富士ソフト の歴史

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沿革

1970〜2025年 1970年に野澤徹氏と野澤宏氏が横浜市で設立した富士ソフトウエア研究所が起源。1996年のエービーシとの合併や2001年のダイエー情報システム取得など、会社ごとの取得で規模を拡大した。SI事業で売上3,175億円を上げる大手だったが、2025年にKKRの買収で上場を廃止した。

沿革

1970年に野澤徹氏と野澤宏氏が横浜市で設立した富士ソフトウエア研究所が起源。

1996年のエービーシとの合併や2001年のダイエー情報システム取得など、会社ごとの取得で規模を拡大した。SI事業で売上3,175億円を上げる大手だったが、2025年にKKRの買収で上場を廃止した。

1970年〜創業期三菱電機への70%依存からマイコン専業のソフト・ハウスへ

  1. 神奈川県横浜市に富士ソフトウエア研究所を設立
  2. 富士ソフトウエアに商号変更
  3. 神奈川県鎌倉市に本社を移転
  4. 日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
富士ソフト売上高

1988年〜成長期東証二部上場と富士ソフトエービーシへの改称

  1. 東京証券取引所市場第二部に上場
  2. 富士ソフトに商号変更
  3. オーエー研究所を子会社化
  4. エービーシとの合併により富士ソフトエービーシに商号変更
富士ソフト売上高

1997年〜成熟期110億円の買収による売上5倍の拡大と後継指名

  1. ケイアール企画(現富士ソフト企画)およびネオスソフトを子会社化
  2. ネオテックを子会社化
  3. 東京証券取引所市場第一部に株式指定替え
  4. ネオテックとネオスソフトの合併によりサイバーコムが発足
  5. ダイヤモンドコンピュータサービスとの合弁でダイヤモンド富士ソフトを設立
  6. サイバネットシステムを子会社化
  7. ダイエー情報システム(現ヴィンクス)を子会社化
  8. 子会社サイバネットシステムがジャスダックに上場
  9. ソフトウェア企画・サイバーコムなど4社の合併によりサイバーコムが発足
  10. マイカルシステムズ(現ヴィンクス)を子会社化
  11. しんわシステムサービスを子会社化
  12. 東京証券取引所のシステム子会社TCSを子会社化
  13. 富士ソフトに商号変更
  14. 富士ソフト秋葉原ビルが竣工
  15. 執行役員制度を導入
  16. 台湾に台北支店を開設
富士ソフト売上高2011年3月期1,347億円

2012年〜転換期売上3,175億円とKKRの1株9,850円による非公開化

  1. 大韓民国にソウル支店を開設
  2. 子会社ヴィンキュラム ジャパンとヴィクサスの合併によりヴィンクスが発足
  3. 中国に子会社富士軟件科技(山東)有限公司を設立
  4. 東京証券取引所プライム市場に移行
  5. 子会社富士ソフト・ティッシュエンジニアリングの全株式を売却
  6. 上場子会社4社を完全子会社化
  7. KKRの子会社FKによる株式公開買付けの開始
  8. ベインキャピタルによる対抗買収提案の表明
  9. KKRによる第1回株式公開買付けの成立
  10. ベインキャピタルの買収断念とKKRによる第2回株式公開買付けの成立
  11. 東京証券取引所プライム市場の上場廃止
富士ソフト売上高2024年12月期3,175億円

系譜

前身は1970年設立の富士ソフトウエア研究所。1996年にエービーシと合併して富士ソフトエービーシへ、2006年に富士ソフトへ商号を変更した。2024年に上場子会社4社を完全子会社化。2025年にKKRの公開買付けが成立し、投資ファンド傘下へ移行した。

系譜

前身は1970年設立の富士ソフトウエア研究所。

1996年にエービーシと合併して富士ソフトエービーシへ、2006年に富士ソフトへ商号を変更した。2024年に上場子会社4社を完全子会社化。2025年にKKRの公開買付けが成立し、投資ファンド傘下へ移行した。

1970年 1996年 2001年2004年 2006年 2024年 2026年 富士ソフトウエア研究所 1970年横浜で設立 エービーシ 1996年合併 富士ソフトエービーシ 1996年エービーシと合併 ダイエー情報システム 2001年子会社化 TCS 2004年東証系を子会社化 富士ソフト 2006年商号変更 KKR 2024年TOB成立
長期業績の推移 1987〜2025年

