1970年に野澤徹氏と野澤宏氏が横浜市で設立した富士ソフトウエア研究所が起源。
1996年のエービーシとの合併や2001年のダイエー情報システム取得など、会社ごとの取得で規模を拡大した。SI事業で売上3,175億円を上げる大手だったが、2025年にKKRの買収で上場を廃止した。
前身は1970年設立の富士ソフトウエア研究所。
1996年にエービーシと合併して富士ソフトエービーシへ、2006年に富士ソフトへ商号を変更した。2024年に上場子会社4社を完全子会社化。2025年にKKRの公開買付けが成立し、投資ファンド傘下へ移行した。
1970年5月、野澤徹氏と野澤宏氏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した。資本金は3,000千円、本店は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地。発足当時の従業員はアルバイトを含めて5〜6人、年商は300万円程度にとどまった。1972年ごろまでの主要業務は、オペレーターの派遣を中心とする二次下請け・三次下請けが占めた。二次下請け・三次下請けは元請けの下で仕事を受ける立場を指し、富士ソフトウエア研究所は求められた人数のオペレーターを送り出した。受注そのものは安定していた半面、利幅は薄かった。
野澤宏氏は設立時に取締役として名を連ね、1973年5月に代表取締役社長へ就任した。同じ1973年から1975年にかけて、富士ソフトウエア研究所はオペレーターの派遣をプログラマーの派遣へ切り替え、元請け化に挑んだ。派遣はその後すべて請け負いに改め、時間あたりで人を出す契約から、成果物の完成に責任を負う契約へ移った。発足時にアルバイトを含めて5〜6人だった従業員は、この時期に100人を超えた。年商300万円で始めた富士ソフトウエア研究所の売上高は、1973年ごろから年率30〜40%で伸び、発展の節目もおおむね3年ごとに訪れた。
当時、国内のコンピューターの作り手は、IBM機に対抗できる機種づくりをめざして三つの陣営に分かれており、日本電気と東芝が"エイコス"、日立と富士通が"Mシリーズ"、三菱電機と沖電気が"コスモシリーズ"を手がけていた。元請けとなった富士ソフトウエア研究所は、このうちどの系列に付くかを選ぶ段に来ていた。最良と判断したのは三菱電機・沖電気の組で、三菱電機へ働きかけて受託化を進めた。野澤宏社長が最も苦しんだのはこの受託化の時期だったが、三菱電機向けの仕事はやがて積み上がり、総売上高の70%に達した。
ところが各コンピューター・メーカーが子会社政策を打ち出し、三菱電機も子会社を多数設けたため、売上の7割を1社に預けた富士ソフトウエア研究所の立場は弱くなった。そこで1社依存を改め、管理力と営業力を高めたうえで、富士通と日本電気からも受注した。取引先はその後も広がり、1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなど、コンピューター・電機・通信機・事務機・音響機器のメーカーに及んだ。時計やカメラを専業とする精密機械メーカー、メカトロニクスやマイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた。
マイコン専門のソフト・ハウスとして業務を組む道を富士ソフトウエア研究所が選んだ背景には、ハード屋の手詰まりと次世代機の見通しがあった。8ビットのマイコンが出てくると、4ビットのソフトまでは自前で書けていたハード屋(システム・ハウス)が追いつけなくなり、その注文が同社に入り始めた。16ビット機も遠くないうちに登場するとの話が届いており、特化の判断はこれを踏まえたものだった。自社商品の開発にも着手し、受託商品に加えて構造化プログラム開発支援ソフトウェア"COMPAL"、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ"SACK"を開発・販売した。このうち毛筆ワープロを最初に手がけたのは富士ソフトウエアである。
経営の基本理念には『サービスの原点はひのきから』を掲げ、品質・納期・機密保持の三つを守るべきものとした。顧客と社員の教育のため早くから教育部門を置き、インストラクター20人と15人程度の少人数教室4つを備えた。実習を中心に最短1カ月をかける講習会と出張教育も行った。マニュアル類や操作手引書の必要からソフトウェア開発の入門書・専門書の出版にも注力し、NTTと共同で"初級Ada"を出版した。1987年12月時点の技術者資格は情報処理試験の1種が7人、2種が101人。新規社員の採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人で、1988年4月は100人を予定した。
受注先を広げた富士ソフトウエア研究所は、1984年からの4年間で社名と本社と株式の売買の場を順に改めた。1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社へ商号を変更。1985年5月には本社新社屋の完成により本社を神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ移し、旧本社を芝浦事務所に改称した。1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録。これを機とする増資で資本金は9億4,910万円、従業員数は約700人となった。1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込んだ。前期が減益に転じたのは、急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の主要取引先が打撃を受け、受注が減って稼働率が一時的に下がったことによる。
