雇用の維持
日本企業の雇用維持は、理念である前に、人員の配置の問題として処理されてきた。1949年、国鉄は9万5018人の人員整理に踏み切り、下山事件と三鷹事件を招いた。この大量整理が招いた混乱の反動から、産業の転換期には人員を社外へ出さない方法が探られた。宇部興産は祖業の石炭鉱業から撤退する際に約7,000名を他部門へ配置転換し、常磐興産は坑内に湧く温泉を観光資源へ転じた。
1970年代半ばから、日本的経営という言葉が盛んに使われるようになった。長期雇用と年功による処遇は、石油危機を比較的軽微な影響で乗り切った理由として対外的に説明された。しかし同じころの経営者調査では、過半数が終身雇用の手直しを支持していた。年功で賃金が上がる制度では、社員の平均年齢が上がるほど人件費が増加し、しかも削減しにくい固定費になる。社員の高齢化は、やがて負担として意識され始めた。称賛と見直しの要求が同時期に並んだのは、制度の評価が対外的な説明と社内の採算とで割れていたためである。
その後の対応は、制度の本体に触れずに例外を積み増す方向をとった。中高年の社員を戦力として再配置する施策、正社員以外の雇用で人件費の一部を変動費に置き換える施策、年功と切り離して払う能力賃金。例外の積み増しで対応しきれなくなったのは、業界全体の需要が縮小したときであった。
1980年代後半、不況業種の人員削減は構造調整と呼ばれた。住友重機械工業は造船と製鉄機械で1,700人の希望退職を募った。社内に配置転換先を用意できない規模の削減を、公募で処理したのである。日本アイ・ビー・エムが1993年の初の赤字で三次にわたる人員削減へ進んだころ、人員削減にリストラという名が付いた。呼び名が構造不況から構造調整、リストラへ移るあいだに、削減の責任は業界から個々の会社へ移った。
以後、希望退職は業績が悪化していなくても使える調整手段になった。ホンダは退職特別加算金429億円を計上して早期退職を優遇し、青山商事は創業以来初の希望退職に踏み切った。ただし、雇用の調整が人員配置の問題である点は変わっていない。変わったのは、配置転換先を社内に用意するか、退職の費用を会社が負担して社外へ送り出すかという手段である。
財務諸表のどこを見るか
「従業員の状況」を年ごとに並べる。従業員数だけでなく平均年齢と平均勤続年数の動きを見れば、採用を絞ったのか退職を促したのかが分かれる。セグメント別の人員は、撤退した事業の人員がどこへ移ったかを示す。削減を伴う年度は特別損失に事業構造改革費用や割増退職金が計上され、注記に対象人数と募集期間が書かれる。退職給付に関する注記の退職給付債務の増減と、男女別賃金差異・育児休業取得率も併せて確かめたい。