業績

富士ソフト:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2024年12月期

第1章 1970年〜 三菱電機への70%依存からマイコン専業のソフト・ハウスへ

1970年〜アルバイトを含め5〜6人で始めた二次・三次下請け

1970年5月、野澤徹氏と野澤宏氏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した。資本金は3,000千円、本店は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地。発足当時の従業員はアルバイトを含めて5〜6人、年商は300万円程度にとどまった。1972年ごろまでの主要業務は、オペレーターの派遣を中心とする二次下請け・三次下請けが占めた。二次下請け・三次下請けは元請けの下で仕事を受ける立場を指し、富士ソフトウエア研究所は求められた人数のオペレーターを送り出した。受注そのものは安定していた半面、利幅は薄かった。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1970年5月、野澤徹と野澤宏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した
    • [2]設立時の資本金は3,000千円、本店所在地は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [3]1970年の発足当時、従業員はアルバイトを含め5〜6人、年商300万円程度だった
    • [4]1972年ごろまでの主要業務はオペレーターの派遣を中心とする二次・三次下請けだった
    • [5]最初の1972年ごろまでの時期はオペレーターの派遣を中心とする二次、三次下請けが主要業務だった
    • [6]下請け中心の時期を「非常に安全だが、うまみも少なかった」と述べた

野澤宏氏は設立時に取締役として名を連ね、1973年5月に代表取締役社長へ就任した。同じ1973年から1975年にかけて、富士ソフトウエア研究所はオペレーターの派遣をプログラマーの派遣へ切り替え、元請け化に挑んだ。派遣はその後すべて請け負いに改め、時間あたりで人を出す契約から、成果物の完成に責任を負う契約へ移った。発足時にアルバイトを含めて5〜6人だった従業員は、この時期に100人を超えた。年商300万円で始めた富士ソフトウエア研究所の売上高は、1973年ごろから年率30〜40%で伸び、発展の節目もおおむね3年ごとに訪れた。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
    • [7]野澤宏は1970年5月に(株)富士ソフトウエア研究所取締役、1973年5月に代表取締役社長へ就任した
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [8]1973年から1975年にかけてプログラマーの派遣に切り替え元請け化に挑戦した
    • [9]派遣をすべて請け負いに切り替えた
    • [10]発足当時の従業員はアルバイトを含め5〜6人。1973年から1975年にかけて規模が膨らみ従業員数は100人を超えた
    • [11]発足当時の年商は300万円程度。1973年ごろから年率30〜40%の高成長を続け、発展の足どりは大体3年ごとが節目となっている
参考文献[1]-[11]
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1970年5月、野澤徹と野澤宏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した
    • [2]設立時の資本金は3,000千円、本店所在地は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [3]1970年の発足当時、従業員はアルバイトを含め5〜6人、年商300万円程度だった
    • [4]1972年ごろまでの主要業務はオペレーターの派遣を中心とする二次・三次下請けだった
    • [5]最初の1972年ごろまでの時期はオペレーターの派遣を中心とする二次、三次下請けが主要業務だった
    • [6]下請け中心の時期を「非常に安全だが、うまみも少なかった」と述べた
    • [8]1973年から1975年にかけてプログラマーの派遣に切り替え元請け化に挑戦した
    • [9]派遣をすべて請け負いに切り替えた
    • [10]発足当時の従業員はアルバイトを含め5〜6人。1973年から1975年にかけて規模が膨らみ従業員数は100人を超えた
    • [11]発足当時の年商は300万円程度。1973年ごろから年率30〜40%の高成長を続け、発展の足どりは大体3年ごとが節目となっている
  • 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
    • [7]野澤宏は1970年5月に(株)富士ソフトウエア研究所取締役、1973年5月に代表取締役社長へ就任した

1987年〜三菱電機への受託集中と、子会社政策が招いた1社依存の是正

当時、国内のコンピューターの作り手は、IBM機に対抗できる機種づくりをめざして三つの陣営に分かれており、日本電気と東芝が"エイコス"、日立と富士通が"Mシリーズ"、三菱電機と沖電気が"コスモシリーズ"を手がけていた。元請けとなった富士ソフトウエア研究所は、このうちどの系列に付くかを選ぶ段に来ていた。最良と判断したのは三菱電機・沖電気の組で、三菱電機へ働きかけて受託化を進めた。野澤宏社長が最も苦しんだのはこの受託化の時期だったが、三菱電機向けの仕事はやがて積み上がり、総売上高の70%に達した。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [12]日本のコンピューター・メーカーはIBM対抗機種の開発で三系列に分かれ、日電と東芝が「エイコス」、日立と富士通が「Mシリーズ」、三菱と沖電気が「コスモシリーズ」を開発した
    • [13]元請け化のあと、三系列のうち三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機へアプローチした
    • [14]三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機にアプローチし受託化を進めた
    • [15]三菱電機への受託化を進めた時期を「一番苦労した時期である」と述べた
    • [16]総売上高の70%を三菱電機に依存していた

