BIPROGY米ユニシスの保有株全売却による日米合弁体制の解消
資本を抜いても製品と商標は残る——47年目の合弁解消で何が変わったか
- 概要
- 2006年3月15日、ユニシス・コーポレーションが保有する日本ユニシス株式30,224,900株をすべて売却し、1959年9月の資本参加から46年余続いた米国本社の出資が消えた資本政策上の転換。
- 背景
- 日本ユニシスは1958年の設立以来、米スペリー(後のユニシス・コーポレーション)製コンピュータの日本総代理店として輸入販売と保守を担い、商標使用権と技術援助の提供も米国本社から受けていた。資本と取引の両面で米国側に結ばれた構造であった。
- 内容
- 資本の解消に先立つ2005年10月、両社は総代理店契約を改定し、商標使用権等の一括使用許諾料225百万ドルを2回に分けて支払う形へ切り替えた。技術支援は年額20百万ドル・5年間の契約とし、対価の払い方を株主関係から切り離した。
- 含意
- 資本は切れたが、日本総代理店としての輸入販売・保守と商標使用権の関係は続いた。2006年3月末の筆頭株主は三井物産の27.84%で、2012年8月に大日本印刷へ移る。社名から「ユニシス」が消えたのは16年後の2022年4月であった。
値段のついた独立
合弁の解消というと株式の移動が主役に見えるが、この判断で先に動いたのは契約のほうであった。2005年10月に商標使用権等の一括使用許諾料225百万ドルと年額20百万ドルの技術支援料を決め、その半年後に株式が売られている。親会社であるあいだは持分の裏側で処理されていた商標と技術の価値に、独立の直前で値札が付いたと読める。資本を抜くための片づけであり、同時に、抜いたあとも米国製品を売り続けるための備えでもあった。
独立の中身は、そのぶん限定的であった。2007年3月期の有価証券報告書はユニシス・コーポレーションを重要な仕入先として挙げ続け、外貨建仕入高130億5百万円が為替の影響を受けると記している。持株の27.84%を握る三井物産が残り、社長も同社の出身であった。資本の糸が切れてから、社名の「UNISYS」が消えるまでには、さらに16年かかっている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
資本・製品・商標の三重の結びつき
日本ユニシスと米国本社の関係は、株主としての結びつきだけではなかった。1958年3月の設立時にスペリー・コーポレーションと第一物産(現・三井物産)が協定を結び、翌1959年9月2日にスペリーの資本参加を受けた。事業の側では設立当初からスペリー製コンピュータの日本総代理店を務め、1974年7月の契約を1987年12月に更改して、輸入販売と保守、技術情報・技術援助の提供、商標使用権の設定という三点を1988年4月から期限を定めずに続ける形にしていた[1]。
この関係は財務にも表れていた。2007年3月期の有価証券報告書は、重要な仕入先との関係を事業等のリスクの一つに挙げ、ユニシス・コーポレーション製コンピュータの輸入販売と保守を行い、商標使用権の設定と技術情報・技術援助の提供を受けていると記す。同期の外貨建仕入高は130億5百万円にのぼり、為替の動きが仕入原価に直結した。株主・供給元・商標の許諾元という三つの立場を一社が兼ねる構造が、47年にわたって続いていた[2]。
商社出身の社長と、低い利益率
2005年6月、元三井物産常務取締役の籾井勝人氏が代表取締役社長に就任した。合弁のもう一方の親会社である商社から送り込まれた人事であった。就任時の日本ユニシスは、2006年3月期の連結売上高3,174億86百万円に対し営業利益50億65百万円、経常利益48億70百万円、当期純利益18億89百万円という水準にあった。売上高営業利益率は1.6%で、3,000億円を超える売上を持ちながら利益の薄い会社であった[3]。
経営の言葉も外へ向き始めていた。同社は「高成長企業集団への脱皮」を将来ビジョンに掲げ、市場・サービスビジネス・グループ・人材の4分野からなる基本戦略に加えて、研究開発の強化、三井物産との連携強化、M&Aの推進、海外も視野に入れた事業機会の拡大という4つの施策を挙げた。米国本社の製品を売る会社という説明では届かない領域へ手を伸ばす方針であり、その前提として資本と取引の関係を整理する必要があった[4]。
決断
2005年10月、商標と技術支援を有償契約へ切り替える
