航空事業への参入と撤退——東亜国内航空への出資から日本エアシステムの統合まで
鉄道会社の東急はなぜ空へ乗り出し、なぜ約30年で退いたか——多角化の理想と資本の現実
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- 概要
- 2002年10月、旧・東亜国内航空を継ぐ日本エアシステムが日本航空グループと経営統合し、東急は約30年におよんだ航空事業への関与を実質的に終えた。統合前に30.66%あった東急の日本エアシステム持株比率は、共同持株会社の設立時に約4%へ下がり、東急グループから分離した。
- 背景
- 東急の航空参入は、五島昇社長の事業家としての構想に発する。1971年5月、日本国内航空と東亜航空の合併で東亜国内航空が発足し、東急は26.27%の筆頭株主となった。だが発足直後の墜落事故と累積赤字で経営は苦境に陥り、五島昇社長は副社長の田中勇を社長に送り込んで再建にあたった。
- 内容
- 日本エアシステムはバブル崩壊後に経営が悪化し、筆頭株主の東急にとって重荷となった。2001年9月の米同時多発テロ後の航空不況のなか、日本エアシステムと日本航空は同年11月に共同持株会社の設立で基本合意し、2002年10月に統合を実施した。公正取引委員会は大手3社が2社に減る計画を条件付きで認めた。
- 含意
- 航空は資本集約的で行政の路線割り当てにも縛られ、鉄道・不動産で培った開発利益還元型の循環が働きにくかった。東急は2001年の石油販売終了と並べてこの撤退を非中核事業の整理に据え、鉄道・不動産・生活サービスへ経営資源を集めた。参入と撤退が一つの弧を描いた。
参入と撤退が描いた弧
鉄道会社であった東急が、なぜ空へ向かったのか。五島昇社長が航空に賭けたのは、鉄道を敷き、沿線を宅地に変え、その人口が乗客となって鉄道を潤すという多摩田園都市以来の拡張の論理を、国境を越えた路線網へ延ばそうとする試みであったとみることができる。だが航空は、機材と空港整備に巨額の資本を要し、路線の割り当ても行政の通達に握られていた。土地と住宅で先行投資を回収する開発利益還元型の循環は、空では働きにくかった。約30年、東急は筆頭株主として資本と人を注いだが、事業の採算は最後まで安定しなかった。
では、なぜ退いたのか。バブル崩壊後の再建と、同時多発テロ後の航空不況が重なるなかで、東急は非中核の航空を手放す判断に傾いた。鉄道と不動産という二つの柱に経営資源を集める流れのなかで、五島昇社長が唯一みずから育てた事業は、グループの外へ送り出された。参入と撤退は、一つの弧を描いて閉じた。多角化の理想と資本の現実がどこで折り合うのかという問いは、鉄道会社が沿線の外で稼ごうとするとき、いまも残るとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
五島昇の夢としての航空事業
東急が空へ乗り出した背景には、五島昇社長の事業家としての構想があった。1971年5月、日本国内航空と東亜航空が合併して東亜国内航空が発足し、東急は持株比率26.27%の筆頭株主となった。五島昇社長にとって航空は、先代から継いだ鉄道・不動産・観光・ホテル・百貨店の遺産のうえに、唯一みずからの手で育てた事業であった。「世界に東急の飛行機を飛ばすのが、僕の事業家としての夢だ」という言葉に、その意気込みがにじんでいた[1][2][3]。
だが東亜国内航空は、発足の直後から経営の重荷となった。1971年7月3日、函館郊外の横津岳に「ばんだい号」が激突して64人が死亡し、同社は10億円近い損失をこうむった。合併から3年後の1974年には累積赤字が70億円に達し、東急グループの「お荷物」とも呼ばれた。短距離をプロペラ機で結ぶ非効率な路線を多く抱え、失速寸前と評される経営が続いていた[4][5]。
「火中の栗」を拾う再建