ところが各コンピューター・メーカーが子会社政策を打ち出し、三菱電機も子会社を多数設けたため、売上の7割を1社に預けた富士ソフトウエア研究所の立場は弱くなった。そこで1社依存を改め、管理力と営業力を高めたうえで、富士通と日本電気からも受注した。取引先はその後も広がり、1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなど、コンピューター・電機・通信機・事務機・音響機器のメーカーに及んだ。時計やカメラを専業とする精密機械メーカー、メカトロニクスやマイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [17]各メーカーが子会社政策を強化し、三菱電機も子会社を多数つくったため、総売上高の70%を三菱電機に依存していた立場が弱くなった
    • [18]1社依存を改めることとして管理力・営業力の強化を図り、富士通・日本電気などからも仕事を受けた
    • [19]1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなどコンピューター、電機、通信機、事務機、音響機器のメーカー
    • [20]時計・カメラを専業とする精密機械メーカーやメカトロニクス、マイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた
参考文献[12]-[20]
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [12]日本のコンピューター・メーカーはIBM対抗機種の開発で三系列に分かれ、日電と東芝が「エイコス」、日立と富士通が「Mシリーズ」、三菱と沖電気が「コスモシリーズ」を開発した
    • [13]元請け化のあと、三系列のうち三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機へアプローチした
    • [14]三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機にアプローチし受託化を進めた
    • [15]三菱電機への受託化を進めた時期を「一番苦労した時期である」と述べた
    • [16]総売上高の70%を三菱電機に依存していた
    • [17]各メーカーが子会社政策を強化し、三菱電機も子会社を多数つくったため、総売上高の70%を三菱電機に依存していた立場が弱くなった
    • [18]1社依存を改めることとして管理力・営業力の強化を図り、富士通・日本電気などからも仕事を受けた
    • [19]1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなどコンピューター、電機、通信機、事務機、音響機器のメーカー
    • [20]時計・カメラを専業とする精密機械メーカーやメカトロニクス、マイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた

1987年〜8ビットマイコンで転じたファーム・ウェア専業と店頭登録

マイコン専門のソフト・ハウスとして業務を組む道を富士ソフトウエア研究所が選んだ背景には、ハード屋の手詰まりと次世代機の見通しがあった。8ビットのマイコンが出てくると、4ビットのソフトまでは自前で書けていたハード屋(システム・ハウス)が追いつけなくなり、その注文が同社に入り始めた。16ビット機も遠くないうちに登場するとの話が届いており、特化の判断はこれを踏まえたものだった。自社商品の開発にも着手し、受託商品に加えて構造化プログラム開発支援ソフトウェア"COMPAL"、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ"SACK"を開発・販売した。このうち毛筆ワープロを最初に手がけたのは富士ソフトウエアである。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [21]8ビットマイコンの出現で、4ビットのソフトを自分でやっていたハード屋(システム・ハウス)が手に負えなくなり注文が来るようになった
    • [22]16ビットマイコンが遠からずできるという情報から、マイコンに特化したソフト・ハウスとして業務を展開することとした
    • [23]受託商品だけでなく自社商品を開発することとし、構造化プログラム開発支援ソフトウェア「COMPAL」、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ「SACK」を開発・販売した
    • [24]毛筆ワープロは同社が元祖である

経営の基本理念には『サービスの原点はひのきから』を掲げ、品質・納期・機密保持の三つを守るべきものとした。顧客と社員の教育のため早くから教育部門を置き、インストラクター20人と15人程度の少人数教室4つを備えた。実習を中心に最短1カ月をかける講習会と出張教育も行った。マニュアル類や操作手引書の必要からソフトウェア開発の入門書・専門書の出版にも注力し、NTTと共同で"初級Ada"を出版した。1987年12月時点の技術者資格は情報処理試験の1種が7人、2種が101人。新規社員の採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人で、1988年4月は100人を予定した。

  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [25]経営の基本理念として「サービスの原点はひのきから」を掲げ、「ひ」は品質、「の」は納期、「き」は機密保持を指す
    • [26]以前から教育部門を設置し、インストラクター20人、15人程度の少人数教室を四つ持つ
    • [27]実習を中心に最短1カ月をかける教育を行い、各種講習会の開催・出張教育も実施した
    • [28]ソフトウェア開発関連の入門書・専門書の出版に取り組み、NTTと共同で「初級Ada」を出版した
    • [29]技術者の資格は情報処理試験1種が7人、2種が101人
    • [30]新規社員採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人、1988年4月は100人を予定