株式の売却より半年早く、両社は取引の対価の払い方を組み替えた。2005年10月、1987年12月と1991年3月に結んだ総代理店契約の一部を改定し、商標使用権等の設定・提供の対価として一括使用許諾料225百万ドルを定めた。契約は2005年4月1日にさかのぼって発効し、期限は置かない。支払いは2005年10月に112.5百万ドル、2006年10月に112.5百万ドルの2回に分けられた[5]。
技術支援も同じ改定で有償の契約に整えられた。サポート・サービスに必要な高度な技術支援と技術情報の提供について、対価を年額20百万ドル、契約期間を2005年4月1日から5年間とし、5年後の更新時に見直すと定め、精算は四半期ごととした。それまで親子関係のなかで扱われてきた商標と技術の対価に値段と期限を付けたわけで、株主でなくなったあとも取引を続けるための前提を整える改定であった[6]。
2006年3月15日、30,224,900株の売却
2006年3月15日、ユニシス・コーポレーションは保有する日本ユニシス株式30,224,900株を売却した。当時の発行済株式総数109,663千株に対しておよそ27.6%にあたり、1959年9月2日の資本参加から46年余で米国本社の出資は消えた。有価証券報告書の沿革は、この日付と株数を一行だけ記している。設立の協定に基づく合弁の一方の柱が、交渉の経緯も譲渡先も記されないまま抜けた形になった[7][8]。
売却後の株主名簿の先頭に立ったのは三井物産であった。2006年3月末時点で同社は30,524千株・27.84%を保有し、大株主の上位10名にユニシス・コーポレーションの名は残っていない。第2位以下は信託銀行の信託口や外国法人が並び、まとまった持分を持つ事業会社は三井物産だけとなった。1958年の協定で合弁を組んだ2社のうち、米国側だけが抜け、商社側が残る株主構成に変わった[9]。
結果
資本は切れ、取引は続いた
資本関係の解消は、事業の関係をそのまま解いたわけではなかった。2007年3月期の有価証券報告書は、ユニシス・コーポレーションを引き続き重要な仕入先として挙げ、同社が開発した3D-Visible Enterpriseという手法の導入を研究開発活動の成果として記している。前払費用は商標使用料の費用化などにより126億32百万円減り、支払手形及び買掛金は商標使用料の支払いなどにより210億30百万円減った。2005年10月の改定で決めた支払いが、資本を抜いたあとの財務諸表に現れた[10]。
株主構成の組み替えは自社株の使い方にも及んだ。2006年5月25日の取締役会は、全日本空輸との関係強化を目的として自己株式1,230,000株を1株1,765円、総額21億70百万円で同社へ譲渡することを決め、6月26日を払込期日とした。全日本空輸は2007年3月末の大株主に1,794千株・1.64%で並んでいる。米国本社が抜けた持分を、国内の取引先との関係づくりに充てる動きであった[11]。
三井物産27.84%の6年間と、その次
三井物産の持株数は売却後も動かなかった。30,524千株・27.84%という数字は2007年3月末、2008年3月末、2009年3月末の有価証券報告書に同じまま並んでいる。米国本社の撤退で合弁は片側だけが解け、残った商社が単独の大株主として日本ユニシスの上に立つ状態が続いた。籾井勝人氏(社長)を三井物産から迎えた人事も、この構図と重なっている[12]。
この構図が変わるのは2012年8月であった。三井物産は保有株式20,726,410株を大日本印刷へ譲渡し、大日本印刷が持株比率18.9%の筆頭株主となる。米国の製品会社、日本の総合商社、日本の印刷会社と、大株主の顔ぶれは半世紀のあいだに三度替わった。一方で、社名に残る「UNISYS」の商標については、海外で自由に使えない状態が2022年の社名変更まで解けなかったと平岡昭良氏(社長)が述べている[13][14]。
- 日本ユニシス 有価証券報告書(2006年3月期・連結)【大株主の状況】
- 日本ユニシス 有価証券報告書(2007年3月期)【沿革】【経営上の重要な契約等】【業績等の概要】【事業等のリスク】【財政状態及び経営成績の分析】【重要な後発事象】【発行済株式総数、資本金等の推移】
- 日本ユニシス 有価証券報告書(2008年3月期・2009年3月期)【大株主の状況】
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- 財界オンライン(2022年4月6日)「日本ユニシスはなぜ『BIPROGY』に社名を変更したのか?平岡社長に直撃!」