五島昇社長は、この苦境に懐刀を送り込んだ。東急副社長の田中勇に東亜国内航空の社長就任を求め、1973年10月から田中勇社長のもとで再建を進めた。田中勇社長は東急副社長を兼ねたまま航空の再建にあたり、就任の当初は「火中の栗を拾うようなもの」とも言われた。上田丸子交通や伊豆急、越後交通をすでに立て直しており、東急グループの「再建屋」として知られた人物であった[6][7][8]。
田中勇社長は経費の節減と運賃の改定、路線再配分の要求で収支を立て直した。就任後の業績は上向き、1975年度に初めて当期利益を計上し、1978年度には累積赤字を一掃した。もっとも航空会社の事業領域は行政が定めていた。1972年7月の運輸大臣通達による「航空憲章」で、日本航空は国際線と国内幹線、全日空は国内幹線と一部ローカル線、東亜国内はローカル線と一部幹線と縄張りが決められ、短距離を担う同社には不利な枠組みが残った[9][10]。
決断
日本エアシステムへの商号変更とバブル後の重荷
東亜国内航空は1988年4月、本格的な国際線への参入を控えて日本エアシステム(略称JAS)へ商号を変更した。かつての大東亜共栄圏を連想させる「東亜」と、国際線就航にそぐわない「国内」を社名から外す判断であった。田中勇社長のもとで累積赤字を一掃した同社は、ローカル線中心の国内会社から、国際線をも担う航空会社への脱皮をめざしていた[11][12]。
だが1990年代、バブル崩壊後の日本エアシステムの経営は悪化し、筆頭株主の東急にとって重荷となった。東急自身も、バブル期に膨らんだリゾートや百貨店の不振から1995年3月期に特別損失429億円を計上し、非中核事業の整理へ転じていた。みずから育てた航空をどう扱うかは、再建を進める東急にとって避けて通れない課題となった[13]。
同時多発テロと日本航空グループへの統合
転機は2001年に訪れた。同年9月の米同時多発テロの後、航空需要は落ち込んだ。2001年11月、日本エアシステムと日本航空は共同持株会社の設立で基本合意し、発表した。東急は、両社が業務面で協力し路線網でも補い合う関係にあることから統合の効果が大きいと判断した。仮に日本エアシステムが全日本空輸と組めば市場の独占につながりかねないという配慮もあった[14]。
2002年10月、両社は株式移転によって共同持株会社「日本航空システム」を設立し、経営統合を実施した。公正取引委員会は同年4月23日、大手航空会社が日本航空・日本エアシステム・全日空の3社から2社に減るこの計画を、競争を実質的に制限するとはいえないとして条件付きで認めた。旧・東亜国内航空を継ぐ日本エアシステムは、こうして日本航空グループの一員となった[15][16]。
結果
出資比率30.66%から4%へ
経営統合は、東急の資本関係も変えた。統合前に30.66%あった東急の日本エアシステム持株比率は、共同持株会社の設立時には約4%へ下がり、東急グループから分離した。ただしクレジットカード事業をはじめ、事業面での連携はその後も残った。1971年の出資から数えて約30年におよんだ航空事業への深い関与が、ここで実質的に幕を閉じた[17]。
この撤退は単独の判断ではなく、非中核事業の整理の一環にあった。東急は2001年3月に石油販売事業を終え、翌2002年に航空事業からも退いて、鉄道・不動産・生活サービスへ経営資源を集める方針を固めた。バブル期に広げた多角化を清算しつつ、渋谷ターミナルの再開発へ資金を振り向ける財務の前提が、2000年代前半に整えられた[18]。
- 日経ビジネス 1974年6月24日号「失速寸前、東急が浮上に本腰」
- 日経ビジネス 1978年5月22日号「『大ダヌキ』の切り札はエアバス購入」
- 東急100年史(東急株式会社)
- 公正取引委員会(2002年4月23日)「(平成13年度:事例10)日本航空(株)及び(株)日本エアシステムの持株会社の設立による事業統合」
- 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】