半導体・携帯・PCを手放した祖業ハードからの連続撤退

FACOM以来のハード自前主義を、富士通はどこまで捨ててサービスに残すか

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時期 2010年4月
意思決定者 山本正已・田中達也(社長) 社長
論点 事業ポートフォリオの選択と集中
概要
2000年代後半から2010年代にかけて、富士通が半導体・携帯電話・パソコンという祖業由来のハード事業を分社・合弁・売却で次々に手放し、SI(システムインテグレーション)とサービスへ経営資源を絞り込んでいった一連の判断。「捨て続けた20年」と評される選択と集中である。
背景
通信機・コンピュータ・半導体の3本柱が2000年代初頭に同時に揺らぎ、赤字体質のハード事業がSIの足を引っ張った。DRAMは韓国勢に押され、汎用機は分散処理の普及で市場が縮み、ハードを広く抱える総合メーカー像そのものが限界を露呈していた。
内容
半導体は2008年に分社し、2015年にパナソニックとシステムLSIを統合してソシオネクストへ、製造はUMC等へ移した。携帯は2014年に分社し2019年に譲渡、PCは2017年にレノボと合弁化した。祖業のハード事業を段階的に本体から切り離した。
含意
何を残したかではなく何を手放したかで語られた時期であった。ハードの広がりを捨ててSI・サービスに絞った判断は、赤字の止血と身軽化を進める一方で成長の絵を欠き、後年のFujitsu Uvanceによる事業再定義への長い地ならしとなった。
筆者の見解

捨てる決断の速さと、残す構想の遅さ

この連続撤退を、単なる敗退の記録と読むのは一面的である。赤字体質のハードを抱え続ければ、SIの稼ぎまで削られていた。半導体・携帯・PCを外へ出す判断は、身軽になって稼げる事業に集中するための、避けがたい整理であったとみることができる。日本の電機各社が総合メーカー像を持て余すなかで、富士通は捨てる決断をむしろ速い部類で下していった。

問題は、捨てる速さに対して、残す構想が遅れた点にある。何を手放すかは次々と決まったのに、残した事業で何を売り、どう伸ばすかという問いは、20年近く宙に浮いたままであった。選択と集中は、集中する先の絵があって初めて成長へ結びつく。富士通が捨て続けた20年は、切り離す判断だけでは成長は戻らないことを、静かに示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

総合メーカー像の限界と、赤字の祖業ハード

1990年代末の富士通は、通信機・コンピュータ・半導体の3本柱を抱える国内有数の総合ICTメーカーであった。事業の広さが強みであったが、2000年代に入るとその広さが重荷へ転じた。DRAMは韓国勢の台頭で価格が崩れ、メインフレームは分散型のクライアントサーバの普及で市場が縮み、通信機は国内市場の成熟と海外競争に同時に直面した。全方位で抱えるハードが、まとめて採算の足を引っ張るようになっていた[1]

周辺のハードは、危機のたびに先に整理された。2002年の巨額赤字を経て、2009年3月期にはリーマンショックで再び最終赤字に沈むと、富士通はHDD事業を東芝へ譲り、DRAM事業をエルピーダメモリへ移した。10年来掲げてきたサービス事業への転換が遅々として進まないまま、まず身の回りのハードから手放していく格好であった。祖業を切り離す判断は、以後の富士通を貫く常態となっていく[2]

決断

半導体を切り、パナソニックと統合する

最初に動いたのは半導体であった。2008年にLSI事業を会社分割し、2010年4月に富士通セミコンダクターへ商号を変えて本体から切り離した。国内DRAMの苦境とロジック半導体の規模不足、ファブレス化の波に対応した組織再編であった。2015年3月にはパナソニックとシステムLSI事業を統合し、設計会社ソシオネクストを発足させる。製造は三重工場を台湾UMCへ移すなど、内製の体制を段階的に外へ出した。FACOM100以来のハード自前主義を象徴する半導体の内製が、こうして消えていった[3][4]

携帯電話とパソコンも同じ軌道を辿った。携帯は2014年3月に富士通コネクテッドテクノロジーズへ分社し、2019年4月にポラリス・キャピタルへ譲渡して完全に手を引いた。パソコンは2017年11月にレノボと合弁化し、富士通クライアントコンピューティングを発足させ、レノボが過半を出資する会社とした。NECと同じく、日本のPC産業再編のなかでハードの主導権を外部へ委ねる判断であった。祖業の通信機・コンピュータに連なる事業群が、一つずつ本体から離れていった[5][6]

結果

残ったのはSI、描けなかった成長

手放した末に残ったのは、SI・ミドルウェア・サーバ・ネットワーク機器とメインフレームであった。国内SI事業は官公庁・大手金融・製造業に深く食い込み、保守案件と大型プロジェクトで安定した粗利を生む質の高い事業であった。ハードの広がりを捨ててサービス側へ絞る判断が積み重なり、富士通は総合メーカーから、SIを主軸とする会社へと輪郭を変えていった[7]

もっとも、身軽になっても次の成長の絵は描けずにいた。2015年に山本正已から田中達也へ、2019年に田中達也から時田隆仁へと社長が代わるなかで、富士通は「何を残したか」ではなく「何を手放したか」で語られ続けた。捨てる判断は数多く下されたが、残した事業で稼ぐ構えの組み直しは先送りされた。祖業ハードを外へ出し切ったことが、Fujitsu Uvanceでサービス集中を宣言する後年の再定義へ、長い助走を与えた[8]

出典・参考