CVCCエンジンの独力開発と石油危機下の四輪シェア逆転

特振法の業界再編に乗らず、本田宗一郎はなぜ排出ガス規制を自前の技術で越えようとしたか

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時期 1972年7月
意思決定者 本田宗一郎 社長
論点 環境技術の内製と四輪事業の自立
概要
1972年、本田技研工業が触媒装置に頼らず排出ガス規制へ適合するCVCCエンジンを独力で開発し、シビックに搭載した経営判断。1973年末からの石油危機のなかで低燃費・低公害のシビックが支持を集め、1974年3月には東洋工業・三菱自動車を抜いて四輪の国内シェア3位へ躍り出た。本田宗一郎社長が主導した独立路線の帰結であった。
背景
1963年に四輪へ参入した後発のホンダは、通商産業省の特定産業振興臨時措置法が描く業界再編に乗れば、規模を得る一方で独立性を手放す立場にあった。米国マスキー法の排出ガス規制が迫るなか、提携ではなく自前の技術で規制を越える道を探っていた。
内容
1972年、世界に先駆けてマスキー法基準を触媒なしで満たすCVCCエンジンを開発し、同年シビックを発売した。1973年12月からは業界の先陣を切って低公害のCVCC搭載車を売り出し、極力ムダを排した設計と高い経済性を両立させた。
含意
石油危機で各社の販売が前年比3〜5割落ち込むなか、ホンダのみが売上を伸ばして四輪3位へ浮上した。外部提携に頼らず環境技術を自前で解いた経験は、以後のホンダの技術的自負をかたちづくる原体験となったとみることができる。
筆者の見解

規制を商品力に変えた独立路線

この判断の芯にあるのは、業界再編に乗って規模を取るのか、自前の技術に賭けて独立を守るのか、という後発メーカーの選択であった。特振法の集約構想を退けたホンダは、排出ガス規制という重い制約を、触媒に頼らないCVCCという独自技術で越え、それを商品の魅力へ転じた。規制対応をコストとしてではなく差別化の源泉として扱えた点に、この時期のホンダの独自性があったとみることができる。石油危機という予期しない外圧が味方に回ったのは幸運でもあったが、その幸運を受け止める技術を先に用意していた事実は動かない。

もっとも、自前で解くという流儀は、時代が変われば別の意味を帯びる。環境技術を独力で越えた原体験は強い自負を残した一方、電動化やソフトウェア定義車という後年の潮流に対しては、他社と組んで規模を作る動きの重石にも転じうる。ある時代に独立を守った強みが、次の時代には課題として立ち上がる——CVCCが引いた自前主義の線は、その後のホンダの提携と再編をめぐる問いへ、静かに接続しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

特振法と後発の四輪参入

1963年、ホンダは軽トラックT360と小型スポーツカーS500で四輪車事業へ本格参入した。二輪で世界最大手へ育った企業の四輪転身であり、当時の通商産業省が掲げた特定産業振興臨時措置法は、国際競争に備えて乗用車メーカーを少数へ集約する構想を描いていた。後発のホンダにとって、その再編に乗ることは規模を得る代わりに独立性を手放すことを意味した。本田宗一郎社長はこの構想に真っ向から抵抗し、提携や統合に頼らず独立メーカーとして四輪へ根を張る道を選んだ[1]

参入から間もなく、四輪の事業環境の焦点は排出ガス規制へと移っていった。1970年に米国で成立したマスキー法は、当時の技術では達成が難しいとされた厳しい基準を課し、各社は触媒装置などによる対応を迫られた。ホンダは1967年に軽乗用車N360を投入して二輪一本足からの転換を数字の面でも進めており、次の焦点は、規制をどの技術で越えるかにあった。ここでも他社との提携による解決ではなく、燃焼そのものを見直す自前の開発に活路を求めていた[2]

自前で越えるという選択

規制対応の主流は、エンジンの外側に触媒装置を付けて排出ガスを浄化する方式にあった。ホンダが選んだのは、燃焼の仕組みそのものを設計し直して有害成分の発生を抑えるという、より根の深い道であった。触媒に頼らずに規制へ適合できれば、部品の供給網や特許を他社に握られずに済む。環境技術を自前で解くという発想は、規模で劣る後発企業が独立を守るための技術戦略でもあり、本田宗一郎社長の技術への自負とも重なっていた[3]

決断

CVCCエンジンの独力開発

1972年、ホンダは複合渦流調整燃焼と名付けた新しい燃焼方式のCVCCエンジンを完成させ、世界に先駆けてマスキー法の排出ガス基準を触媒なしで満たす成果を示した。同年には、このエンジンを載せる受け皿となる小型車シビックを発売する。排出ガス規制への適合という難題を、外部の技術導入ではなく研究所の独力開発で越えた点に、この判断の核があった。規制を制約ではなく商品力の源泉へ転じる筋道が、ここで引かれた[4]

シビックは、極力ムダを排した設計と、米国でも燃費が最高と評された経済性を備えた小型車であった。1973年12月からは、業界の先陣を切って低公害のCVCC搭載車を市場へ送り出した。低い燃費と低公害という二つの要件を一台で満たす商品は、排出ガス規制が強まる米国市場の求めと正面から噛み合っていた。技術の独自性が、そのまま商品の差別化へ結びつく構図であった[5]

承継のなかでの実行

独力開発の実りが市場へ現れる直前、経営は世代交代を迎えていた。1973年10月、本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長がそろって第一線を退き、河島喜好が新社長に就いた。創業者主導の個人経営から組織による経営への移行であり、CVCCという賭けの果実は、承継後の新体制のもとで回収されていく。技術の判断を下した世代と、その成果を事業へつなげた世代が分かれた点に、この転換の時間的な奥行きがうかがえる[6]

結果

石油危機下のシェア逆転

1973年10月の石油危機は、自動車業界を直撃した。各社の販売が前年比で3〜5割も落ち込むなか、ホンダだけが小型車の売上を伸ばし、1974年3月には東洋工業と三菱自動車を抜いて四輪の国内シェア3位へ躍り出た。燃費の良い低公害車が、石油危機後の消費者の意識と噛み合った結果であった。規制への備えとして始めた技術開発が、需要の急変という別の外圧のもとで、そのまま販売の追い風へ転じた[7]

躍進はシェアと売上に鮮明に表れた一方で、利益は必ずしも同じ曲線を描かなかった。単体の売上高は1973年2月期の3,277億円から1974年2月期の3,668億円、1975年2月期の5,199億円へと伸びた。ところが当期純利益は125億円から113億円、106億円へと逆に後退している。石油危機による原材料や物流の費用増が、販売の伸びを利益へ移すことを一時的に妨げていた。数字の裏側には、量を取りながら採算を保つという次の課題も同時に生まれていた[8]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号「“値上げ自粛企業”に何が起こったか 本田技研工業、ワコール、リグレイ、コダック」
  • ホンダ 有価証券報告書【沿革】
  • ホンダ 会社年鑑(1976年版・単体業績)