米HPとの36年合弁の解消と日本HP持分の売却

「日米合弁の成功例」を、横河電機はなぜ600億円で手放したのか

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時期 1999年7月
意思決定者 内田勲 社長
論点 事業の選択と集中、投資財源の確保
概要
1999年、横河電機が米ヒューレット・パッカード(HP)との36年に及ぶ合弁を解消し、日本ヒューレット・パッカード株の保有分25%すべてを約600億円でHPへ売却した経営判断。日本HPは米HPの全額出資会社となり、横河は電子計測器という収益の柱を事実上失う一方、制御システムへの集中に向けた投資財源を得た。
背景
1963年に横河51対HP49で設立したYHPは、定価販売の徹底など米国流の経営を取り入れて高収益に育った。だが1983年に横河の持分は25%へ後退し、技術・経営ノウハウを学ぶという当初の目的は終わり、横河は日本HPを純投資先とみなすようになっていた。高周波計測器で横河が独自展開を進めるにつれ、両社の競合も強まっていた。
内容
HPがコンピュータ事業と計測器事業への会社分割を進めるなか、100%子会社化を望むHPの申し出を横河が受け入れた。1999年7月7日に合弁解消を発表し、簿価14億円の持分を約600億円で譲渡した。年16億円の配当を36年間受け取ってきた計算とほぼ一致する価格であった。
含意
「長年の信義に応じた」という表向きの理由の裏で、横河は収益力・競合性・投資財源をしたたかに計算していた。年金・退職金の積立不足360億円や1999年3月期の連結赤字を抱え、ソリューション事業への転換にはまとまった資金が要った。合弁解消は電子計測器の柱を手放す代わりに、制御システム専業化への資金を確保する選択であった。
筆者の見解

成功例を手放す冷静さ

この判断の核心は、日米合弁の成功例という看板よりも、収益力・競合性・投資財源という実利をとった冷静さにある。年16億円を生む簿価14億円の超優良物件を、将来の配当が伸びにくいと見切って600億円で手放す。相手の会社分割という外的な契機を、横河は自社の事業転換の資金づくりへと転換したとみることができる。「信義に応じた」という穏当な言葉と、価格の緻密な計算とが同居する点に、この決断の性格がにじむ。

もっとも、電子計測器という祖業に連なる柱を失った代償は小さくなかった。合弁解消の翌年以降、横河は工場閉鎖や人員削減方針の撤回といった痛みを伴う再編へ進み、本業を制御システムへ絞り込む長い道のりをたどる。手にした資金が制御事業への集中を後押しした一方で、選択と集中がただちに果実を生んだわけではない。成功した合弁をどの時点で手放すか——横河の1999年の選択は、優良事業の売り時を冷静に見極めることの難しさと重みを示す一例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

成功した合弁が純投資先へ変わるまで

横河電機と米ヒューレット・パッカードは、1963年に横河51対HP49の出資比率で横河ヒューレットパッカード(YHP)を設立した。8年に及ぶ交渉を経て成立したこの合弁は、定価販売の徹底や親会社依存の排除といったHP流の経営を取り入れて独自の文化を築き、1980年には売上高465億円・経常利益率13%超の高収益企業に育った。日米合弁の成功例として広く知られる存在となった[1]

しかし、合弁の性格は年を追って変わっていった。1983年に増資が行われ、横河の持分は51%から25%へ後退した。合弁を通じてHPの技術や経営ノウハウを学ぶという当初の役割は、すでに終わっていた。内田勲社長は、この時期以降、日本HPを純粋な投資先としてとらえてきたと打ち明けている。さらに、横河が高周波計測器の独自展開を進めたことで、日本HPとの競合はむしろ強まっていた[2]

HPの会社分割という契機

合弁解消のきっかけは、HP自身の大規模な事業再編にあった。HPは翌年早々にもコンピュータ事業と計測器事業へ会社を2分割する計画を進めており、これに合わせて各国の現地法人も分割する運びとなった。日本HPも例外ではなかった。ルイス・プラット会長は「100%子会社化によって、いま以上に意思決定の速度を高められる」と、合弁解消の理由を説明した[3]

HPにとって、持分75%を保有していれば経営の主導権に問題はなかった。ただし重要な投資案件は事前に横河へ説明する必要があり、100%子会社化はその手続きも不要にする狙いを含んでいた。相手からの申し出という形をとりながら、合弁を続ける実質的な意味は日米の双方で薄れていた。横河にとっても、この機会は保有する持分の扱いを見直す好機であった[4]

決断

簿価14億円の持分を600億円で

1999年7月7日、横河電機とHPは36年間続いた合弁関係に終止符を打った。横河が保有する日本HP株25%のすべてを、HPが約600億円で買い取った。横河が持つ日本HP株の簿価はわずか14億円であり、これが年間16億円のキャッシュを生む超優良な投資物件であった。会見で内田勲社長は「長年の信義に応じ、HPの申し出を了解した」と語り、相手の申し出を受ける形の穏当な説明にとどめた[5][6]

だが、穏当な言葉の裏で横河のドライな計算も働いていた。年間16億円の配当に合弁期間36年を掛けるとおよそ600億円となり、買収金額とほぼ一致する。パソコンの急速な価格低下などHPの将来の収益力には不安があり、内田社長は「今後、配当が30億円、40億円と増えていくとは考えにくい」とみていた。超優良物件を手放すこの一手には、売り手である横河のしたたかなソロバンがのぞいた[7]

まとまった資金と事業転換

横河が持分売却に踏み切った背景には、資金の必要も強くあった。同社の年金・退職金債務は360億円ほど積み立てが不足しており、1999年3月期の連結決算は40億円あまりの赤字に陥っていた。グループ企業の整理統合も避けられなかった。売却で得る資金は、こうした足元の負担に充てる原資となった[8]

資金は将来への投資にも向けられた。横河はそれまで培った制御・計測の技術を統合し、機器を単体で売るのではなく、システム全体を提供するソリューション・プロバイダーへの転換を掲げていた。その転換には多額の投資が要った。純投資先を高値で売って得た資金を、本業の再定義に振り向ける。HPからの申し出は、横河にとって渡りに船であった[9]

結果

計測器の柱を手放し、制御専業へ

合弁解消によって、横河は収益源の柱であった電子計測器事業を事実上失った。祖業に連なるこの領域を手放したことは、会社の事業構成を大きく動かした。以後、横河はプラント向け制御システム事業への集中を鮮明にしていく。2002年にはNEC系列の安藤電気株を約132億円で取得して通信向け計測器の強化も試みたが、事業の主軸はあくまで制御システムに置かれた[10]

集中の流れは、その後の再編にも及んだ。2003年には国内15工場の閉鎖と希望退職を決め、1983年の北辰電機合併以来堅持してきた「人員削減をしない方針」を撤回した。2010年には残る計測器事業を子会社の横河計測へ移管し、本体を制御システム専業とした。1999年の合弁解消は、こうした選択と集中の連鎖の始まりとなり、100年を超える歴史を持つ横河にとって本業を再定義する構造転換の入口にあたった[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1999年7月19日号「HPとの合弁解消に横河流の計算」
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
  • 横河電機 有価証券報告書(連結・沿革)