受注先を広げた富士ソフトウエア研究所は、1984年からの4年間で社名と本社と株式の売買の場を順に改めた。1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社へ商号を変更。1985年5月には本社新社屋の完成により本社を神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ移し、旧本社を芝浦事務所に改称した。1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録。これを機とする増資で資本金は9億4,910万円、従業員数は約700人となった。1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込んだ。前期が減益に転じたのは、急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の主要取引先が打撃を受け、受注が減って稼働率が一時的に下がったことによる。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1984年4月に商号変更、1985年5月に本社移転、1987年12月に株式を店頭売買銘柄として登録
    • [32]1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社に商号変更
    • [33]1985年5月、本社新社屋完成により神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ本社移転、旧本社は芝浦事務所に改称
    • [34]1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [35]1987年12月1日の店頭登録を機とする増資で資本金9億4,910万円、従業員数は約700人
    • [36]1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込む(1987年12月16日の講演時点の見込み)
    • [37]前期の減益は急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の取引先が打撃を受け、受注が減って一時的に稼働率が低下したことが主因
参考文献[21]-[37]
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
    • [21]8ビットマイコンの出現で、4ビットのソフトを自分でやっていたハード屋(システム・ハウス)が手に負えなくなり注文が来るようになった
    • [22]16ビットマイコンが遠からずできるという情報から、マイコンに特化したソフト・ハウスとして業務を展開することとした
    • [23]受託商品だけでなく自社商品を開発することとし、構造化プログラム開発支援ソフトウェア「COMPAL」、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ「SACK」を開発・販売した
    • [24]毛筆ワープロは同社が元祖である
    • [25]経営の基本理念として「サービスの原点はひのきから」を掲げ、「ひ」は品質、「の」は納期、「き」は機密保持を指す
    • [26]以前から教育部門を設置し、インストラクター20人、15人程度の少人数教室を四つ持つ
    • [27]実習を中心に最短1カ月をかける教育を行い、各種講習会の開催・出張教育も実施した
    • [28]ソフトウェア開発関連の入門書・専門書の出版に取り組み、NTTと共同で「初級Ada」を出版した
    • [29]技術者の資格は情報処理試験1種が7人、2種が101人
    • [30]新規社員採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人、1988年4月は100人を予定
    • [35]1987年12月1日の店頭登録を機とする増資で資本金9億4,910万円、従業員数は約700人
    • [36]1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込む(1987年12月16日の講演時点の見込み)
    • [37]前期の減益は急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の取引先が打撃を受け、受注が減って一時的に稼働率が低下したことが主因
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1984年4月に商号変更、1985年5月に本社移転、1987年12月に株式を店頭売買銘柄として登録
    • [32]1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社に商号変更
    • [33]1985年5月、本社新社屋完成により神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ本社移転、旧本社は芝浦事務所に改称
    • [34]1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録

第2章 1988年〜 東証二部上場と富士ソフトエービーシへの改称

1992年〜東証二部上場と日本語ワープロの受託

1987年12月に日本証券業協会へ店頭売買銘柄として登録された富士ソフトウエアの株式は、その5年後の1992年10月1日、東京証券取引所市場第二部へ上場した。過去20数年間の売上高の伸びは平均で年30%に及び、利益率も1割前後を保ってきた。店頭公開した1987年には36億円だった売上高が、1992年には3倍強になっていた。野澤宏社長はこの成長率と1株当たり利益50円を組み合わせ、"3150"という経営の指標を立てた。次に狙うのは東京証券取引所市場第一部への上場であると、1992年11月18日の日本証券アナリスト協会での講演で語っている。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1987年12月、(社)日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
    • [39]1992年10月、東京証券取引所市場第二部に株式を上場。講演では『去る10月1日に東証第2部に上場させていただいた』
  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [40]業績は過去20数年間、順調に推移し、売上高は年平均30%で伸び、利益率も1割ぐらいを確保してきた
    • [41]昭和62年の株式店頭公開時の売上高36億円に比べ、現在(1992年)はその3倍強
    • [42]1株当たり利益50円をクリアしていこうということで、「3150」を当社の経営の指標としている
    • [43]株式の東証一部上場をめざして頑張っていく考えである(平成4年11月18日・東京での講演)

1992年3月期の実績では、取引先の中心を占めたコンピュータメーカーのうち富士通が首位で、日本電気、富士ゼロックス、三菱電機、日本ユニシス、ソニーが続いた。そのほか通信機器、事務機器、家電、精密機械、工作機械の各メーカーも取引相手に並んだ。同業にはメーカーとの系列が固定した会社が多かったなかで、富士ソフトウエアはマイクロコンピュータを中心に受託してきたため、複数のメーカーと幅広く付き合えた。業界での順位はソフトウエア開発で第16位、パソコンソフトでは第2位、1位との売上高の差は約100万円で、世界では第13位に位置した。

  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [44]当社の顧客は平成4年3月期の実績でトップが富士通、次に日本電気、富士ゼロックス、三菱電機、日本ユニシス、ソニー
    • [45]そのほか通信機器、事務機器、家電、精密機械、工作機械などのメーカーが取引相手である
    • [46]同業にはメーカーとの系列が固定化されているものが多いが、当社はマイコン中心にやってきたので、いろんなメーカーとの幅広いつきあいが可能となっている
    • [47]業界における当社の順位は、ソフトウエア開発で第16位、パソコンソフトでみると第2位(1位との売上高の差は約100万円)、世界で第13位

