組織形態の変更
日本企業の組織形態は、損益の責任を誰に負わせるかという問いへの回答として改められてきた。創業期の会社では、決定と損益の責任が創業者と創業家に集まっていた。1933年、松下幸之助氏は工場を製品別の三事業部に再編し、各事業部長へ製造から販売までの損益責任を負わせた。1965年には大成建設が大倉家の同族支配を解き、4本部を開設して社長は合議の議長に徹した。個人に集まった決定を分けるために、経営者は組織の単位を割った。
1970年代、石油危機と低成長のもとで、全社を一括した損益では事業ごとの採算が見えなくなった。日本電子は1973年に常務会を廃して三事業部制へ移り、キヤノンは無配転落を受けて事業部制で各事業の損益を明らかにした。三菱電機は生産都合の事業部を市場起点の4事業本部へ組み替え、積水ハウスは全国65営業所を独立採算の企業内企業とした。分権には揺り戻しも伴い、大成建設は1987年に支店へ委ねた権限を本社へ引き戻した。
1990年代には、本社と事業の間に重なった階層そのものが意思決定の遅れの原因と見られた。パナソニックは3期連続減益と炊飯器リコールを受けて事業本部制を廃し事業部を社長直轄とした。AGCは8事業本部に資本金と借入金を割り振る疑似分社制を導入し、HOYAは成長事業を社内カンパニー、成熟事業を子会社として本社を少人数の戦略組織へ縮小した。ただし組織の改編は業績の回復を保証しなかった。森永製菓は菓子事業本部を5分割した直後に11年ぶりの無配へ転落し、新潟鐵工所はカンパニー制へ移った翌年に会社更生手続を申し立てた。
2000年代に入ると、社内の区分は資本の関係と結び付いた。パナソニックは松下通信工業など5社を株式交換で完全子会社化したうえで、14の事業ドメイン別の経営へ移行した。2023年、荏原製作所は対面市場別の5カンパニー制へ移り、営業利益率10%以上とROE15%以上を同時に掲げた。
かつての事業部制は、事業ごとの損益を経営者が把握するための区分であった。荏原製作所の区分には、成長投資の配分と資本効率の目標が結び付けられている。荏原製作所は成長事業と基盤事業を分け、3か年で1,800〜2,250億円の成長投資を計画した。
財務諸表のどこを見るか
組織形態の変更は、有価証券報告書の「事業の内容」の系統図と、セグメント情報の報告セグメントの区分方法に現れる。区分を改めた期には、セグメント情報の注記に報告セグメントの変更と、変更後の区分で組み替えた前期の数値が載る。カンパニー制や分社では、「関係会社の状況」で子会社の増減を見る。権限の配分は、「コーポレート・ガバナンスの状況」の業務執行の体制に書かれる。