「脱・指示待ち」で第2の創業——SAPS経営会議による組織改革
カリスマ創業者の後を継いだ高原豪久社長は、意思決定をどう現場へ開こうとしたか
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- 概要
- 2001年に創業者の長男として社長へ就任した高原豪久氏が、2003年に「SAPS経営会議」を導入し、指示待ち体質からの脱却と現場への権限委譲を柱に組織を作り替えた経営判断。就任から数年の一連の改革は「第2の創業」とも呼ばれた。
- 背景
- 創業者・高原慶一朗氏のカリスマ的な存在感のもとで、意思決定は社長に集中し、現場は受け身になりがちだった。国内市場の成熟を受けて東南アジア・中国への先行投資を加速するには、現地と現場の判断速度を上げる自律的な組織づくりが避けられなくなっていた。
- 内容
- SAPS経営会議は「スケジュール・アクション・パフォーマンス・スケジュール」の頭文字で、毎週月曜朝8時に役員から一般社員まで総勢200人近くがテレビ会議で参加する。全員が先週の反省と今週の目標を提出し、週替わりで3人が発表して社長らが助言、1時間で終える運営とした。
- 含意
- 属人的なカリスマ経営を、現場の顔が見える会議体という仕組みに置き換えた点に、この改革の核心があった。現場主義の商品開発や海外現地経営者への権限委譲と一体で、二代目体制の組織能力を形づくった。
カリスマの後に仕組みを置くということ
この改革が向き合ったのは、強い創業者の後をどう継ぐかという普遍的な難題であった。カリスマの号令で動いてきた組織は、その号令が消えたとき指示待ちに陥りやすい。高原豪久社長がSAPS経営会議で試みたのは、個人の求心力を、現場の顔が見える定例の仕組みへ置き換えることであった。全員が反省と目標を差し出し、社長も一参加者として同じ場に立つ——属人性を薄め、判断と情報を分散させる装置として読むことができる。
「第2の創業」という言葉は大仰にも響くが、二代目が担ったのは新事業の立ち上げというより、動き方そのものの再設計であった。現場が自ら考えて動く組織へと作り替える試みは、のちの海外分権経営の下地になったとみられる。ただし、仕組みが根づくほどに、創業者のような一点突破の推進力をどう補うかという問いも残る。カリスマを仕組みで置き換えることの利と、その裏で失われうるものとの兼ね合いは、承継を経た企業がいずれ向き合うものといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
カリスマ承継と指示待ち体質
2001年6月、高原慶一朗氏の長男・高原豪久氏がユニ・チャームの代表取締役社長に就任した。三和銀行勤務を経て1991年に入社し、10年間の社内経験を経ての親子間トップ交代であった。創業以来、生理用品から紙おむつ、多角化までを主導してきた創業者の存在感は組織内で大きく、意思決定が社長に集中しやすい体質が残っていた。就任した二代目社長は、その受け身の組織をどう自律的に動かすかという課題を引き受けた[1]。
交代の狙いは、1990年代に始まった東南アジア・中国への先行投資を加速させる権限を新社長へ集約し、意思決定の速度を上げる点にあった。ただし創業者はなお会長として2008年まで代表権を保ち、社内には「カリスマ」と呼ばれた前社長の影響が色濃く残っていた。指示を待つのではなく現場が自ら動く組織へ——二代目の改革は、この一点に向けられた[2]。
決断
SAPS経営会議という仕組み
2003年、高原豪久社長は「SAPS経営会議」を始めた。スケジュール(計画)・アクション(行動)・パフォーマンス(成果)・スケジュールの頭文字をとった会議で、毎週月曜朝8時から開かれる。東京・三田の本社役員会議室には社長以下の役員と部門長以上の幹部約60人が集まり、これに国内外の拠点をテレビ会議システムで結んで幹部や一般社員が加わり、総勢200人近くが同時に参加した。役員会議室のカメラがとらえる発言者の映像が各拠点へ流される仕組みであった[3]。
会議では参加者全員が先週の反省と今週の目標をパソコンのファイルに打ち込んで提出し、その中から週替わりで3人が内容を発表、社長と「実践リーダー」と呼ばれる経営幹部のうち3人が助言する。会議は毎回きっちり1時間で終わった。各部署の担当者の顔がわかり、仕事の中身や課題までを参加者が共有できる。カリスマと呼ばれた創業者の会長はこの会議にほとんど口を出さず、現場を活性化しながら次世代の幹部を育てる場として設計された[4]。
結果
現場主義の定着と海外分権への接続
SAPS経営会議は組織の運営の型として根づいた。担当者の顔と仕事の中身を全社で共有する運営は、指示を待つのではなく現場が自ら動くよう促した。この現場主義は商品開発にも通じていた。大人用紙おむつの開発者は介護施設に泊まり込み、排泄ケアの現場で得た声を製品へ反映してきた。1995年に世界初の大人用パンツ型「ライフリー リハビリ用パンツ」を送り出して以来、現場の要望を繰り返し聞く開発のやり方が受け継がれていた[5]。
現場に密着した開発と自律的な組織運営は、業績にも表れた。大人用紙おむつのシェアは本格参入前の10%前後から42%へと拡大し、2010年3月期の純利益は当時の最高を更新する見込みとなった。会議体を通じて情報と権限を現場へ開くこの方式は、その後の海外現地経営者への権限委譲——商品開発と価格決定を各国に委ねる分権経営——とも地続きであった。二代目が掲げた「脱・指示待ち」は、国内組織から海外事業へと及んでいった[6][7]。
自ら手を挙げる仕組み
自発性を促す装置は、会議体だけにとどまらなかった。同社は1999年に「自由と自己責任」を掲げる人事理念を定め、「自分のキャリアは自分で切り開くもの」という考え方を社内へ広げた。その実践編として2000年度に設けたのが「キャリアチェンジ制度」で、在籍1年以上の社員であれば、行きたい部門へ直接アピールできる。人事や上司の采配を待つのではなく、上司が預かり知らないところで選考が進み、落ちても上司には知らされない。指示を待つ働き方の対極にある、自ら手を挙げる異動の仕組みであった[8]。
制度は社員に受け入れられ、初年度は全社員約1,000人のうち79人が応募し、うち20代が約47%を占め、29人が実際に異動した。実施4年目には応募が33人へ減ったものの、20代の比率は約67%へ高まった。入社3年目までの離職率は1桁にとどまっていた。会議体を通じた情報の共有と、自ら異動先を選ぶ人事制度——二つの仕組みが噛み合って、指示待ちではなく現場が動く社風を下支えした。「脱・指示待ち」は、掛け声ではなく制度として組織へ埋め込まれていったとみることができる[9]。
- 週刊東洋経済 2007年3月10日号「役員室拝見 ユニ・チャームのSAPS」
- 週刊東洋経済 2010年3月27日号「モチベーション3.0 ユニ・チャーム」
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】