富士通、日本電気、シャープなど国内で売られる日本語ワープロのほとんどについて、その全体か一部を受託しており、マイコン向けソフトウエア開発で一番の得意分野はこのワープロを筆頭とする日本語処理だった。複写機が高級化・デジタル化・多機能化するにつれてソフトウエアの需要が膨らんだ分野で、同社はここにも強みを持った。一方、不況で顧客が経営を締めると受注にも響いたため、顧客頼みでなく自力で伸びるための自立製品の開発にも人員を振り向けた。1986年発売の毛筆ワープロは5万5,000本、WindowsとOS/2向けのc-FONTパックは1年足らずで約6,000本、COMPAL/Cプログラマーズ・キットは年間累計1,800本ぐらいを売った。それでも売上高構成比はシステム開発の受注が約95%で、自立製品・教育・出版などは約5%にとどまった。

  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [48]富士通、日本電気、シャープをはじめとして、日本で販売されている日本語ワープロの全部あるいは一部を当社がほとんどやらせてもらっている
    • [49]当社はマイコンに関するソフトウエア開発のうち、ワープロに代表される日本語処理が最も得意としている分野だ
    • [50]当社は複写機関係にも非常に強い。最近は複写機も非常に高級化し、デジタル化、多機能化が進んで、ソフトウエアの需要が強くなってきた
    • [51]このところの不況で、当社の顧客にも経営を引き締めているものが多い。それが当社の受注にも影響してきたので、顧客に頼らず、自分の力で発展を図るべく、当社は自立製品の開発にも力を入れている
    • [52]毛筆ワープロは昭和61年に発売してから5万5,000本、c-FONTパックは1年足らずの間に約6,000本、COMPAL/Cプログラマーズ・キットは年間累計で1,800本ぐらい
    • [53]当社の売上高構成比は、システム開発の受注が約95%、その他が自立製品、教育、出版などを合わせて約5%
参考文献[38]-[53]
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1987年12月、(社)日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
    • [39]1992年10月、東京証券取引所市場第二部に株式を上場。講演では『去る10月1日に東証第2部に上場させていただいた』
  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [40]業績は過去20数年間、順調に推移し、売上高は年平均30%で伸び、利益率も1割ぐらいを確保してきた
    • [41]昭和62年の株式店頭公開時の売上高36億円に比べ、現在(1992年)はその3倍強
    • [42]1株当たり利益50円をクリアしていこうということで、「3150」を当社の経営の指標としている
    • [43]株式の東証一部上場をめざして頑張っていく考えである(平成4年11月18日・東京での講演)
    • [44]当社の顧客は平成4年3月期の実績でトップが富士通、次に日本電気、富士ゼロックス、三菱電機、日本ユニシス、ソニー
    • [45]そのほか通信機器、事務機器、家電、精密機械、工作機械などのメーカーが取引相手である
    • [46]同業にはメーカーとの系列が固定化されているものが多いが、当社はマイコン中心にやってきたので、いろんなメーカーとの幅広いつきあいが可能となっている
    • [47]業界における当社の順位は、ソフトウエア開発で第16位、パソコンソフトでみると第2位(1位との売上高の差は約100万円)、世界で第13位
    • [48]富士通、日本電気、シャープをはじめとして、日本で販売されている日本語ワープロの全部あるいは一部を当社がほとんどやらせてもらっている
    • [49]当社はマイコンに関するソフトウエア開発のうち、ワープロに代表される日本語処理が最も得意としている分野だ
    • [50]当社は複写機関係にも非常に強い。最近は複写機も非常に高級化し、デジタル化、多機能化が進んで、ソフトウエアの需要が強くなってきた
    • [51]このところの不況で、当社の顧客にも経営を引き締めているものが多い。それが当社の受注にも影響してきたので、顧客に頼らず、自分の力で発展を図るべく、当社は自立製品の開発にも力を入れている
    • [52]毛筆ワープロは昭和61年に発売してから5万5,000本、c-FONTパックは1年足らずの間に約6,000本、COMPAL/Cプログラマーズ・キットは年間累計で1,800本ぐらい
    • [53]当社の売上高構成比は、システム開発の受注が約95%、その他が自立製品、教育、出版などを合わせて約5%

