テルモテルモ創業——独製体温計の輸入途絶に医学者と実業家が組んだ検温器国産化の受け皿会社

第一次大戦で独イェナ製体温計の輸入が途絶するなか、北里柴三郎 氏ら医学者と仁丹創業者・森下博 氏はどう国産検温器の受け皿会社を起こしたか

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時期 1921年9月
意思決定者 北里柴三郎 氏・宮島幹之助 氏(伝染病研究所系の医学者・発起人)ほか、森下博 氏 仁丹創業者・出資と医薬流通を担った実業家
論点 検温器(体温計)の国産化
概要
1921年9月、東京市下谷区に資本金50万円で赤線検温器株式会社が発足した。第一次世界大戦で独イェナ製体温計の輸入が途絶し、国内の医療現場が代替の供給源を失った事態を背景に、伝染病研究所系の北里柴三郎 氏・宮島幹之助 氏ら医学者と、仁丹創業者・森下博 氏ら医薬実業家が組んで起こした検温器専業の会社であった。翌1922年2月に第一号体温計を発売している。
背景
明治から大正初期の医療用水銀体温計は、独イェナのガラス工房を中心とする欧州製品の輸入に依存していた。1914年の第一次世界大戦勃発で対独貿易が遮断されると、医療現場・軍・公衆衛生行政のいずれも体温計の確保に迫られ、国産化の必要性が医学界と実業界で共有された。戦中戦後の数年を準備期間として、人材と技術を集める動きが医学者を中心に広がった。
内容
発起の医学的な正統性を北里柴三郎 氏ら医学者が、資本と医薬の流通網を仁丹創業者・森下博 氏ら実業家が供給する二層の構えで会社が発足した。社名の「赤線」は水銀体温計の目盛り線の精密な刻印を品質の差別化点として掲げた命名で、検温器という単一品目の品質を社の存在理由に据えた表明にあたる。創業者個人ではなく医師団による集団創業という性格を、初期の資本構成と人事に色濃く残した。
含意
検温器は創業から40年余り同社の主軸であり続け、有報沿革が体温計発売の次に記す製品は1963年1月のプラスチック製注射筒であった。この間に主力を耐久の計器から使い捨ての消耗品へ移し、1974年10月には検温器一本を示す社名を「テルモ株式会社」へ改めている。医師団が掲げた国産検温器の使命の重みが、社名変更を創業から半世紀にわたり留保させた。
筆者の見解

役割を分けた集団創業が残したもの

この創業が示すのは、一人の起業家ではなく医学者と実業家が役割を分けて起こした「国産化のための受け皿会社」という性格である。第一次大戦による輸入の途絶という外部の事態が、検温器の国産化を一事業者の商機を越えた医療・公衆衛生上の課題へ押し上げ、医学的な正統性と資本・流通が別々の担い手から供給された。個人の才覚よりも、立場の異なる者が課題を共有して集まった枠組みに、この創業の特徴があるとみられる。

もう一つ見えてくるのは、検温器という単一品目の国産化を掲げた創業の趣旨が、その後の半世紀にわたり社名として保たれた重みである。事業の実態が消耗品全般へ移ったのちも、赤線検温器という呼び名が1974年まで残された経緯には、創業時に据えた使命が長く社の自己認識を規定していたことが読み取れる。輸入代替という時代の要請から出発した会社が、その出自を名として長く抱えていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

独イェナ製体温計の輸入途絶

明治から大正初期の日本で医療用に使われた水銀体温計は、独イェナのガラス工房を中心とする欧州製品の輸入に依存していた[1]。検温器は精密なガラス加工と水銀の封入という工程を要する高度な製造物で、当時の国内ガラス工業の水準では量産化のハードルが高い品目であった。体温計は患者の観察や隔離の判断、統計の集計に用いる基礎計器で、感染症の診療の精度そのものを支える道具でもあり、その供給を一国からの輸入に頼る体制には脆さがあった。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると対独貿易は遮断され、医療現場や軍、公衆衛生行政のいずれにおいても体温計の確保が課題となった[2]。伝染病研究所長を務めた北里柴三郎 氏ら医学者は国産化の必要を訴え、戦中戦後の数年を準備期間として、製造の担い手となる人材と技術を集めていった。感染症の臨床と疫学を率いる立場では、患者の観察や隔離の判断に用いる体温計を国内で確保できるかどうかが、そのまま診療の精度に直結する課題であった[3]

