トランプ専業を脱するための多角化とその全敗
本業の天井を破ろうとタクシー・即席食品・玩具の外へ広げた事業は、なぜことごとく失敗したのか
更新:
- 概要
- 1960年代、トランプ・かるた専業で国内シェア八割を握った任天堂が、単品経営の頭打ちを破るため、山内溥社長のもとでタクシー(ダイヤ交通)・即席食品(サンオー食品のインスタントライス・ふりかけ・ラーメン)・乳母車・複写機など本業と無縁の分野へ次々と多角化し、いずれも失敗して1969年までに撤退した経営判断。
- 背景
- ディズニートランプのヒットとテレビCMで1963年ごろトランプ国内シェア八割を築いたが、単品ゆえに需要が一巡すると1964年から売上の伸びが止まった。1956年の渡米視察で本業の市場規模の天井を見ていた山内氏は、本業の外に次の柱を求めた。
- 内容
- 1961年に近江絹糸と共同出資でサンオー食品を設立し、乾燥米に湯をかける「インスタントライス」やキャラクター付きふりかけを売り出した。山内氏は1955年からタクシー会社ダイヤ交通を率い、のちにレジャー機器・乳母車・複写機にも手を広げたが、いずれもトランプで培った技術や販路との連続性を欠いた。
- 含意
- 多角化はことごとく失敗し、インスタントライスの製造機は日清食品へ売却した。この全敗が「娯楽の外には出ない」という方針を固めさせ、1966年の総合室内ゲーム企業への転換と、工場や在庫を自前で抱えない外注中心の経営という、のちの任天堂の骨格を生んだ。
失敗が消去法で教えた勝ち筋
この多角化の失敗が任天堂に残したのは、二つの教訓だった。一つは、勝てるのは自分たちが土地勘を持つ娯楽の領域に限るという、事実上の選択と集中である。もう一つは、当たり外れの大きい娯楽で工場も在庫も自前で抱えない、身の丈をわきまえた経営である。山内氏は後年、変身を望んだわけではなく、もがいているうちに会社が変わったのだと語っている。次の柱を外に求めて全敗した経験こそが、任天堂に進むべき方向を消去法で指し示した。
この時期に固まった型——設備を持たず外注に徹し、当たれば大きい娯楽に資源を集中する——は、光線銃からゲーム&ウオッチ、ファミコン、そしてスイッチへと続く任天堂の高収益体質の骨格になった。少人数の本体が巨額の利益を生む構造は、1960年代の全敗から逆算された哲学の延長線上にある。成功譚ではなく撤退の記憶にこそ原点がある点に、この会社の特異さがうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
トランプの老舗が築いたシェア八割
任天堂は、花札とトランプの製造で明治期から続いた京都の老舗である。1953年に国産初のプラスチック製トランプを量産し、1959年にはウォルト・ディズニーと国内独占契約を結んでキャラクタートランプを売り出した。山内溥社長は「トランプごときの宣伝にテレビCMを打つなんて、当時では、およそ常識はずれの話」と振り返るが、この宣伝が当たって販売は伸び、1963年ごろにはトランプの国内市場でシェア八割を握った。1962年1月には大阪証券取引所二部へ上場している[1]。
単品経営の天井
ところが、トランプは需要が一巡すると伸びが止まった。「しょせんトランプですから、需要が一巡した39年から売上げの伸びはバッタリ止まってしまった」と山内氏は語る。1956年の渡米視察でも、全米最大手のトランプメーカーですら事業規模が限られる現実を目の当たりにしていた。単品の経営には浮き沈みがつきまとう。「トランプやかるただけでは将来の見通しが立たない」と考えた山内氏は、1961年ごろから本業の外に次の柱を探し始めた[2]。
決断
即席食品への進出
最初に手をつけたのが即席食品だった。山内氏は京都大学の付属研究機関に有望な新商品を尋ね、乾燥米に湯をかけて食べる「インスタントライス」に行き着く。同じころ近江絹糸も京大に相談しており、京大の勧めで両社が出資し、1961年6月にサンオー食品を設立した。ポパイやディズニーのキャラクターを付けたふりかけも売り出し、発売から一年で全国に月商一億円の地盤を築いて、丸美屋の「のりたま」と競った[3][4]。
タクシーから複写機まで
多角化は食品にとどまらなかった。山内氏は1955年からタクシー会社ダイヤ交通の代表を務め、のちに任天堂レジャーシステムを興し、折りたたみ式の乳母車や複写機にも手を広げた。「複写機は文房具さんが相手だったんですが売れなかった」と当時の担当は述べている。いずれの事業も、トランプ製造で培った技術や販路との連続性を欠いていた。本業の頭打ちを前に、次の柱を焦って外へ求めた矢継ぎ早の展開だった[5]。
結果
全敗と撤退
結果は、ことごとく失敗に終わった。インスタントライスは「実際にお湯をかけたインスタントライスはそんなにおいしくなかった。味が逃げてしまう」といい、ふりかけもサンオーラーメンも根づかず、製造機は日清食品へ売却した。1964年から翌年にかけては、トランプの伸び止まりと多角化のツケが重なって「ダブルパンチ」を食らった。1969年までに、タクシーも食品も残らず消えた[6][7]。
娯楽専業への収斂
この全敗が、逆に進む道を定めさせた。任天堂は1966年、トランプ専業の看板を下ろし、室内で遊ぶ娯楽機器を広く手がける「総合室内ゲーム企業」への転換を決めた。娯楽の外には出ない、という選択である。同時に山内氏は、大きな工場や生産ラインを自前で抱えることを避けた。「本格的な設備投資はほとんどやってません」「増産するために工場を増設して人を増やして、ということはしませんでした」。売れ残りが命取りになる娯楽で、在庫を持たない身の丈の経営が、この失敗から固まった[8][9]。
- 日経ビジネス 1983年5月30日号「アイデアは技術の肉付けでヒットする」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1986年3月17日号「あくまで娯楽屋の発想で行きます」(日経マグロウヒル社)
- 経済情報 1964年3月号(経済情報社)
- 国友隆一『セガvs.任天堂 : 新市場で勝つのはどっちだ!?』(こう書房, 1994年)
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)