カネカ女性かつら直営会社フォンテーヌのアデランスへの譲渡と、人工毛カネカロンの素材供給への専念
素材に徹するか、川下の売り場を持ち続けるか——140店の販売網を97店舗の専業メーカーへ渡した判断
- 概要
- 1985年8月、鐘淵化学工業が女性用かつら「フォンテーヌ」を販売する全額出資子会社フォンテーヌ株式会社の株式全額を、男性かつら専業のアデランスへ譲渡した経営判断。買収費用は10億円強と推定された。同社が新納眞人社長のもとで進めていた事業の入れ替えの一つである。
- 背景
- フォンテーヌは、アクリル系合成繊維カネカロンの用途を開拓するために設けた販売会社であった。1960年代の女性かつら市場から帝人、鐘紡、興人、コマチヘアが撤退したあとも直営で残したのは、人工毛の世界生産の8割を占める鐘淵化学工業にとって、そこが製品テストの場だったためである。
- 内容
- 1986年度を最終年度とする3か年の中期経営計画で、電子材料・特殊樹脂・バイオサイエンスの3部門へ資源を集める方針を採り、化学メーカーの技術と経営力を発揮しにくい事業を、利益が出ているうちに手放す形で処分した。フォンテーヌの1984年度は売上高24億7,000万円、経常利益1億3,000万円であった。
- 含意
- 譲渡時点でフォンテーヌは百貨店136か所の売り場と6か所の直営店を持ち、買い手のアデランスは創業17年で97店舗であった。売り場の数では手放す側のほうが大きかった一方、譲渡後もフォンテーヌはカネカロンを使い続け、人工毛の供給者という位置は動いていない。
テストの場が要らなくなった日
フォンテーヌは、カネカロンの用途を自前で作るために置いた会社であった。年商230億円まで育った素材のうちかつら向けは1割ほどにとどまり、難燃性を生かした住宅用品やインテリアが用途の主役を引き受けた。製品テストの場という役割が薄れた時点で、鐘淵化学工業はフォンテーヌを専業メーカーへ渡した。手放したのは不振の事業ではなく、役目を終えた事業である。新納眞人社長の挙げた「技術と経営力を発揮しにくい事業分野」という基準は、この一件にそのまま当てはまる。
ただ、渡した先で事業が伸びた事実は残る。フォンテーヌは1986年ごろから売上を伸ばし、9年後には市場の約30%を握って店頭公開に至った。10億円強と推定される譲渡額に対し、買い手が手にしたのは140店の売り場と、そこから育った首位の座である。川下の利益は買い手へ移った。ただし、ファッション分野の人材を欠いたまま鐘淵化学工業が同じ伸びを作れたかは分からない。安く売りすぎたと断じることもできない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
カネカロンの用途を開くために置かれた販売会社
鐘淵化学工業は1957年、アクリル系合成繊維カネカロンの製造を始めた。まもなくエクスラン、ボンネル、カシミロンと専業の繊維メーカーが相次いで参入し、規模で競える相手ではなくなった。常務取締役の大澤孝氏は1967年の講演で、大手と同じことをやっては勝負にならないため、他社が手をつけない用途を選んで商品を開発してきたと説明している。難燃性を生かしたカーテンや寝具と並び、人毛に近づけたかつら用の毛髪がその一つであった[1]。
衣料用の道が狭かった事情は、後年の同時代報道からもうかがえる。カネカロンの用途は一部の高級毛糸の代替に限られ、毛布やじゅうたんの素材としては値が張りすぎた。ある営業マンは、作っては出荷するそばから返品が届いて倉庫が満杯になる毎日だったと振り返っている。苦しまぎれに始めたのが女性用かつらの製造販売で、1970年に鐘淵化学工業の全額出資子会社として販売会社が発足し、1979年にフォンテーヌ株式会社となった[2][3]。
収益ではなく、製品テストの場として
1960年代の女性かつらは「2,000億円産業」とはやされ、帝人、鐘紡、興人、コマチヘアといった大手が競って参入した。乱売合戦の末にいずれも撤退し、鐘淵化学工業が直営するフォンテーヌと数社が残った。アデランス社長の根本信男氏は、この残留を収益では説明していない。全世界の人工毛の80%をカネカロンとして生産する鐘淵化学工業にとって、フォンテーヌはそのテストの場であり、なくすわけにいかなかったからだという[4]。
