稲畑産業医薬事業を合弁の住友製薬へ営業譲渡し、直営の医薬品事業から撤退

商社が「メーカー」と呼ばれた事業を、なぜ設立したばかりの合弁へ移したのか

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時期 1984年2月
意思決定者(推定) 稲畑勝雄 社長
論点 事業構成と仕入先との役割分担
概要
1984年10月、稲畑産業が医薬事業を住友製薬へ営業譲渡し、1939年2月の医薬品部門新設から45年続いた直営の医薬品事業から退いた経営判断。住友製薬は同年2月に稲畑産業と住友化学工業の共同出資で設立された合弁会社であった。
背景
稲畑産業の医薬品部門は住友化学工業と一体で動き、医薬情報担当者を全国に200数十名配置していたため、業界では商社でありながら「メーカー」と呼ばれていた。一方で薬価基準の引き下げが続き、新薬の開発力を持つメーカーとの差は開きつつあった。
内容
1984年2月に住友化学工業と共同で住友製薬を設立し、同年10月に医薬事業を同社へ営業譲渡した。稲畑産業の営業は化成品と、機械・建材・食品などの部門に絞られた。
含意
2005年4月には住友製薬株式の一部を住友化学へ譲渡し、同社は持分法適用から外れた。創業者が昭和初年に始めた医薬品の取扱いは連結決算から消え、合成樹脂と情報電子が稼ぎ頭となる事業構成へ道が開いた。
筆者の見解

売る力だけでは残れない事業を、どこに預けたか

この判断の中心には、販売力で勝負できる事業とそうでない事業の線引きがある。稲畑産業の医薬品部門は、全国に200数十名の医薬情報担当者を置き、業界から「メーカー」と呼ばれるほどの販売組織を持っていた。それでも稲畑勝雄社長自身が1982年の講演で、これからは新薬を開発する力のあるメーカーとそうでないメーカーの差がはっきり開くと述べている。開発機能を持たない商社が、開発力で勝負が決まる市場で販売だけを担い続けることの難しさを、当事者が誰よりも早く見ていたとみることができる。

手放し方も、単なる売却とは違っていた。住友化学工業と共同で会社を作り、そこへ事業を移すという段取りは、長年一心同体で動いてきた相手との関係を断たずに直営から退く道であった。結果として稲畑産業は2005年に持分法からも離れ、医薬は完全に外部の事業となる。40年後の稲畑産業は合成樹脂と情報電子で連結売上の8割近くを占める会社になっており、1984年に空いた場所は別の商材で埋められた。強い販売網を持つ事業でも、供給側の構造が変われば手放す——化学品専門商社が繰り返し直面する判断の型が、ここに一つ示されているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

商社が「メーカー」と呼ばれた医薬品部門

稲畑産業の医薬品の取扱いは昭和初年、フランスからチフスとコレラの経口予防ワクチンを輸入したことに始まる。当時の受け止め方には合わず商売としては失敗したが、そのときに採用した医薬関係の人材が、1935年ごろに日本染料製造が医薬品の販売を始めた際に生きた。1939年2月、稲畑商店は日本染料製造の医薬品の総販売元となり、医薬品部門を新設した。染料の輸入商が医療の領域へ扱い品目を広げたのは、系列メーカーの製品を売る役割を引き受けたことによる[1][2]

戦後の医薬品部門は、住友化学工業との取引を土台に稲畑産業の主力へ育った。1968年刊の『企業の歴史 明治百年』は、当時の主力を医薬品と合成樹脂の2つとし、医薬品は住友化学、帝国臓器、日本アップジョンなどと結んで売上の28%を占めたと記す。同書の時点で稲畑産業は大阪・東京など4本支店と6出張所を構え、年商は500億円に迫っていた。染料商から出発した会社にとって、医薬品は最も大きな稼ぎ頭の一つであった[3]

住友化学と一体の販売組織と、薬価引き下げの圧力

1982年11月、稲畑勝雄社長は証券アナリスト向けの講演で自社の医薬事業を説明している。戦後は住友化学と苦労を共にしてまとまりができ、帝国臓器、日本アップジョン、ICIファーマなどの製品も扱うが、とりわけ住友化学とは一心同体の組織を組んで動き、同社製品を全国の大手一次問屋へ販売しているため、医薬の業界では稲畑産業は「メーカー」と呼ばれていると述べた。その裏づけとして、普通の問屋にはない医薬情報担当者を200数十名擁し、北は網走から南は鹿児島・沖縄まで配置していることを挙げた[4]