1987年12月に日本証券業協会へ店頭売買銘柄として登録された富士ソフトウエアの株式は、その5年後の1992年10月1日、東京証券取引所市場第二部へ上場した。過去20数年間の売上高の伸びは平均で年30%に及び、利益率も1割前後を保ってきた。店頭公開した1987年には36億円だった売上高が、1992年には3倍強になっていた。野澤宏社長はこの成長率と1株当たり利益50円を組み合わせ、"3150"という経営の指標を立てた。次に狙うのは東京証券取引所市場第一部への上場であると、1992年11月18日の日本証券アナリスト協会での講演で語っている。
1992年3月期の実績では、取引先の中心を占めたコンピュータメーカーのうち富士通が首位で、日本電気、富士ゼロックス、三菱電機、日本ユニシス、ソニーが続いた。そのほか通信機器、事務機器、家電、精密機械、工作機械の各メーカーも取引相手に並んだ。同業にはメーカーとの系列が固定した会社が多かったなかで、富士ソフトウエアはマイクロコンピュータを中心に受託してきたため、複数のメーカーと幅広く付き合えた。業界での順位はソフトウエア開発で第16位、パソコンソフトでは第2位、1位との売上高の差は約100万円で、世界では第13位に位置した。
富士通、日本電気、シャープなど国内で売られる日本語ワープロのほとんどについて、その全体か一部を受託しており、マイコン向けソフトウエア開発で一番の得意分野はこのワープロを筆頭とする日本語処理だった。複写機が高級化・デジタル化・多機能化するにつれてソフトウエアの需要が膨らんだ分野で、同社はここにも強みを持った。一方、不況で顧客が経営を締めると受注にも響いたため、顧客頼みでなく自力で伸びるための自立製品の開発にも人員を振り向けた。1986年発売の毛筆ワープロは5万5,000本、WindowsとOS/2向けのc-FONTパックは1年足らずで約6,000本、COMPAL/Cプログラマーズ・キットは年間累計1,800本ぐらいを売った。それでも売上高構成比はシステム開発の受注が約95%で、自立製品・教育・出版などは約5%にとどまった。
神奈川県鎌倉市岡本に本社の新社屋が完成したのは1985年5月で、それまでの本社は芝浦事務所と名を改めていた。この鎌倉の本社のほか、三田事務所、芝浦事務所、横浜事務所、品川教育センターを開き、東京、鎌倉、厚木、八王子、我孫子、名古屋、大阪、大宮に事業所を構えた。野澤宏社長が競争力の要として挙げたのは、これらの拠点のおよそ半数が土地の安かった頃に買った自前のビルで、社員1人ごとに見た事業所のコストがごく小さく済む点だった。ソフトウエア技術者の教育も事業として手がけており、次世代OSであるWindows、UNIX、OS/2の受講者を世に出す"マイクロソフトユニバーシティ"と"パワフルセミナ"を設けたほか、インテル社と組んでマイコン教育を独占的に行った。
富士ソフトウエアは1994年度に入社した新入社員約100名に『DOS/Vパソコン制作コンテスト』を課した。5月中旬の配属後に各部署で3〜5名程度のチームを組み、そこへ先輩社員が支援役として加わった。出展条件は3つ置いた。CRT・キーボード・マウスをすべて含めて1台30万円を超えず中古部品も使わないこと、部品と本体ケースの調達を新入社員が行うこと、LANに接続してMS Windowsが快適に動作すること。1994年6月1日から6月30日までの1カ月を製作期間とし、7月12日に審査を行った。狙いは、机上の研修になりがちな新入社員教育を実践で補うことにあった。先輩と一緒に製作すればグループの意思疎通が自然に進み、部品を部品屋で集めれば商品知識や金銭感覚も身につく——取締役企画管理部長の生嶋滋実氏が置いた狙いである。
完成したパソコンは約30機に上った。コンテストにかけた費用は1,000万円弱で、作られたパソコンは残らず社内で使用した。本審査は役員6名が担い、社外からはマイクロソフト会長の古川享氏、日本アドバンス・テクノロジー常務の松本元吉氏、日本アイ・デー・ジー・コミュニケーションズ編集長の松浦義幹氏、ユント代表取締役の田中亘氏が審査委員として加わった。その結果、金賞は営業部の『Terminachan(ターミネーチャン)』に決まった。採用の面では、不況を理由に同業他社が採用を控えるなかでも、毎年120人前後を切らさず採り続けた。大学院・大学・高専・専門学校の間で偏りを出さず、全国の学校からおおむね一校一人ずつという振り分けである。
1995年2月下旬、東京、横浜、名古屋、大阪の各事業所にテレビ会議システムを入れた。導入の理由は効率化の阻害要因を取り除くことにあり、月2回の事業所長会議をはじめとする会議そのものと、会議に伴う移動時間を削ることを狙った。採用したのは松下通信工業製のテレミート100で、3カ所同報機能を標準装備し、以前から使っていた音声会議システムと組み合わせて多地点での会議を行った。会議資料はすべて電子化して参加者全員のパソコン上に提示し、そこで使う電子会議ソフトは自社で開発した。本社だけで毎週10時間は使い、創立記念日の5月15日に行う1年間の優秀プロジェクトの表彰では、代表者がテレビ会議でプレゼンテーションを行って審査を受けた。
商号と傘下の顔ぶれは1995年から1996年にかけて変わった。1995年6月、事業の規模拡大に伴い富士ソフト株式会社へ商号を変更し、あわせて品質保証の国際規格であるISO9001の認証を取得した。1996年9月には株式会社オーエー研究所を買収し、子会社に加えた。同年10月、株式会社エービーシと合併し、富士ソフトエービーシ株式会社へ商号を変更した。合併の相手となったエービーシは同業の独立系ソフトウエア会社で、両社が合併で合意したのは同年7月5日である。同時に株式会社エービーシサービスビューロ(現富士ソフトサービスビューロ株式会社)を子会社とした。
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事実根拠:出所(富士ソフト)