、東京都豊島区西巣鴨に旭光学工業合資会社が創立された。手がけたのは掛眼鏡と映画用映写レンズの製造で、事業の中身はレンズの研磨にあった。1938年12月には、この合資会社とは別に旭光学工業株式会社が設立され、梶原熊雄氏が社長に就いた。法人を二つに分けたのは事業拡大のためではない。合資会社が軍の管理工場に指定されたため、従来手がけていたレンズ研磨を主とする民需品の製造販売を、別の法人で続ける必要があった。株式会社はレンズ設計に加え、写真機レンズと双眼鏡の製造を始めている。\n\n民需品を続けるための分社は長く保たなかった。株式会社もまた軍の管理工場に指定され、合資会社と併存したまま終戦を迎え、両社とも戦災を受けて全焼した。再建は双方で試みられたものの、1948年2月に合資会社は解散し、株式会社だけが残った。手元に残ったのは1919年以来のレンズ研磨技術だけで、工場も製品も焼けていた。同年9月、輸出向けの双眼鏡と望遠鏡の生産を始め、同時にカメラの試作にも着手した。双眼鏡と望遠鏡は、占領下の日本で外貨を稼げる数少ない民需品で、当座の食いぶちになった。カメラのほうは、売り先も方式も定まらない試作にとどまった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年「旭光学株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"誰も量産していない方式を選んだ、という参入","text":"旭光学工業は試作の的を一眼レフカメラに絞った。レンズを通った像をそのまま見て撮る方式で、距離計連動式が主流だった当時の国産カメラのなかでは前例がない。1951年5月にわが国初の一眼レフカメラの試作に成功し、翌1952年、アサヒフレックスⅠ型として製造を始めた。販売は自前で抱えず、株式会社服部時計店と特約店契約を結んでいる。焼け跡から再建した会社が全国の販路を自力で敷くには時間がかかり、時計商の店頭を借りるほうが早かった。同じ1952年4月には本社と工場を東京都板橋区前野町へ移し、生産の拠点も改めている。\n\n一眼レフには積年の難点が一つあった。シャッターを切るとミラーが跳ね上がったまま戻らず、その直後からファインダーの像が消えてしまう。旭光学工業は1954年、ミラーを自動で復帰させるクイックリターン装置を世界に先がけて開発し、この不便を取り除いた。撮った直後に次の構図を追える一眼レフは、ここで初めて実用の道具になった。『証券』1971年の新規上場会社紹介は、この開発について「今日の1眼レフカメラ隆昌時代への第一歩を築いたわけである」と記している。国産初という称号よりも、この機構のほうが後年の製品系列を支えた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年「旭光学株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1955,"end_year":1979,"main_title":"一眼レフ専業という選択と、売上の半分を輸出が占める構造","subsections":[{"title":"一つの機種名が、会社の呼び名になるまで","text":"1955年3月、販売拡充のため営業部門を分離し、旭光学商事株式会社に製品販売を一括委託した。製造に専念した旭光学工業は1957年、ペンタプリズムを載せた一眼レフ「アサヒペンタックス」を開発した。五角形のプリズムで像の左右と上下を正し、ファインダーを覗いたまま構図を追えるようにした機構で、以後の一眼レフの標準となった。同社はK型、S2型、S3型、SV型と改良を重ね、1964年にはTTL露出計方式のSP型に到達している。レンズを通った光をそのまま測光する方式で、この機種によって一眼レフでの地位が定まった。\n\n製品名は会社の呼び名も変えた。1955年に設立した販売会社は、後年ペンタックス販売株式会社へ商号を改めている。海外の販売子会社も同じ道をたどり、1962年に設けたベルギー法人は設立時こそアサヒオプティカル・ヨーロッパを名乗ったが、のちにペンタックス ヨーロッパ N.V. へ改めた。1976年に米国、1977年に西ドイツ、1978年にカナダ、1979年に英国と、販売会社は4年で欧米の主要市場へ並び、いずれもペンタックスの名を冠した。ただし親会社の商号が旭光学工業からペンタックスに変わるのは2002年で、製品名が社名を追い越した状態が半世紀近く続いた。1957年に生まれた一つの機種名が、まず販売網を、45年遅れて法人名を書き換えた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年「旭光学株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年6月19日号「新社長登場 松本徹氏（旭光学工業）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸出が過半を占め、上場に届いた1970年前後","text":"販路は早くから外に向いた。