RV集中と単独路線の堅持(1995年・ホンダの決断)

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論点 規模拡大の再編か単独路線か
ホンダ:業績の推移
売上高(億円)当期純利益率(%)
合併説を退けた単独での存続と、RVへの集中・社長への権限集中による立て直し

何をなぜ決めたか:合併説を退けた単独での存続と、RVへの集中・社長への権限集中による立て直し

概要

1995年の年明け、川本信彦社長は"新しい本田技研工業"になると宣言し、同じ時期に新聞が報じた三菱自動車工業との合併には乗らず、単独で立て直す道を選んだ経営判断。国内販売を80万台へ引き上げる目標を置いて、1994年秋のオデッセイから1995年秋のCR-V、1996年のステップワゴン、S-MXとRVを続けて投入した。

合併説について川本信彦社長は 『時代対応のできない企業が大きくなって、何が良いことがあるだろうかと言いたいですね』 と、規模の追求そのものを退けた。1998年6月に社長を継いだ吉野浩行氏も、1999年に"independent course"を掲げて路線を引き継いだ。

背景

川本信彦社長が就任する前の1990年3月期に905億円あった単独の経常利益は、1994年3月期には227億円と4分の1に落ちた。1994年の販売台数は55万8000台で4年連続の前年割れとなり、開発・生産・販売の部門間に相互不信が生じていた。

三菱自動車工業との合併報道は、RVに出遅れた本田とRVの強い三菱自動車工業が組めば相互に補えるという、ある銀行筋の机上の計算が発端だったと伝えられる。

内容

RVの"波状攻撃"を決めたのは1993年で、国内販売の20万台の上積みには新型車を続けて出す必要があった。オデッセイでは開発の早い段階から生産・販売の意見を取り入れ、開発優先の伝統を崩した。開発総責任者には研究所出身者を就ける慣例をやめて営業・生産・購買の出身者を抜てきし、"技研貴族"と呼ばれた技術者の体質を崩しにかかった。

経営の形も変えた。藤沢武夫氏以来、社長に匹敵する権限を持つ副社長が経営を分担してきたが、川本信彦社長は女房役を置かず、 『企業100年の計のために、大きな決断は1人じゃないとできません』 と社長への権限集中を正面から認めた。

含意

1997年3月期の国内の四輪販売は19.1%増の77万9000台となり、RVは国内販売の5割を超えた。業界平均は4割だった。連結純利益は2,211億円と過去最高を更新し、1999年3月期には3,050億円まで伸びた。

ただし国内販売は目標に届かなかった。1998年3月期の目標を80万台に置いたが、実績は75万7000台、1999年3月期は69万台にとどまった。単独路線を支えたのは国内より北米で、吉野浩行社長は 『規模は関係ないんです。問題は売れる車を持てるかどうかです』 と言い切っている。

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考察:規模ではなく、売れる車で独立を選んだ判断
考察

考察:規模ではなく、売れる車で独立を選んだ判断

この判断の芯は、合併を拒んだことそのものより、拒んだあとに何で生き残るかを具体的な打ち手で示した点にあるとみられる。合併説が流れたのは、利益が4分の1に落ち、部門間に不信が広がった最も弱い時期だった。そこで川本信彦社長は、規模を足すのではなく、開発の慣例と副社長との分担という社内の仕組みを崩し、売れるRVを続けて出すことに賭けた。独立は精神論ではなく、社内の改革が間に合うかどうかの勝負だったのだろう。

もっとも、掲げた国内80万台には届かず、販売は目標の年から減っていった。最高益を支えたのは国内のRVより北米のシビックとアコードで、単独路線の成否は国内改革の成果だけでは説明しきれない。売れる車を持ち続ける限り規模は要らないという吉野浩行社長の論理は、裏返せばヒットが途切れたときに単独で耐えられるかという問いを残したと思われる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

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参考

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