露光装置の正面決戦を退き、後工程へ賭け直す
2025年実施世界首位を明け渡した半導体露光装置で、ニコンは勝てる土俵をどこへ移したか
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- 概要
- 半導体露光装置(ステッパー)で1980年代に世界首位を握ったニコンが、ArF液浸を経てオランダのASMLに逆転され、EUVの開発からも退いた。前工程での正面決戦を事実上手放し、勝てる土俵を、FPD露光の技術を転用した半導体後工程(アドバンストパッケージング)向けのデジタル露光へ移す。2025年7月、ニコン初の後工程向け装置DSP-100の受注を始めた経営判断である。
- 背景
- 1980年に傍流の特機部門から生まれたステッパーで世界の8割を握ったが、1990年代前半には後発キヤノンの追い上げでシェアが崩れ、1997年には最新機の品質苦情が新興顧客から相次いだ。国内顧客との密着で磨いた強みが、顧客地図の塗り替えの前で制約に転じた。
- 内容
- 半導体の重心が台湾・韓国へ移るなか、新興顧客と先行協業したASMLに前工程を奪われ、EUVでも先頭に立てなかった。ニコンは前工程を細く保ちつつ、フォトマスクを要さないデジタル(マスクレス)露光で後工程へ回り、生成AI向け先端パッケージの需要に照準を合わせた。
- 含意
- かつて会社の浮沈を左右した露光装置は、いまや一事業に縮んだ。正面から取り返すのではなく、隣接する後工程という別の土俵で光学と精密の技術を活かし直す——首位喪失への向き合い方として、放棄と再定義を同時に選んだ判断である。
首位を、正面ではなく隣で受け直す
この判断の核心は、失った首位を同じ土俵で取り返そうとしなかった点にある。ArF液浸からEUVへと進む前工程の微細化競争で、ニコンはASMLに逆転され、資金でも顧客基盤でも劣後した。そこで正面決戦に固執すれば、勝てぬ戦に資源を吸われ続ける。国内顧客密着という1980年代の成功方程式が、台湾・韓国への顧客地図の塗り替えの前で弱点に転じた——その痛点を認めたうえで、光学と精密という手持ちの強みが利く別の市場を選び直したところに、この転進の合理がある。
とはいえ、勝てる土俵とみた後工程にも、EUVから退いたキヤノンが先んじている。デジタル露光の優位がそのまま市場の獲得へ結びつく保証はなく、後発の不利は前工程で味わったばかりだ。首位を失った企業が、正面の奪還ではなく隣接市場での再定義に賭けるとき、過去の敗因をどこまで断てるか。DSP-100の投入はその最初の一手にすぎず、後工程での成否は本稿の時点でなお見通せない。栄えた事業の衰えを、撤退でも延命でもなく作り替えで受け止められるか——ニコンの選択は、その問いを生きた形で残している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
世界首位のステッパーに差した影
ニコンの露光装置は、カメラでも望遠鏡でもない傍流の特機部門から生まれた。1980年に国産初のステッパーNSR-1010Gを商品化し、当時世界市場の大半を握っていた米GCA製を駆逐して、1988年には金額で世界の8割超を占めた。ステッパーは経常利益の4〜6割を稼ぐドル箱となり、1990年3月期の史上最高益もこの装置が支えた。だが後発のキヤノンが加工面積やレチクル交換の速さで先行すると、金額シェアは1990年に68%へ、1991年下期には5割を割ったとも言われるまでに崩れていった[1]。
品質苦情と「冒険しない社風」の自認
シェアの綻びは、1997年に品質の綻びとして表面化する。この年、量産の始まった64メガDRAM向けに大量納入しようとした最新のエキシマレーザーステッパーが、半導体メーカーの要求する精度に届かず、技術者を総動員する事態となった。外部調達する光源装置の寿命や維持費にも不満が集まり、韓国の三星電子(サムスン)からは光源装置の寿命が保証期間より短いとクレームがついた。世界市場で約5割を保つ最大手にとって、次世代DRAMの生産を遅らせかねない綻びであった[2]。