1959年に米国ハネウエル社と全米およびメキシコの代理店契約を結び、1962年にはベルギーへ、1967年にはブラジルへ現地法人を置いている。輸出の対売上高比率は1967年6月期で48.8%、1969年6月期には57.5%に達した。1970年6月期は51.4%へ下がるものの、大阪万博の開催期間中は国内需要に極力応じるというカメラ業界の申し合わせに従った結果で、下がったのはこの期だけである。売上高は1969年6月期に108億円と初めて100億円を超え、1970年6月期には前期比25.0%増の135億円となった。\n\n生産の側では1967年9月から栃木県芳賀郡益子町に総額30億円の工場を建設し、1969年11月に完成させた。1968年6月期に国内需要が回復しても売上の伸びが鈍ったのは、稼働率97.5%という生産能力の限界に突き当たっていたためで、益子工場はこの制約を外すために建てた。もっとも建設は支払利息・減価償却費・消耗工具の増加を招き、対売上高売上原価率は1968年6月期の66.5%から1970年6月期には71.2%へ上がっている。増産の余地は開けたが、売上高の伸びは利益率の低下と抱き合わせであった。1970年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1971年11月には第一部に移った。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年「旭光学株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年6月19日号「新社長登場 松本徹氏（旭光学工業）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"96%を一つの製品群に預けた会社の、専業という条件","text":"上場時点の同社は、他のカメラメーカーとは事業の形が違った。1970年6月期の売上高135億円のうち96.2%を一眼レフカメラとその付属品が占める。同業各社はカメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼いでいた。総合光学工業に分類されながら、実態は一眼レフの専門メーカーだった。同じ専業は当時ミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社しかなく、しかもミランダは輸出向けのみ、ゼンザブロニカは6×6型のみを手がけていた。従業員は2,453人、平均年齢24.6歳、平均勤続4.5年で、年功序列を避けた職能給を敷き、年間税引利益の6分の1を決算賞与として配っている。\n\n専業は強みであると同時に制約でもあった。1965年ごろを境に各社が35ミリ距離計連動式から一眼レフの生産へ切り替え、国内生産台数が増えたため、同社の一眼レフ市場占有率は年々下がっている。先に方式を確立した会社が、方式そのものの普及によって取り分を減らした。旭光学工業はこれに対し、1972年9月の眼鏡レンズ、同年11月の自動製図機、1977年12月の医療機器と、光学とレンズ加工の技術が届く範囲へ事業を広げている。カメラ以外で稼ぐ事業を育てる作業は、この時期から20年余り続いた。\n\n1978年3月、松本三郎社長が狭心症で急死し、副社長の松本徹氏が42歳で社長に就いた。1958年に早稲田大学理工学部応用物理学科を出て入社し、1963年にマサチューセッツ工科大学でインダストリアル・マネジメントを修めたのち、同年8月に取締役、1966年に常務、1968年に副社長を務めている。父である前社長は「女房よりも子供よりも、会社が大切」と語る強い個性で社内を率いた。留学先で同じ下宿にいたヤマハ発動機の田中俊二取締役は、ペンタプリズムの開発苦心談を聞いて「非常に独創性のある男」という印象を持ったと述べている。新社長が掲げた理想は父とは反対で、自らが前面に出る経営を採らなかった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年「旭光学株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年6月19日号「新社長登場 松本徹氏（旭光学工業）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"松本徹","role":"社長就任直後の発言","date":"1978","text":"父親が社長というのは、良い面も悪い面もありましたね。いまの私の存在価値は、前社長の人脈や経営に対する考え方を、十分知りつくしている点だと思うんです。\n理想は、誰が社長かわからないような会社。『三国志』の劉備玄徳とか西郷隆盛をみると、本人は特別な働きをしたわけではない。