マリン事業の構造改革と船外機への集中

創業者が始めた「聖域」のマリン事業を、長谷川武彦社長はなぜ縮小に踏み切ったか

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時期 1998年9月
意思決定者 長谷川武彦 社長
論点 赤字のマリン事業の縮小と船外機への資源集中
概要
1998年9月、ヤマハ発動機が、創業以来赤字を垂れ流してきたマリン(舟艇)事業の構造改革を発表した経営判断。国内のボート製造工場を5から3へ集約し、志度工場(香川県)を閉鎖、ボート製造の面積と人員を半減する一方、需要が伸びる船外機へ資源を集中した。長谷川武彦社長の主導による。
背景
マリン事業は初代社長・川上源一氏が「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と始めた事業で、直営マリーナや免許教室まで手がけて市場そのものを育てようとした。だがマリーナ整備は漁業権の壁で進まず、バブル崩壊でボート需要も急減し、赤字を出しながらピーク時の生産体制が残っていた。
内容
5つのボート製造工場を天草・蒲郡・ヤマキ船舶化工の3工場へ集約し、ボート製造の保有面積約66,300平方メートルと人員約850人の半減を目指した。志度工場は1999年3月末に閉鎖。八代工場(熊本県)はボート製造から船外機の鋳造・加工・組み立て工場へ転換し、2002年に約10万台規模を計画した。
含意
「創業者へのしがらみ」から赤字を黙認してきたマリン事業に、初めて縮小のメスを入れた。二輪車依存から脱し、二輪・船外機を軸に幅広いエンジンを供給する「総合エンジンメーカー」への転換を掲げる判断で、理念と収益の矛盾に一つの決着をつけた。
筆者の見解

理念と収益、どちらを先に立てるか

この判断の中心にあるのは、「日本にマリンレジャーを広める」という創業以来の理念を、赤字を許容し続ける理由にはしない、と長谷川武彦社長が線を引いた点にある。マリン事業は、市場そのものを育てる川上源一氏の構想から始まり、直営マリーナや免許教室まで手がける壮大な事業であった。だが、育てようとした市場は漁業権や基盤整備の遅れに阻まれ、思い描いた普及率には届かなかった。理念が正しかったかどうかとは別に、その理念のために赤字を垂れ流し続けることの是非を、長谷川社長は問い直した。

縮小に踏み切れた条件が、本業の好調にあった点も見落とせない。二輪車の輸出で全社に余裕があるうちに手を入れたのは、追い詰められてからの撤退ではなく、選べる立場での取捨選択であった。創業者が始めた「聖域」を、後任の社長が収益の論理で組み替える——ここには、理念を掲げた創業と、それを引き継いで採算に向き合う経営との緊張がにじむ。船外機への集中はのちに北米中心の収益構造として実を結ぶが、市場を育てるという当初の志と、育たない市場から退くという判断のどちらを重く見るかは、多角化した事業を抱える会社に繰り返し問われていく。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

創業者が始めた市場創造の事業

ヤマハ発動機がマリン事業に進出したのは1960年にさかのぼる。ヤマハグループ中興の祖で初代社長の川上源一氏が、欧米のマリーナに立ち並ぶボートやヨットを見て「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と考えたのがきっかけであった。親会社の日本楽器製造(現在のヤマハ)とFRPの加工技術を開発し、そこに二輪車エンジンを改造した船外機を積んでモーターボートに仕立てた。自ら直営マリーナを建設し、船舶免許やヨットの教室を全国に設けて、市場そのものを育てようとした[1]

自ら市場を開いてシェアとブランド力を高めるやり方は、母体であるヤマハの「ヤマハ音楽教室」と同じ、グループの必勝の型であった。ところがマリンでは、一メーカーの力ではどうにもならない壁が多かった。日本の海岸の多くには漁業権があり、マリーナ建設には補償料がかかって維持費に跳ね返る。バブル期のレジャーブームで高級ボートが一時飛ぶように売れたものの、崩壊とともにブームは終わり、ボートの販売隻数は坂を転がるように減った。それでも同社は、ピーク時の生産体制を保ったままであった[2]

「聖域」と二輪好調という好機

マリンは売上の規模では二輪車に次ぐ柱でありながら、赤字を垂れ流し、二輪車で得た利益を食いつぶしてきた。「いつかは成長するはず」という思い込みが先行し、多少の赤字には目をつぶる「聖域」と化していたと長谷川武彦社長は認めた。改革を後押ししたのは、皮肉にも本業の好調であった。主力の二輪車の輸出が好調で全社に余裕が生まれたいまこそ手を打つ好機だと、長谷川社長は考えた。キャッシュフローや格付けといった指標を重んじる経営のなかで、赤字の放置は許容できなくなっていた[3]

決断

国内ボート工場を5から3へ

1998年9月24日、ヤマハ発動機は舟艇事業の構造改革を発表した。柱は、国内に5つあったボート製造工場の生産能力を集約し、ボート製造の保有面積約66,300平方メートルと、製造に従事する人員約850人の半減を目指すことにあった。天草工場と蒲郡製造、北海道のヤマキ船舶化工の3工場へ生産を寄せ、残る工場は閉鎖や転換の対象とした。赤字の元凶であった国内向けの舟艇事業に、初めて規模を縮める判断が下された[4]

象徴となったのが、漁船を主に造ってきた志度工場(香川県)の閉鎖であった。ボート生産の集約を図るにはスペースが狭く使用効率も低いとして、1999年3月末での閉鎖が決まった。面積12,000平方メートル、従業員120名の工場である。他工場への異動を提案されても応じた社員はわずかで、大半が早期退職を選んだ。地元で職を探す難しさから、永山茂元工場長はFRPの加工技術を生かした新会社「ワイエム志度有限会社」を興し、下請けの漁船を製造して従業員の受け皿とした[5][6]

船外機への資源集中

縮小の裏側では、伸びる領域への集中が進んだ。中・小型ボートの主力工場であった八代工場(熊本県)を、船外機の鋳造・加工・組み立て工場へ転換し、2002年に約10万台規模の生産を計画した。志度工場が担ってきた漁船・和船と八代工場の小型ボートは天草工場へ、八代の中型プレジャーボートは蒲郡製造へと移した。船外機はそれまで子会社の三信工業だけで造っていたが、八代を加えることで成長部門の生産能力を高めた。梶川隆取締役はこの改革を「当社の舟艇事業の規模と、市場規模のギャップをなくしただけ」と言い切った[7]

結果

総合エンジンメーカーへの脱皮

改革を終えたマリン事業の当面の目標は、舟艇事業の黒字化に置かれた。それが実現すれば収益面の重荷がなくなり、二輪車や船外機といった得意分野へいっそう資源を集められる。船外機はここ数年、欧米向けの輸出が拡大しており、赤字の舟艇を補ってきた。折しもトヨタ自動車が船外機市場へ参入し、欧米では環境規制も強まって、来るべき競争に備えるためにも船外機へ資源を寄せる必要があった。マリンの理念と収益の矛盾に、一つの決着がついた[8]

この構造改革が指し示したのは、二輪車への依存から脱し、幅広い種類のエンジンを供給する「総合エンジンメーカー」への道であった。ヤマハ発動機は二輪車エンジンの技術を応用してボートやバギー車へと事業を広げ、フォードやトヨタのスポーツカーにも自動車用エンジンを供給してきた。中核である空冷エンジンを武器に製品領域を広げて世界市場で戦うという同社本来の型に立ち返り、マリンの失敗をどこまで自らの強みへの集中に生かせるかが、次の成長を左右する課題となった[9]

出典・参考