素材の側から見れば、かつらは早い時期からカネカロンの一用途にすぎなくなっていた。1984年度のカネカロンは月産2,800トン、年商230億円まで伸びていたが、かつら向けの需要はその1割程度にとどまる。難燃性を生かした住宅用品やインテリア向けの開拓が進み、販売会社を抱えて需要を作り出す必要は薄れていた。フォンテーヌ自体は、同じ1984年度に売上高24億7,000万円、経常利益1億3,000万円を計上した[5][6]。
決断
利益が出ているうちに手放す
売却を迫る事情は財務にはなかった。1985年3月期の鐘淵化学工業は売上高1,965億円、経常利益120億円をあげ、どちらも当時の過去最高を記録した。そのうえで同社は、1986年度を最終年度とする3か年の中期経営計画のもと、市況に左右されにくく付加価値の高い電子材料、特殊樹脂、バイオサイエンスの3部門へ資源を寄せていた。3部門の売上構成比は1980年度の15%から1984年度に21%へ上がり、1988年度の目標を30%に置いた[7][8]。
資源の付け替えは他の事業でも同時に進んだ。滋賀県の阪本工場では塩ビ被覆電線事業をやめて電子材料の専門工場に切り替え、米国テキサス州には50億円を投じて特殊樹脂工場を建てた。子会社の処分も続き、1984年末にはティーバッグ用特殊紙の南国パルプを日本紙業へ、1985年9月にはうなぎ養殖の合弁会社の保有株式を日本鉱業側へ売った。いずれも利益を出している会社で、新納眞人社長は、利益が出ているからこそ売却が滑らかに進むという[9][10]。
140店を、97店舗の会社へ渡す
フォンテーヌに残された道は二つであった。広告宣伝費を投じて新製品を並べ、ファッション需要をもう一度作り直すか、事業を伸ばせる外部の企業へ売るか。前者はファッション分野の人材を欠くため見送られた。新納社長は、化学メーカーの技術と経営力を発揮しにくい事業分野は、そこそこ利益が出ていても思い切って手放すという基準を示した。専業メーカーの経営力を加えれば事業はさらに活きる、その可能性が大きいうちに売れば、という計算も同時に口にしている[11][12]。
鐘淵化学工業が証券会社を通じてファッション業界の企業へ打診を始めたところ、男性かつら専業のアデランスが買収を申し入れ、1985年8月に株式が譲渡された。買収費用は10億円強と推定されている。渡した売り場は百貨店136か所と直営店6か所、あわせて140店にのぼり、買い手は創業から17年で97店舗であった。根本社長は、これだけの売り場をゼロから作れば買収額の何倍もの費用と時間がかかったはずだと語っている[13][14]。
結果
売り場は伸び、素材の位置は動かなかった
アデランスの傘下に入ったフォンテーヌは、1986年ごろから商品開発、価格政策、流通ルートの整備に手を入れ、売上を大きく伸ばした。頭頂部にボリュームを持たせるトップピースなどが売れ、1994年12月27日には株式を店頭公開した。同年の女性用ウィッグ市場は末端価格で300億円ほどと推定され、フォンテーヌはその約30%を占めて首位に立った。従業員は425人、パートを含めれば526人を数えた[15][16]。
素材の側では断絶が起きなかった。譲渡後もフォンテーヌの主力ブランドは合成繊維100%の素材で作られ、熱に強いカネカロンが使われ続けている。社長の山伏正明氏は1994年の講演で、素材の適合性の問題からモダアクリル系以外の合繊メーカーは姿を消したとし、カネカロンを使えたことが販売を続けられた理由だと説明した。売り場を手放しても、人工毛の供給者としての位置は動かなかった[17]。
- 日経ビジネス 1985年11月11日号「売って活かし、買って伸ばす。」
- 証券アナリストジャーナル 1985年12月号「アデランス 男性かつらで名実ともに世界のトップ」(アデランス株式会社 社長 根本信男・日本証券アナリスト協会 企業分析部会 1985年11月12日)
- 証券アナリストジャーナル 1995年1月号「フォンテーヌ」(フォンテーヌ株式会社 社長 山伏正明)
- 証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」(鐘淵化学工業 常務取締役 大澤孝)