それでも背後の人が人格的にまとまる核になって、全体がすばらしいチームワークで動いている。これだと思うんです。","source":"日経ビジネス 1978年6月19日号「新社長登場 松本徹氏（旭光学工業）」","paragraph":3}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1999,"main_title":"光学の隣に医療を植え、90年代の赤字で組織を組み替える","subsections":[{"title":"内視鏡と人工歯根——最後発から入った医療の20年","text":"1977年に入った医療機器では、内視鏡を主力に据えた。ただし参入は業界で最も遅く、世界市場の8割近くをオリンパス光学工業が握るなかで、旭光学工業は気管支系から手をつけている。内視鏡の世界市場は1990年代初めでも2000億円程度と小さく、それでも需要は増えていた。医療のもう一方では、1983年3月に人工歯根「アパセラム」を発表し、1984年に人工歯根市場へ参入した。素材はカルシウムとリン酸の化合物であるアパタイトで、骨の成分に近く体になじみやすい。1987年11月には、チタンの周囲をアパタイトで覆う複合型の製造承認を得た。\n\n人工歯根の市場は小さかった。1989年時点で規模は20数億円程度、年間使用本数は10万本に届かず、1本あたり2〜3万円という水準にとどまる。研究段階を含めて30社以上がひしめき、京セラが7割前後を占めていた。それでも各社が引かなかったのは、人工歯根が人工骨・人工関節・骨補填材への入口にあたるためである。旭光学工業ニューセラミックス部の日高恒夫部長は「人工歯根には各社なりの思想が必要なんです」と述べている。カメラで磨いたガラスと精密加工の技術を、体内に入れる素材へそのまま持ち込む試みだった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年11月6日号「人工歯根 “おいしい”市場への期待込め総力戦へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月9・16日号「旭光学工業「再建」組織でコスト削減 成否握るカメラの回復」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"1993年3月期93億円の赤字を作った四つの要因","text":"1993年3月期の連結決算は最終赤字93億5300万円、2期連続の赤字となった。要因は一つではない。米ハネウエル社との自動焦点カメラ特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円、これに営業損益6億5000万円の赤字と30億円を超える金融赤字が重なっている。カメラ部門の営業利益は1991年3月期の92億4200万円から1993年3月期には8億5100万円へ落ちた。自己資本比率は単独では40%を超えていたが、連結では20%を割っている。損失は単独の決算よりも、海外の販売子会社を含む連結の側に深く出ていた。\n\n特許と為替は外から来た負担で、赤字の主因は別にあった。1991年4月に出したコンパクトカメラ「ズーム60X」は米国販売子会社の強気な需要見通しが外れて在庫として残り、4年ぶりに投入した一眼レフのオートフォーカス機「Zシリーズ」も伸びなかった。過剰在庫を整理するため1993年3月期は生産調整に入り、稼働率の低下が採算をさらに悪くしている。カメラの売上比率は当時なお60%で、業界で最も高い。会社は多角化によって50%以下へ下げることを長年の目標に掲げていたが、1972年に眼鏡レンズへ進出してから20年余を経ても届いていない。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年11月6日号「人工歯根 “おいしい”市場への期待込め総力戦へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月9・16日号「旭光学工業「再建」組織でコスト削減 成否握るカメラの回復」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"人を切らずに原価を落とす、という再建の設計","text":"1992年11月、松本徹社長を委員長とし常務以上の役員で構成する再建組織委員会が発足した。委員会の下には、資材購入・運送・一般経費などをテーマとする9つのワーキンググループと、事業部ごとの7つの実行委員会を置いた。松本社長が掲げた目標は三つで、カメラ部門の収益性を改善して不況抵抗力をつけること、内視鏡など黒字部門を伸ばすこと、光学機器など赤字部門を見直して早く黒字化することにあった。森勝雄取締役経理部長兼社長室長の試算では、コスト削減の効果は初年度だけで40億円以上、その半分以上をカメラ部門で生み出す計画だった。\n\n手を入れた先は生産配置と事業の絞り込みだった。