1994年〜自社ビルの購入と新入社員のパソコン自作コンテスト

神奈川県鎌倉市岡本に本社の新社屋が完成したのは1985年5月で、それまでの本社は芝浦事務所と名を改めていた。この鎌倉の本社のほか、三田事務所、芝浦事務所、横浜事務所、品川教育センターを開き、東京、鎌倉、厚木、八王子、我孫子、名古屋、大阪、大宮に事業所を構えた。野澤宏社長が競争力の要として挙げたのは、これらの拠点のおよそ半数が土地の安かった頃に買った自前のビルで、社員1人ごとに見た事業所のコストがごく小さく済む点だった。ソフトウエア技術者の教育も事業として手がけており、次世代OSであるWindows、UNIX、OS/2の受講者を世に出す"マイクロソフトユニバーシティ"と"パワフルセミナ"を設けたほか、インテル社と組んでマイコン教育を独占的に行った。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1985年5月、本社新社屋完成、本社移転(神奈川県鎌倉市岡本960番地1)、旧本社は芝浦事務所に改称
  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [55]事業の拠点として、神奈川県鎌倉市に所在する本社のほか、三田事務所、芝浦事務所、横浜事務所、品川教育センターと、事業所を東京、鎌倉、厚木、八王子、我孫子、名古屋、大阪、大宮に展開している
    • [56]これらの約半分は地価が非常に安い時期に購入した自社ビルであり、社員1人当たりの事業所費用が極めて低いことも、当社の競争力を強めている大きなポイントだ
    • [57]このほか、ソフトウエア技術者の教育事業、最新のソフトウエア技術に関する解説書等の出版事業も手掛けている
    • [58]Windows、UNIX、OS/2という次世代OSを多くの人に理解し使いこなしてもらうため、当社は「マイクロソフトユニバーシティ」と「パワフルセミナ」を開設。マイコンでは世界で最強のインテル社とも提携し、そのマイコンの教育も独占的にやらせてもらっている

富士ソフトウエアは1994年度に入社した新入社員約100名に『DOS/Vパソコン制作コンテスト』を課した。5月中旬の配属後に各部署で3〜5名程度のチームを組み、そこへ先輩社員が支援役として加わった。出展条件は3つ置いた。CRT・キーボード・マウスをすべて含めて1台30万円を超えず中古部品も使わないこと、部品と本体ケースの調達を新入社員が行うこと、LANに接続してMS Windowsが快適に動作すること。1994年6月1日から6月30日までの1カ月を製作期間とし、7月12日に審査を行った。狙いは、机上の研修になりがちな新入社員教育を実践で補うことにあった。先輩と一緒に製作すればグループの意思疎通が自然に進み、部品を部品屋で集めれば商品知識や金銭感覚も身につく——取締役企画管理部長の生嶋滋実氏が置いた狙いである。

  • Omni-management(NOMA経営情報誌)1995年「(ケース3)富士ソフトウェア――"パソコンを自分で作る"実践教育で多大な成果」(編集部)
    • [59]昨年度(1994年度)入社の新入社員を対象に「DOS/Vパソコン制作コンテスト」を実施。昨年度、富士ソフトウェアに入社したのは約100名
    • [60]5月中旬に配属が行われた後、各部署ごとに3〜5名程度のチームが編成された。このチームに、先輩社員が加わり、支援するかたちをとった
    • [61]出展条件は三つ。CRT、キーボード、マウスなどをすべて含み1台当たりの費用が30万円を超えないこと、ただし中古部品は使用しないこと。部品および本体ケースの調達は新入社員が行うこと。LANに接続でき、MS Windowsが快適に動作するための諸条件を満たすこと
    • [62]昨年6月1日〜6月30日の1カ月間をパソコンの製作期間とし、7月12日には社外の人間も審査委員として加わり、審査を行うというもの
    • [63]通常、4月に入社した社員は1カ月半の研修を行っているが、机上のものになりがち。「その点、実践はいいですね」(取締役企画管理部長・生嶋滋実氏)
    • [64]「先輩と一緒にパソコンを製作すれば、自然とグループのコミュニケーションが進む。部品を部品屋で集めようとすれば、商品知識や金銭感覚も身につきます」(取締役企画管理部長・生嶋滋実氏)

完成したパソコンは約30機に上った。コンテストにかけた費用は1,000万円弱で、作られたパソコンは残らず社内で使用した。本審査は役員6名が担い、社外からはマイクロソフト会長の古川享氏、日本アドバンス・テクノロジー常務の松本元吉氏、日本アイ・デー・ジー・コミュニケーションズ編集長の松浦義幹氏、ユント代表取締役の田中亘氏が審査委員として加わった。その結果、金賞は営業部の『Terminachan(ターミネーチャン)』に決まった。採用の面では、不況を理由に同業他社が採用を控えるなかでも、毎年120人前後を切らさず採り続けた。大学院・大学・高専・専門学校の間で偏りを出さず、全国の学校からおおむね一校一人ずつという振り分けである。