決断

医学者と実業家が組んだ国産化の受け皿会社

1921年9月、東京市下谷区に資本金50万円で赤線検温器株式会社が発足した[4]。発起の中核は伝染病研究所系の北里柴三郎 氏・宮島幹之助 氏ら医学者で、検温器を感染症診療に欠かせない基礎計器と見て、その国産化に医学的な後ろ盾を与えた[5]。宮島 氏は北里 氏の門下で伝染病研究所に在籍した寄生虫学者にあたり、両氏が事業の趣旨に医学的な正統性を添えた。創業者個人による起業ではなく、医学界の指導者が名を連ねた集団創業という性格を、発足の枠組みそのものに帯びていた。

医学者の発起趣旨だけでは、当時の中堅企業に相当する資本金50万円は集まりきらなかった。出資の中核を担ったのが、仁丹の創業者として国内最大級の医薬卸・小売網を築いていた森下博 氏ら医薬実業家であった[6]。検温器は医薬品と同じ薬局や医療機関の経路で扱う品目で、森下 氏の販売網は製品の販路と運転資金の裏づけを供給した。医学的な正統性を医学者が、資本と流通を実業家が受け持つ二層の構えで、国産化の受け皿となる会社が発足した。

「赤線」を冠した社名と第一号体温計

水銀体温計の精度は、ガラス管内径の均一性、水銀封入量の安定性、目盛り線の刻印精度の三点で決まる。とりわけ目盛り線の刻印は読み取りの誤差を直に左右する工程で、欧州製品との品質差が出やすい部分でもあった。社名に冠した「赤線」は、目盛り線を朱で着色して読みやすくする工夫を製品の差別化点として掲げた命名で、検温器という単一品目の品質を社の存在理由に据える宣言でもあった[7]。赤線検温器という社名は、この単一品目の品質を対外的に約束する看板の役割を担った。

翌1922年2月、赤線検温器は第一号となる体温計を発売した[8]。欧州製検温器の分解研究で得た知見と国内ガラス工業の量産化の努力を組み合わせ、創業の翌年から国産検温器の供給を始めている。輸入が途絶した独製品に代わる国産の水銀体温計が、発足から半年ほどで市場へ届けられた。北里柴三郎 氏ら医学者が事業の医学的な正統性を、森下博 氏ら実業家が資本と流通網を、集めた技術陣が製造の実務を受け持つ三層の分担が、初期の経営を支えた[9]

結果

検温器一本の四十年

有価証券報告書の沿革が1922年の体温計発売の次に記す製品は、1963年1月のプラスチック製注射筒であった[10]。その間の四十年余りは新たな製品の記載がなく、検温器を主軸とする事業構成が長く続いたことがうかがえる。戦中は原材料の統制、戦後は医療品の統制という制約のもとで、赤線検温器は体温計を中核とする計測器と医療消耗品の枠に事業を収めていた。国内の医療市場の広がりに応じて生産を増やす時期が続き、事業の中心はあくまで検温器に置かれ続けた。

1963年1月に発売したプラスチック製注射筒は、赤線検温器の事業の性格を変える製品であった[11]。当時の国内ではガラス製注射器を煮沸して再利用するのが一般で、使い捨ての注射筒には抵抗が強かったが、検温器で蓄えた医療消耗品の量産の知見をプラスチックの成型へ転じ、国内では先行して市場を開いた。再利用に伴う肝炎などの感染の危険が指摘されるなか、欧米で進んでいた使い捨て化に国内で応えた製品でもあった。数十年使う耐久の計器から使い捨ての消耗品へと、事業の主力が移り始めた。

社名がテルモに改まるまで

社名の変更は、事業の実態から半世紀ほど遅れて訪れた。1963年の注射筒発売以降、赤線検温器は1964年に富士宮工場、1970年に愛鷹工場と量産の拠点を相次いで設け、[12]注射筒や輸液セットなどのプラスチック医療器具へ品揃えを広げた。対外的な事業の中身は消耗品全般へ移ったが、検温器一本を掲げた社名は据え置かれ、実態と呼び名の隔たりが年を追って広がっていった。使い手の医師と作り手の企業のあいだで、赤線検温器という呼び名は次第に事業の輪郭を映さなくなっていった。

1974年10月、会社は社名を赤線検温器からテルモ株式会社へ改めた[13]。創業から53年を経て、検温器一本を示す旧称が、消耗品全般へ広がった事業の実態とようやく結び直された。これに先立つ1971年にはベルギーと米国へ相次いで現地法人を設け、国内の検温器専業から海外市場へ足がかりを広げていた[14]。医師団が国産化を掲げて起こした検温器の使命が社名として長く保たれ、その呼び名を変える判断は半世紀にわたり留保されていた。

出典・参考
  • テルモ 有価証券報告書【沿革】
  • テルモ100年史
  • 森下仁丹社史
  • 北里柴三郎関係資料(北里研究所)

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