益子と小川の2工場が担ってきた一眼レフと高級コンパクトの生産を子会社の東北精機へ集約し、フィリピンの生産子会社は中高級コンパクトの拠点として年産40万台を80万台へ倍増させた。カメラの海外生産比率は、50%から3年で70%へ引き上げる計画だった。1992年秋には、1986年に日立製作所からのOEM供給を受けて参入した8ミリビデオカメラからの撤退を決めた。鈴木実専務生産統括本部長は「家電メーカーの赤字覚悟の価格競争には対抗できず、黒字転換のメドが立たないので撤退を決めた」と説明している。\n\n人員には手をつけなかった。1993年3月以降に110人を配置転換し、うち40人を内視鏡部門へ移している。削減は自然減に委ね、年100人・3年で300人を減らして2300人体制にする計画で、希望退職は募らなかった。森取締役は配置転換について「当社としては近年にない規模だった」と語っている。削る対象から人を外した以上、原価は資材購入や運送、一般経費の側から落とすほかない。もっとも、雇用を守った代わりに固定費の削減幅は限られ、収益の回復はカメラの販売台数に依存した。会社側の予想する販売台数を過大とみるアナリストは複数いた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年11月6日号「人工歯根 “おいしい”市場への期待込め総力戦へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月9・16日号「旭光学工業「再建」組織でコスト削減 成否握るカメラの回復」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"松本徹","role":"再建組織委員会の委員長として","date":"1993","text":"第1にカメラ部門の収益性を改善し不況抵抗力をつける。第2に内視鏡などの黒字部門を着実に伸ばす。第3に光学機器など赤字部門の徹底見直しを図り、早急に黒字化する。\n（「再建」と名づけた理由について）今回の大幅赤字が、利益改善と言うような段階ではなく、より本質的な変革を早急にやらなければならないという緊急危険信号であるということを全社に周知徹底したい。","source":"日経ビジネス 1993年8月9・16日号「旭光学工業「再建」組織でコスト削減 成否握るカメラの回復」","paragraph":1}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2008,"main_title":"デジタルで出遅れた専業メーカーが、医療を目当てに買われるまで","subsections":[{"title":"社名を製品名に合わせ、部品を買う側に回った2000年代前半","text":"2002年3月期の連結決算は当期純損失50億3400万円で、売上高は1051億円だった。同期には埼玉県の小川事業所を閉鎖している。閉鎖と前後して、2002年10月に商号を旭光学工業株式会社からペンタックス株式会社へ変更した。同時に体外診断薬事業へ参入している。1957年の機種名が、45年を経て法人の名になった。翌2003年3月期以降は売上高1081億円、1344億円、1335億円と回復し、当期純利益も黒字に戻った。医療機器では2004年10月に三菱マテリアルの生体材料事業を譲り受け、同年12月には腹腔鏡手術器具を手がける米マイクロライン インクを買収している。\n\nデジタル一眼レフでは、参入の遅れがそのままシェアの差になった。キヤノンとニコンが1990年代後半から製品を継続的に投入したのに対し、ペンタックスとオリンパスが発売したのは2003年秋以降で、2006年時点の両社のシェアは5%前後にとどまる。カメラ事業から撤退したコニカミノルタと同じ規模でしかない。銀塩カメラの時代は光学とメカトロが中核技術で、精密メーカーの得意分野に収まっていた。デジタルではCCD・液晶・画像処理エンジン・バッテリーを外から買う必要があり、仕入れ部品比率の高さがそのまま原価の重さになった。\n\n対処として選んだのは、部品を持つ相手と組むことだった。2005年10月、韓国サムスン電子傘下でデジタルカメラを手がけるサムスンテックウィンとデジタル一眼レフ分野で提携し、2006年1月末に共同開発製品を市場へ出している。狙いはデバイス調達を有利に進めることにあったが、開発拠点にはサムスンの技術者が常駐した。イメージングシステム事業本部長の鳥越興氏は「コアの光学の部分は守っている」と述べている。製品そのものは評価された。