和地孝社長の企業風土改革とテルモ・ビジネス・ユニット導入

銀行から来た社長は、なぜ組織を固めず横ぐしを刺す道を選んだのか

更新:

時期 1995年6月
意思決定者 和地孝氏 テルモ 代表取締役社長
論点 縦割り・指示待ち体質からの脱却と自律的に動く組織への転換
概要
1995年、富士銀行出身の和地孝氏が社長に就任し、機能別の縦割り組織に横ぐしを通す独自の「テルモ・ビジネス・ユニット(TBU)」を導入した。社員一人ひとりが主役となる「アソシエイト経営」を掲げ、事業戦略よりも企業風土の改革を優先させた経営判断である。
背景
研究開発・生産・営業が別会社のように分かれた縦割り組織で部門間の壁が厚く、長くカリスマ経営者の下にあったことで指示待ちの体質が染みついていた。技術進歩の速いカテーテル分野で製品化の遅れが目立ち、1992年3月期には連結で赤字を計上していた。
内容
事業部制ではなく、機能別組織を残したまま製品群ごとに横断チームを組むTBUを採り、メンバーが二人の上司を持つ煩雑な仕組みをあえて選んだ。和地氏は答えをトップダウンで与えず、全国を回って社員と対話し、各自に考えさせることで自律的に動く社員を育てようとした。
含意
カテーテル事業が短期間でシェアを伸ばし、連結売上高・純利益とも和地氏就任の前後で大きく拡大した。基盤ビジネスと先端分野を両輪とする収益構造が整い、1999年の3M人工心肺買収など海外M&Aへ乗り出す土台となった。
筆者の見解

筆者見解

テルモのこの十年は、事業の中身を入れ替える前に、まず社員の動き方を変えた点に特徴があるとみることができる。TBUという煩雑な仕組みは、効率だけを見れば欠点の多い設計だが、二人の上司のあいだで自ら判断する経験を社員に強いる装置でもあった。答えを与えず考えさせるという和地氏のやり方は、短期には混乱を招いても、指示待ちの体質を内側から溶かす作用を持っていたとみられる。組織図の巧拙よりも、そこで人がどう動くかに賭けた改革であったといえる。

一方で、風土という言葉の成果を業績の数字だけで測るのは難しい。売上高や純利益の伸びには、カテーテルなど市場そのものの成長や、後の海外買収の寄与も混じっている。TBUがどこまで直接の要因であったかを切り分けることはできない。ただ、基盤ビジネスで稼ぎながら先端へ投じるという和地氏の収益設計は、その後のテルモが買収を重ねて治療領域を広げていく時期の土台になったとみることができる。風土改革が事業構造の転換にどう接続したのかは、なお通史のなかで見届ける価値がある論点である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

厚い壁と指示待ちの縦割り組織

和地孝氏が社長に就く前のテルモは、研究開発・生産・営業という機能別の組織がそれぞれ別会社のように運営される縦割りの会社であった。部門と部門のあいだの壁は厚く、若手社員が問題を見つけても誰に話せばよいか分からない状態が続いていた。前工程からバトンが渡ってこなければ次の部署が動けず、製品の開発には時間がかかった。技術進歩の速いカテーテルのような分野では、この遅さがそのまま競争力の差につながっていた[1]

組織の硬直に加え、社員の意識も課題であった。テルモはカリスマ的な経営者が二十五年間もトップにあったこともあり、上を見て仕事をする空気が社内に満ちていた。目標を与えられれば懸命に働くが、指示がなければ何をしてよいか分からない社員が多かった。業績の面でも、1992年3月期には連結で経常損失17億円、当期純損失77億円を計上しており、成長企業とは言い難い状態から和地氏の経営は始まっていた[2][3]

決断

事業部制ではなく横ぐしを刺す

メインバンクの富士銀行取締役から1989年にテルモ常務へ転じ、1995年に社長へ就いた和地氏は、縦割りの弊害を壊すことを最優先の課題に据えた。機能別組織の弊害を除く定石は製品群ごとの事業部制だが、和地氏はその道を選ばなかった。組織を固めると社員がそれに寄りかかり、業績を上げる手段であるはずの組織を守るために働くようになる、という危惧があったからである。事業部制は新たにビジネスごとの壁を生み、壁の置き換えに終わりかねないと見ていた[4]

和地氏が採ったのは、機能別の組織を残したまま製品群ごとに横ぐしを刺すテルモ・ビジネス・ユニット(TBU)であった。メンバーは開発や生産、販売の部署に籍を置いたまま、TBUの辞令を併せて受け、二つの命令系統と二人の上司を持つ。経理でダブルカウントが必要になるなど欠点は多いが、和地氏はそれを承知のうえで煩雑な仕組みに挑んだ。狙いは部門の壁を薄くすることと、複数の指示のなかから自ら選び判断して動く社員を育てることにあった。同時に、一人ひとりが主役となる「アソシエイト経営」を掲げ、答えをトップダウンで示さず、全国を回って社員と直接対話した[5][6]

結果

カテーテルの躍進と業績の拡大

改革の効果はまずカテーテル事業に表れた。海外メーカーの独壇場だった市場に1995年に本格参入すると、テルモは短期間で二割近いシェアを確保した。市場ニーズをくみ上げて製品化する速さが評価されたもので、その速さを支えたのがTBUによる部門横断の動きであった。業績も大きく伸び、連結売上高は1994年3月期の1112億円から1999年3月期に1606億円へ、連結純利益は同じ期間に6.7億円から148.3億円へと拡大した。指示待ちの空気に沈んでいた会社が、数字の面でも別の姿を見せ始めていた[7][8]

基盤と先端の両輪という収益構造

和地氏は風土改革と並行して、収益の土台となる事業構造を組み立てた。注射器や輸液といった地味な製品を「基盤ビジネス」と呼び、そこに改良の付加価値を重ねて安定した収益源とし、そこから上がった利益を先端分野へ投じる循環を回した。先端と基礎はフィフティ・フィフティだと繰り返し、両輪がかみ合ってこそ経営はうまくいくと語っている。2002年には手術室を備えた医療関係者向けの研修施設を神奈川県中井町に設け、一年半で七百人の医師が利用するなど、機器を使いこなす医師の育成にも踏み込んだ[9][10]

この収益基盤があったことで、テルモは先端で挑戦的な領域へ資源を振り向けられた。和地氏は1999年に米3M社の人工心肺事業を、2002年に人工血管の英バスクテック社を買収し、心臓血管という高難度の治療領域へ踏み込んだ。基盤からの収益がある仕組みを作ってあるからそれができる、と和地氏は説明している。売上高2000億円を超えた段階で、次の目標として売上高3000億円、営業利益率20%を掲げ、収益を軸に据えた経営の輪郭を示していた[11][12]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号「TUBで快走するテルモ 全員が主役経営 独自組織TBUが開花」
  • 週刊東洋経済 2004年3月20日号「KeyPerson 和地孝 テルモ社長 先端分野と基盤ビジネス 両輪がかみ合って成長する」
  • テルモ 有価証券報告書(1992年3月期・連結)
  • テルモ 有価証券報告書(1995年3月期・連結)

免責事項およびポリシー