  • Omni-management(NOMA経営情報誌)1995年「(ケース3)富士ソフトウェア――"パソコンを自分で作る"実践教育で多大な成果」(編集部)
    • [65]こうして完成したパソコンは約30機
    • [66]昨年のDOS/Vパソコンコンテストの費用は1,000万円弱。しかも、製作したパソコンはすべて社内で使っている
    • [67]本審査は7月12日に行われた。役員6名に加え、社外審査委員としてマイクロソフト会長の古川享氏、日本アドバンス・テクノロジー常務の松本元吉氏、日本アイ・デー・ジー・コミュニケーションズ編集長の松浦義幹氏、ユント代表取締役の田中亘氏が参加した
    • [68]見事金賞に輝いたのは、営業部の「Terminachan(ターミネーチャン)」と名づけられたマシン
    • [69]富士ソフトウェアでは、同業他社が不況で採用を手控えているときに、毎年120人前後、コンスタントに新人を採用してきた。大学院、大学、高専、専門学校からバランスよく採用するだけでなく、全国的に振り分け、だいたい一校一人くらい採用するようにしている
参考文献[54]-[69]
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1985年5月、本社新社屋完成、本社移転(神奈川県鎌倉市岡本960番地1)、旧本社は芝浦事務所に改称
  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
    • [55]事業の拠点として、神奈川県鎌倉市に所在する本社のほか、三田事務所、芝浦事務所、横浜事務所、品川教育センターと、事業所を東京、鎌倉、厚木、八王子、我孫子、名古屋、大阪、大宮に展開している
    • [56]これらの約半分は地価が非常に安い時期に購入した自社ビルであり、社員1人当たりの事業所費用が極めて低いことも、当社の競争力を強めている大きなポイントだ
    • [57]このほか、ソフトウエア技術者の教育事業、最新のソフトウエア技術に関する解説書等の出版事業も手掛けている
    • [58]Windows、UNIX、OS/2という次世代OSを多くの人に理解し使いこなしてもらうため、当社は「マイクロソフトユニバーシティ」と「パワフルセミナ」を開設。マイコンでは世界で最強のインテル社とも提携し、そのマイコンの教育も独占的にやらせてもらっている
  • Omni-management(NOMA経営情報誌)1995年「(ケース3)富士ソフトウェア――"パソコンを自分で作る"実践教育で多大な成果」(編集部)
    • [59]昨年度(1994年度)入社の新入社員を対象に「DOS/Vパソコン制作コンテスト」を実施。昨年度、富士ソフトウェアに入社したのは約100名
    • [60]5月中旬に配属が行われた後、各部署ごとに3〜5名程度のチームが編成された。このチームに、先輩社員が加わり、支援するかたちをとった
    • [61]出展条件は三つ。CRT、キーボード、マウスなどをすべて含み1台当たりの費用が30万円を超えないこと、ただし中古部品は使用しないこと。部品および本体ケースの調達は新入社員が行うこと。LANに接続でき、MS Windowsが快適に動作するための諸条件を満たすこと
    • [62]昨年6月1日〜6月30日の1カ月間をパソコンの製作期間とし、7月12日には社外の人間も審査委員として加わり、審査を行うというもの
    • [63]通常、4月に入社した社員は1カ月半の研修を行っているが、机上のものになりがち。「その点、実践はいいですね」(取締役企画管理部長・生嶋滋実氏)
    • [64]「先輩と一緒にパソコンを製作すれば、自然とグループのコミュニケーションが進む。部品を部品屋で集めようとすれば、商品知識や金銭感覚も身につきます」(取締役企画管理部長・生嶋滋実氏)
    • [65]こうして完成したパソコンは約30機
    • [66]昨年のDOS/Vパソコンコンテストの費用は1,000万円弱。しかも、製作したパソコンはすべて社内で使っている
    • [67]本審査は7月12日に行われた。役員6名に加え、社外審査委員としてマイクロソフト会長の古川享氏、日本アドバンス・テクノロジー常務の松本元吉氏、日本アイ・デー・ジー・コミュニケーションズ編集長の松浦義幹氏、ユント代表取締役の田中亘氏が参加した
    • [68]見事金賞に輝いたのは、営業部の「Terminachan(ターミネーチャン)」と名づけられたマシン
    • [69]富士ソフトウェアでは、同業他社が不況で採用を手控えているときに、毎年120人前後、コンスタントに新人を採用してきた。大学院、大学、高専、専門学校からバランスよく採用するだけでなく、全国的に振り分け、だいたい一校一人くらい採用するようにしている

1995年〜テレビ会議の導入とエービーシとの合併

1995年2月下旬、東京、横浜、名古屋、大阪の各事業所にテレビ会議システムを入れた。導入の理由は効率化の阻害要因を取り除くことにあり、月2回の事業所長会議をはじめとする会議そのものと、会議に伴う移動時間を削ることを狙った。採用したのは松下通信工業製のテレミート100で、3カ所同報機能を標準装備し、以前から使っていた音声会議システムと組み合わせて多地点での会議を行った。会議資料はすべて電子化して参加者全員のパソコン上に提示し、そこで使う電子会議ソフトは自社で開発した。本社だけで毎週10時間は使い、創立記念日の5月15日に行う1年間の優秀プロジェクトの表彰では、代表者がテレビ会議でプレゼンテーションを行って審査を受けた。