手ぶれ補正をカメラ本体に組み込んだ「K100D」やその後の「K10D」は価格性能比で支持を集め、2007年初めの社内は新製品の売れ行きに沸いていた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月11日号「成長鈍化のデジカメ苦しい老舗メーカー “一眼レフ”が買収対象」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年7月22日号「激震するデジタル一眼レフ戦線 迎え撃つキヤノン、ニコンの勝算 オリンパス、ペンタックスの苦悩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年4月21日号「内紛 実力社長を解職 ペンタックス 「４月革命」の次」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月12日号「精密 ペンタックス内紛問題 ５月１１日が焦点に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月26日号「精密 内紛のペンタックスがＨＯＹＡのＴＯＢ受諾」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2011年7月16日号「ペンタックス身売りで終わらない“再編ドミノ”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統合の合意と、社長を解職するという反乱","text":"2006年12月、ペンタックスはHOYAとの経営統合を発表し、2007年10月の合併を予定した。ガラスを核とするデバイスで高い営業利益率を出すHOYAと、光学技術を持つペンタックスの組み合わせを市場は好意的に受け止めている。ただし合併比率には、大株主のスパークス・グループやフィデリティ投信が不満を持っていた。加えて浦野文男社長は、発表当日の朝まで大半の取締役に統合交渉の事実を伝えていなかった。2007年1月末にはHOYAの鈴木洋CEOが、収益性の低いカメラ事業を売却する可能性に触れている。\n\n2007年4月10日朝の臨時取締役会で、8人の取締役のうち1人が浦野社長の解職動議を出し、賛成多数で可決された。浦野社長と歩調を合わせていた森勝雄専務も職を解かれ、末席取締役だった綿貫宜司氏が社長に昇格している。合併もいったん撤回された。反対派の動機は、HOYAが医療機器部門にしか関心を示さないことへの危機感にあった。デジタル一眼レフが売れている以上、単独でも生き残れるという見方が経営陣の間に浮上している。反対派の判断はその時点の製品競争力から見れば筋が通っていた。誤算は、製品の好調が会社の規模を変えないことにあった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月11日号「成長鈍化のデジカメ苦しい老舗メーカー “一眼レフ”が買収対象」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年7月22日号「激震するデジタル一眼レフ戦線 迎え撃つキヤノン、ニコンの勝算 オリンパス、ペンタックスの苦悩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年4月21日号「内紛 実力社長を解職 ペンタックス 「４月革命」の次」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月12日号「精密 ペンタックス内紛問題 ５月１１日が焦点に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月26日号「精密 内紛のペンタックスがＨＯＹＡのＴＯＢ受諾」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2011年7月16日号「ペンタックス身売りで終わらない“再編ドミノ”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"浦野文男","role":"解職された前社長","date":"2007-04-10","text":"3月末まで取締役一丸となり合併作業を進めていた。解職された理由がさっぱりわからない。","source":"週刊東洋経済 2007年4月21日号「内紛 実力社長を解職 ペンタックス 「４月革命」の次」","paragraph":2}]},{"title":"受諾までの1か月余りと、独立した会社としての終わり","text":"HOYAは2007年4月23日、10月に予定していた合併の断念を発表し、5月末までを検討期間として6月以降の友好的な株式公開買付け（TOB）を目指すと表明した。筆頭株主のスパークス・グループは、解職された浦野前社長らを取締役に残し現経営陣の続投を認めない株主提案を、6月22日の株主総会に向けて出している。新経営陣が5月11日に発表した中期経営計画は、中核3事業への集中と再来年度の営業利益率6%近くという内容で、独立を支える材料としては弱かった。5月16日、綿貫社長は鈴木洋CEOとのトップ会談で統合の受諾を伝えた。解職劇から1か月余りで決着している。6月の株主総会を経て綿貫社長も退き、旧旭光学商事の出身で欧州事業と経営企画を担ってきた谷島信彰氏が社長に就いている。