疑似分社制の導入による「鈍い大企業」からの脱却
8つの事業本部を独立採算の「疑似会社」に見立て、瀬谷博道社長はスピード経営をどう根づかせようとしたか
更新:
- 概要
- 1994年4月、旭硝子は8つの事業本部に全社の資本金・資産・借入金を割り振って独立採算の「疑似分社」とし、事業担当役員に「疑似社長」として予算・投資・人事の権限を委ねる独立事業部制を導入した。瀬谷博道社長のもとで進めた意思決定機構の改革である。
- 背景
- バブル崩壊後、ガラスと化学品の二本柱を需要減と価格下落が直撃し、1993年12月期には連結売上高が1兆円を割った。「作れば売れる」時代の緩さが市場の変化への対応を鈍らせているとの危機感が、改革の下地にあった。
- 内容
- 常務会を廃して数億円までの投資権限を事業担当役員に移し、課長までの人事権も委ねた。半期ごとの売上高・経常利益・キャッシュフローで事業部を点数化し、部長賞与に最大1.5倍の差をつける査定制度を組み合わせた。生え抜きでない人材を事業部長へ抜てきした。
- 含意
- 「鈍い大企業」から「俊敏な小企業集団」への変身を掲げた改革は、1997年の電子事業本部の即断即決体制や2002年のカンパニー制へと引き継がれた。単一の意思決定機構で管理できる事業規模を5000億円とみて、権限を事業部へ分散させる発想が根にあった。
大企業の速さという難題
この改革の核にあるのは、規模の大きさと意思決定の速さをどう両立させるかという問いである。旭硝子は、単一の指揮系統で扱える事業規模には限りがあるとみて、会社を独立採算の事業体の集まりに見立て、権限と責任を現場へ下ろした。作れば売れた時代に染みついた供給者優位の緩さを、業績評価と権限委譲の二つで断とうとした試みであったとみることができる。数字で報いる査定制度をあわせて入れた点に、意識だけでは体質は変わらないという判断がうかがえる。
もっとも、事業部へ権限を分ける発想は、素材メーカーとしての一体感や研究開発の長い時間軸とは、ときに緊張をはらむ。旭硝子はその後、電子事業の即断即決体制やカンパニー制へと組織を組み替え続け、2010年代にはガラス依存からライフサイエンスを含む事業構成の転換にまで踏み込んでいった。1994年の疑似分社は、その長い組み替えの出発点として置かれた一手であり、大企業が速さをどう手に入れるかという課題は、以後も形を変えて問われ続けたとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
二本柱を襲った不況と「ぬるま湯」の体質
旭硝子が大胆な改革に乗り出した背景には、バブル経済の崩壊後に一変した経営環境があった。ガラスと化学品という二本柱を、需要減と価格下落が同時に直撃した。1993年12月期は2期連続の減収で売上高が1兆円を割り、4期連続の減益で経常利益は過去最高だった1989年12月期の3分の1以下、263億円まで落ち込んだ。稼ぎ頭のガラス部門で価格競争力を誇る同社でも、収益力の悪化は避けられなかった[1]。
収益悪化の底には、長く続いた供給者優位の体質があった。瀬谷博道社長は、創業以来80年のガラス事業を「作れば売れる、売ればもうかる、ぬるま湯のような仕事」と振り返り、同じ考え方では生き残れないと社内に説いた。前年5月には「変革」の二文字と自らの顔を入れたポスターを3000枚刷って社内に張り出し、役員合宿を月に一度開いて問題点の洗い出しにあたった。改革は、まず経営陣の意識を変えることから始まった[2]。
決断
事業部を「疑似分社」とみなす独立事業部制
1994年4月、旭硝子は独立事業部制を導入した。8つの事業本部に全社の資本金・資産・借入金を割り振って損益計算書と貸借対照表を作り、それぞれを「疑似分社」とみなす仕組みである。各事業の担当役員は「疑似社長」として事業戦略と予算を作り、一定範囲までの投資や人事を裁量する。会社を一つの塊としてではなく、独立採算の事業体の集まりとして運営する組織へと組み替えた判断であった[3]。
独立採算には、業績を報酬へ映す査定制度を組み合わせた。事業部を半期ごとの売上高・経常利益・キャッシュフローの三要素で評価し、予算の達成度や全社への貢献度を加味して点数化する。最高120点・最低80点で、賞与の支給額に最大1.5倍の差がつく計算であった。権限と責任を事業部へ委ねた以上は結果を報酬へ映すべきだという瀬谷社長の考えに沿った制度で、対象は担当部長以上の幹部社員130人から始めた[4]。
権限の委譲と、生え抜きでない人材の抜てき
疑似分社を機能させる要は、権限の委譲にあった。従来は1億円以上の投資案件を常務会で決めており、決定まで3〜4週間を要していた。旭硝子はこの常務会を廃し、数億円までの投資権限を事業担当役員へ移した。課長クラスまでの人事権も同様に委ねた。単一の意思決定機構で管理できる事業規模を5000億円が限度とみて、判断を現場に近い事業部へ下ろす狙いであった[5]。
人事の面でも、旭硝子は前例を破った。自動車用ガラス出身の役員を建材担当に据えるなど、その事業の生え抜きでない人材を事業部長クラスに抜てきした。長い歴史のなかで初めての試みで、異なる価値観を持ち込んで縦割りの事業部を揺さぶる意図がうかがえる。研究開発でも中央研究所の人員を事業部側へ移し、市場に近いテーマを事業部で担う体制へと近づけた[6]。
結果
改革はスピード経営として引き継がれた
権限を事業部へ下ろす改革は、その後の組織づくりへと引き継がれた。1997年6月27日、旭硝子は電子事業本部を再編し、本部戦略会議で案件を即決する「即断即決体制」を敷いた。すぐには利益を生まないが有望な事業の芽を育てるビジネスディベロップメント部を新設し、中央研究所の一部を事業本部内へ移して顧客に近い開発体制を組んだ。1994年の疑似分社で示した「事業部に権限を集める」考え方を、電子事業で徹底した動きであった[7]。
意思決定を速める改革は、経営陣の交代を越えて続いた。1998年に就任した石津進也社長は、社長室長時代から「戦う社長室長」と呼ばれた改革の推進役で、就任後も各事業部や全国の生産拠点を回って社内改革を陣頭で指揮した。こうした一連の動きは、2002年に地域別・事業別の組織をカンパニー制へ組み替え、グローバル一体経営へ移す再編へとつながっていった。疑似分社は、その後の統治機構改革の出発点にあたる試みであったといえる[8][9]。
- 日経ビジネス 1994年10月31日号「旭硝子、疑似分社で速攻 『鈍い大企業』から変革目指す」
- 日経ビジネス 1997年7月7日号「『成功する多角化』の秘訣 旭硝子、日本合成ゴム、東日本旅客鉄道」
- 週刊東洋経済 1998年10月3日号「[ひと]石津進也 旭硝子社長 社内改革に陣頭指揮」
- 旭硝子 有価証券報告書【沿革】
- 旭硝子 アニュアルレポート2000(連結業績)