  • ビジネスコミュニケーション 1995年Vol.32 No.6「事例に学ぶTV会議の有効活用-2- 富士ソフトウェア(株)──TV会議と電子会議で効率化を徹底」(編集部)
    • [70]同社がテレビ会議システムを導入したのは'95年2月下旬である。東京、横浜、名古屋、大阪の各事業所に導入している
    • [71]テレビ会議システムの導入理由は「効率化の阻害要因を取り除くため」につきる。効率化の阻害要因とは、会議そのもの及び会議に伴う移動時間等のロスを指す。事業所長会議が月に2回ある
    • [72]同社が採用した松下通信工業製のテレミート100は、3カ所同報機能を標準装備している。従来から使用していた音声会議システムを組み合わせることによって多地点会議を可能としている
    • [73]同社の場合は会議資料をすべて電子化し、会議参加者全員のパソコン上に資料を提示している。使用されている電子会議ソフトは自社開発したものである
    • [74]本社だけでも毎週10時間は使用されている。同社では創立記念日の5月15日に1年間の優秀プロジェクトの表彰を行っている。今年はそれぞれのプロジェクトの代表者がテレビ会議を通してプレゼンテーションを行い審査を受けた

商号と傘下の顔ぶれは1995年から1996年にかけて変わった。1995年6月、事業の規模拡大に伴い富士ソフト株式会社へ商号を変更し、あわせて品質保証の国際規格であるISO9001の認証を取得した。1996年9月には株式会社オーエー研究所を買収し、子会社に加えた。同年10月、株式会社エービーシと合併し、富士ソフトエービーシ株式会社へ商号を変更した。合併の相手となったエービーシは同業の独立系ソフトウエア会社で、両社が合併で合意したのは同年7月5日である。同時に株式会社エービーシサービスビューロ(現富士ソフトサービスビューロ株式会社)を子会社とした。

  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1995年6月、事業の規模拡大に伴い富士ソフト株式会社に商号変更。ISO9001(品質保証の国際規格)認証取得
    • [76]1996年9月、株式会社オーエー研究所買収、当社子会社化
    • [77]1996年10月、株式会社エービーシと合併、富士ソフトエービーシ株式会社に商号変更
    • [79]1996年10月、株式会社エービーシサービスビューロ(現富士ソフトサービスビューロ株式会社)子会社化
  • M&A Online 1996年7月5日
    • [78]独立系ソフトウエア会社の富士ソフトが、同業のABCを合併することで合意した(1996年7月5日)
参考文献[70]-[79]
  • ビジネスコミュニケーション 1995年Vol.32 No.6「事例に学ぶTV会議の有効活用-2- 富士ソフトウェア(株)──TV会議と電子会議で効率化を徹底」(編集部)
    • [70]同社がテレビ会議システムを導入したのは'95年2月下旬である。東京、横浜、名古屋、大阪の各事業所に導入している
    • [71]テレビ会議システムの導入理由は「効率化の阻害要因を取り除くため」につきる。効率化の阻害要因とは、会議そのもの及び会議に伴う移動時間等のロスを指す。事業所長会議が月に2回ある
    • [72]同社が採用した松下通信工業製のテレミート100は、3カ所同報機能を標準装備している。従来から使用していた音声会議システムを組み合わせることによって多地点会議を可能としている
    • [73]同社の場合は会議資料をすべて電子化し、会議参加者全員のパソコン上に資料を提示している。使用されている電子会議ソフトは自社開発したものである
    • [74]本社だけでも毎週10時間は使用されている。同社では創立記念日の5月15日に1年間の優秀プロジェクトの表彰を行っている。今年はそれぞれのプロジェクトの代表者がテレビ会議を通してプレゼンテーションを行い審査を受けた
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1995年6月、事業の規模拡大に伴い富士ソフト株式会社に商号変更。ISO9001(品質保証の国際規格)認証取得
    • [76]1996年9月、株式会社オーエー研究所買収、当社子会社化
    • [77]1996年10月、株式会社エービーシと合併、富士ソフトエービーシ株式会社に商号変更
    • [79]1996年10月、株式会社エービーシサービスビューロ(現富士ソフトサービスビューロ株式会社)子会社化
    • [78]独立系ソフトウエア会社の富士ソフトが、同業のABCを合併することで合意した(1996年7月5日)

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出典・参考 7件
出典・参考
  • 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
  • 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
  • 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
  • 証券アナリストジャーナル 1992年12月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会講演)
  • Omni-management(NOMA経営情報誌)1995年「(ケース3)富士ソフトウェア――"パソコンを自分で作る"実践教育で多大な成果」(編集部)
  • ビジネスコミュニケーション 1995年Vol.32 No.6「事例に学ぶTV会議の有効活用-2- 富士ソフトウェア(株)──TV会議と電子会議で効率化を徹底」(編集部)
  • M&A Online 1996年7月5日

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