\n\nペンタックスの時価総額は1000億円弱で、HOYAが1年に稼ぐ営業利益にも満たない。スパークス・グループの運用資産は1兆7000億円に上る。決着を分けたのは製品の出来ではなく、この規模の差であった。2007年8月にHOYAのTOBが成立して連結子会社となり、2008年3月に吸収合併されて株式は上場廃止となった。1938年の設立から70年、1919年のレンズ研磨から数えれば89年で、独立した会社としての歴史は終わっている。カメラ事業はその後もHOYAの中で赤字が続き、2011年7月、HOYAはペンタックスブランドのデジタルカメラ事業をリコーへ譲渡すると発表した。移管は同年10月をめどとし、ブランドはリコーのもとで残った。買収の狙いが内視鏡にあったことを、この譲渡が裏づけている。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月11日号「成長鈍化のデジカメ苦しい老舗メーカー “一眼レフ”が買収対象」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年7月22日号「激震するデジタル一眼レフ戦線 迎え撃つキヤノン、ニコンの勝算 オリンパス、ペンタックスの苦悩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年4月21日号「内紛 実力社長を解職 ペンタックス 「４月革命」の次」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月12日号「精密 ペンタックス内紛問題 ５月１１日が焦点に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年5月26日号「精密 内紛のペンタックスがＨＯＹＡのＴＯＢ受諾」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2011年7月16日号「ペンタックス身売りで終わらない“再編ドミノ”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"鈴木洋","role":"HOYA CEO・カメラ事業のリコーへの譲渡を発表して","date":"2011-07","text":"バトンタッチできて、ほっとしている。","source":"週刊東洋経済 2011年7月16日号「ペンタックス身売りで終わらない“再編ドミノ”」","paragraph":2}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1952年に、戦災で全焼した会社が量産の前例のない一眼レフカメラへ事業を絞ったのか","a":"工場も製品も焼け、1919年以来のレンズ研磨技術だけが残ったためである。1948年9月に輸出向けの双眼鏡と望遠鏡で食いつなぎつつカメラの試作に着手し、1951年5月にわが国初の一眼レフの試作に成功した。1954年にはミラーが戻らない難点を解くクイックリターン装置を世界に先がけて開発した。1970年6月期は売上135億円の96.2%を一眼レフと付属品が占め、カメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼ぐ同業他社とは製品構成が違った。ところが1965年ごろに各社が一眼レフへ移ると、方式の普及が市場占有率を押し下げた。"},{"q":"なぜ1993年3月期に93億円の赤字を出しながら、人員削減をしなかったのか","a":"赤字の主因が人件費ではなく、特許訴訟と円高にあったためである。最終赤字93億5300万円のうち、米ハネウエル社との特許訴訟の和解金が約28億円、円高による為替差損が約18億円を占めた。1992年11月、松本徹社長を委員長とする再建組織委員会が発足し、9つのワーキンググループを置いて全社の原価を洗い直している。生産は益子と小川の2工場から子会社の東北精機へ集約し、海外生産比率を50%から3年で70%へ引き上げる計画を立てた。人員は110人の配置転換にとどめ、減員は年100人・3年で300人の自然減に委ねている。"},{"q":"なぜ2007年に、統合へ反対して社長を解職した経営陣が1か月余りでTOBを受諾したのか","a":"製品の競争力では会社の規模を変えられなかったためである。2007年4月10日、臨時取締役会は浦野文男社長を解職し、2006年12月に決めていたHOYAとの合併を撤回した。デジタル一眼レフ「K10D」「K100D」が売れていた時期で、医療機器部門にしか関心を示さないHOYAへの反発には裏づけがあった。しかしHOYAは4月23日に合併を断念してTOBへ切り替え、筆頭株主のスパークス・グループは現経営陣の続投を認めない株主提案を出した。時価総額1000億円弱はHOYAが1年に稼ぐ営業利益にも満たなかった。"}]}}