同じ講演で稲畑社長は、業界が健康保険財政の改善に伴う薬価基準の引き下げや老人医療の一部有料化を抱え、病院の倒産も出始めていると述べた。そのうえで、優良な新薬を開発する実力のあるメーカーとそうでないメーカーとの格差がはっきり拡大する時代になるとみて、稲畑産業としてはそうした時代を歓迎し力を入れると語った。販売力ではなく開発力で差がつく段階に入るという読みであり、開発機能を持たない商社にとっては扱う商品の供給元をどう確保するかという課題に直結する見立てであった[5]

決断

合弁会社を作り、そこへ事業を移す

1984年2月、稲畑産業は住友化学工業との共同出資で住友製薬を設立した。両社が持ち寄った医薬の機能を1社に集める合弁であり、この会社はのちに住友ファーマとなる。設立から8カ月後の1984年10月、稲畑産業は医薬事業を住友製薬へ営業譲渡した。1939年2月の医薬品部門新設から45年を経て、稲畑産業は自社直営の医薬品事業から手を引いた。医薬品を売る機能そのものを消したのではなく、住友化学工業と共同で持つ会社へ移す判断であった[6][7]

この移管が意味したのは、稲畑産業の事業構成から1本の柱を外すことであった。1982年の講演で稲畑社長は、自社の営業を化成品部門、医薬品部門、機械・建材・食品など開発的な要素の多い第三の部門という3つに大別して説明していた。そのうち医薬品部門を丸ごと合弁へ移せば、残るのは化学品・染料・合成樹脂を束ねる化成品と、機械建材・食品の側だけになる。全国に張り巡らせた医薬情報担当者の組織も、稲畑産業の手元からは離れた[8]

譲渡の年に何が残ったか

譲渡の前後で単体業績は目に見えて変わった。1984年3月期の売上高2,665億円・経常利益26億円に対し、1985年3月期は売上高2,343億円・経常利益14億円となった。当期純利益は5.9億円から6.5億円へ増えており、売上と経常利益の減少をそのまま業績悪化と読むことはできない。医薬事業を移した年度の数字として、規模の縮小と収益構造の入れ替えが同時に起きていたとみられる[9]

残された化成品部門では、稲畑社長が1982年の講演で今後の重点に挙げた領域が伸びていた。化学品本部では磁性酸化鉄をVTRやディスク向けの磁性材、複写機用のバインダーとして最重視し、次いで医薬・農薬・染料の中間物であるファインケミカルを挙げた。合成樹脂本部では汎用樹脂に加え、エンジニアリングプラスチックや特殊ゴム、フッ素樹脂といった特殊な樹脂の拡販に注力していた。医薬を手放した後の稲畑産業が伸ばす先は、この講演の時点ですでに具体的に語られていた[10]

結果

持分法からの離脱と、医薬の消滅

営業譲渡の後も、稲畑産業は住友製薬の株主として医薬事業と資本の面でつながっていた。その関係も2005年4月に整理される。稲畑産業は住友製薬の株式を住友化学へ一部譲渡し、同社は持分法適用の対象から外れた。創業者・稲畑勝太郎氏が昭和初年にフランス製ワクチンの輸入で手をつけ、日本染料製造の総販売元として本格化させた医薬品の系譜は、これをもって稲畑産業の連結決算から姿を消した[11]

医薬を外した後の事業構成は、二度の分野再編を経て絞り込まれた。1999年4月に情報電子・住環境・化学品・合成樹脂・食品の5分野、2012年4月に情報電子・化学品・生活産業・合成樹脂・住環境の5分野、2019年4月には情報電子・化学品・生活産業・合成樹脂の4分野となった。2025年3月期のセグメント別売上高は合成樹脂4,015億円、情報電子2,640億円、化学品1,182億円、生活産業537億円で、上位2分野が連結売上8,378億円の約79%を占めた。1968年に売上の28%を担った医薬品の位置には、合成樹脂と情報電子が入った[12][13]

出典・参考

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