同じ1997年に社長へ就いた吉田庄一郎は、ステッパー事業を立ち上げから率いた技術者で、カメラ事業には縁がなかった。当面の課題にステッパーの採算改善を挙げ、長期にはカメラ・ステッパーに続く3本目の柱を掲げたうえで、自社の体質そのものに手を入れようとした。「堅いが冒険しない」と評される社風を改め、活力と夢のある組織へ変えたいと語る。首位企業の内側で危機感が鈍りがちであることを、当の経営者が言葉にしていた[3]。
決断
ASMLの逆転と、EUVからの退場
1990年代後半、半導体の重心はサムスンやTSMCなど台湾・韓国の新興メーカーへ移った。これら新興顧客と早くから協業したASMLが即応の開発でシェアを伸ばし、国内顧客との密着に軸足を置き続けたニコンを追い越す。野口悠紀雄は、2010年ごろにASMLのシェアが約8割、ニコンは約2割へ逆転したと整理する。ArF液浸で優位を固めたASMLに対し、ニコンは次世代のEUVでも先頭に立てなかった。同じ記述はニコンが2010年代初頭にEUV開発から撤退したと伝えるが、正式な撤退表明の時期は本稿の時点で判然としない[4][5]。
前工程を丸ごと捨てたわけではない。ASMLとの争いは2006年に特許訴訟の和解へ至り、ニコンは和解金158億円を特別利益に計上している。近年も新プラットフォーム向けのArF液浸露光装置の新シリーズを開発し、2028年度に試作機、2030年以降に量産を見込む。ただ、ASMLが8割を握る前工程で正面から取り返すのは容易でない。勝ち目の薄い土俵に固執せず、勝てる土俵を別に探すという発想が、この局面で前へ出てくる[6][7]。
勝てる土俵を後工程へ移す
2014年に就いた牛田一雄社長は、半導体露光装置での「シェア奪回」を掲げる一方、祖業の光学と精密の技術は捨てないと繰り返した。この二つを両立させる出口が、後工程への転進だった。ニコンはフォトマスクを要さないデジタル(マスクレス)露光に、フラットパネルディスプレー(FPD)露光で培った技術を転用する。2024年10月に開発着手を表明し、翌2025年7月、ニコン初の後工程向けデジタル露光装置DSP-100の受注を始めた。解像度1.0μm(L/S)、600mm角の大型基板に対応し、市場投入は2026年度中を予定する[8][9]。
結果
縮む前工程と、後工程という追い風
露光装置を抱える精機事業は、もはや会社の浮沈を単独で握る規模ではない。2016年に断行した全社構造改革で半導体露光装置事業をいったん黒字へ戻したものの、それは縮小均衡の色が濃かった。2026年3月期の精機事業は売上高1672億円、営業損益は赤字に沈む。かつてカメラと並ぶ二本柱の一方として会社を支えた事業が、四つの戦略事業のなかの一つへと位置を下げた姿が、数字に表れている[10]。
一方で、後工程には追い風が吹く。生成AIの普及で複数の半導体を一つに束ねる先端パッケージの需要が伸び、その露光にニコンは商機を見た。もっとも同じ後工程では、前工程のEUVから同じく退いたキヤノンが先行し、先端パッケージ向けの世界シェアは台数ベースで100%近いとも言われる。フォトマスクが要らず大型基板を扱えるデジタル露光を武器に、ニコンはこの新市場へ後発で挑む。前工程で失った首位を正面から奪い返すのではなく、隣の土俵で受け直そうとしている[11]。
- 日経ビジネス 1992年2月10日号「ニコン。技術でキヤノンに後手 頼みのステッパーじり貧」
- 日経ビジネス 1997年10月6日号「ニコンの半導体製造装置に苦情相次ぐ 次世代DRAM生産が遅れる懸念も」
- 日経ビジネス 1997年10月13日号「吉田庄一郎氏[ニコン]登場 冒険しない社風から夢持てる組織へ」
- 日経産業新聞(2006年5月16日)「ASML社などからの特許訴訟和解金を特別利益に計上」
- PRESIDENT Online(2022年9月29日)野口悠紀雄「なぜカメラにこだわり続けたのか…ニコンとキヤノンが取り逃した『半導体露光装置』という巨大市場」
- EE Times Japan(2025年2月13日)「ニコン、新プラットフォーム向けArF液浸露光装置の新シリーズを開発」
- ニコン デジタル露光装置「DSP-100」の受注開始(2025年7月16日・ニュースリリース)
- 日本経済新聞(2025年9月16日)「キヤノンvsニコン競争再燃 生成AIで半導体露光装置『後工程』に商機」
- ニコン 有価証券報告書【役員の状況】/【セグメント情報】